あれはお前だったに違いない

水木レナ

あれはお前だったに違いない

 春。

 いつも思う。

 ――あれはお前だったに違いない。


 恋をした。

 幼い小学生の時分だった。

 キミは、妖怪だった。






翡翠ひすい先生……!」


 その娘は息を切らせていた。


望海のぞみハルカ、廊下を走らない!」


「先生が足速いんだもん! 先生が悪いよ!」


「ばかもん!」


 俺はニヤッとしてしまう口元を、出席簿で隠しながら年寄りの威厳を示す。

 自分で威厳と言っているくらいなので、そういう威厳らしさは、実はない。

 こういう馬鹿みたいな理屈をこねてくるのが、高校生らしからぬ幼さで、なんというか……。


 まあ、かわいくもなくもない。


「で、どうした、望海」


「先生、世界史がぜんぜん頭に入らないんだー」


 なぜ、苦手分野を選択授業に選ぶ。

 もう、三年といったら受験に特化して当然なのに。

 望海ハルカは現国はトップクラスに近いのに、同じ日本語で習うはずの社会科が全般的に苦手だ。


「数学は得意なのになあ、おまえは」


「数学は芸術だもん!」


「ん! 合格。世界史ができなくても、俺はお前の名前の横にマルしてやる」


 少し胸のすく回答だ。

 数学は芸術。

 すばらしい。


「先生……?」


 望海はこぼれ落ちそうな黒目を輝かせて、ひっそりとこちらを見つめている。


「また、あの娘のとこ、行くの……?」


「んん? なんのことだ?」


「行かないで!」


「おいおい。HRは終わった。次は授業だ。世界史は社会科教室で聞いてこい」


「先生――!」


 おいおい、おおげさな奴だ。

 望海の絶叫が、廊下に響き渡る。

 そんな声をあげてたら、将来喉枯れするぞ。


「またな」


 俺はゆっくりと渡り廊下を行く。

 どうしてだろうな。

 望海に行くなと言われて初めて、俺は足が重くなった。


 どうしてだろうな。

 俺の定位置はプール塔の横。

 職員センターから離れてる。


 彼女に逢うためだったのに。

 この紫ノ宮しのみや高等学園に来たのは、俺の意思で。

 俺の、憧れの職業でもあり……父に連れられて迷いこんだ、紫ノ宮キャンパスで出逢ったキミを、忘れないためだった。


 なのに……。





『あたし、大学行く!』


 望海ハルカが言い張った。


『受かったら、あたしとつっ、つきあったら、いいんじゃない……っ?』


 俺は笑って相手にしなかった。


『本気だよ! 一年のときから、翡翠先生のこと、すっ、好きだったもん!』


 望海は言った。


『だからあ、苦手な数学だってべんきょーして、百点とったでしょ?』


 そんなんじゃあ、他で百点とっている生徒には負けるだろ。


『……本気……だもん!』


 まあ。

 二年の三学期に、そんな打ち明け話をされてもな。





「悪い……せんせーは、採点に補習授業に忙しんだよん!」


 赤ペンをくわえて、マルつけ、マルつけ。

 お……。

 今回も接戦だったな。


 カタ。

 数学教室の職員部屋の戸が鳴る。

 もう、こんな時間か。


「いいよ……出ておいでよ」


 すらりとセーラー服の女子がすべりこんで来る。

 視界に映る墨の色。

 紫ノ宮学園では、黒いセーラーは着用しない。


「今回、どうしたの? こんなミスはいただけないな」


「ん……」


 もじもじっと、彼女はうつむいている。


「まあ、キミにとっては、テストなんて、遊びみたいなもんだろうから」


「……ッ」


「顔をあげたね」


 さらりとした黒髪、パグ犬のような黒曜の瞳。

 ふんわりと、やさしげな手足。

 奇異なのは、その姿が例年変わらないということ。


 だけど、わかってる。

 そんなキミに、俺は……。


「触れないという、約束だったわ……」


「ああ、わかってる」


 顔を近づけたのは、わざとだ。

 そうしてキミを身近に置いて、感じていたい。

 俺は俺のエゴで、ここにキミといる。


「望海ハルカは善戦している……?」


「キミが気にすることでもないだろ」


「いいえ、気になるの」


「言っとくが、二、三問数式をくらいで、望海は騙されないよ」


「望海ハルカには、大学へ行ってもらわねば、こまるわね」


「キミは……いや。単位は取得してもらわなきゃ困るし、できれば進路は叶えて欲しいが」


「でしょ?」


「しかし、今や相対評価じゃないんだ。個人の絶対評価に時代は変わってるんだよ。わざと負けるゲームは相手にとってシャクなだけだ」


「そうたいひょうか……ぜったいひょうか……」


「要するに、百点は百点。得点すれば、みんな一等ってこと」


「望海ハルカは、進学できるの……?」


「まだ、わからない。あいつ、無理してるし、これ以上、口出せないしなぁ」


「口、出すべきよ……」


「あ? なんでだい?」


「わからないひとね……」


 彼女は姿を消した。

 文字通り、気配すら残さず。

 あとには桜の……花びら?






「あーっ! 翡翠先生、またこんなところ、汚してー!」


 スパーン! といっそ清々しく部屋の戸を開けて、望海は床の塵をほうきで掃いていく。


「あ……それは」


 片づけないでいいんだ、と言おうとしたが。


「……胸くそわりーなっ!」


 望海は床に散った、白い花弁を掃いてゆく。

 ……ふう。


「で?」


 こんどはなんだと、俺は聞いた。


「物理が、物理がー!」


「ふむ。ガリレオか? ケプラーか? わからないのはなんだ」


「……どっちもー……ていうか、ぜんぶ!」


「まいったね」


 俺は、さすがに苦笑い。


「そんなら、物理教室へいけばいいじゃないか」


「あの先生には興味もてないー。うわーんっ」


「あのな……選り好みするなよ、教師を」


「ううん! 先生はわかってない。その教科を好きになれるか、生徒が頑張れるかは、先生との相性がものを言うのー!」


「……ぅん、まあな」


 わからないこともない。

 だが、俺は相性の良くない教師に出逢ったためしがない。

 そう言うと、望海ハルカは。


「先生はほんとーに、生徒の気持ちがわかってないんだね! まあ、翡翠先生は、あたしの気持ちだけ、わかっててくれればいいんだけど……」


「おいおい。やめてくれよ」


 おいはらうと、目を細めて笑って言う。


「満点とれる教科の先生のところへなんて、好きでなきゃ、なんであたしが来るのさ」


 バッキューン! と右手で撃つフリをする。

 ヒラリと白いセーラー服が、舞う。

 こういうやつだから。


「そういうの、勘弁してくれる?」


 笑ってしまうから。


「んもう! チョームカツク!」


「ああ、はいはい」


 望海は、部屋の片隅へ行って、コーヒーカップを出している。


「いつも、悪いね」


「本当だよ!」


 なぜか……怒っているな。

 別に頼んではいないんだが。

 望海はポットから湯を出して、インスタントの粉コーヒーを溶かしていく。


「望海は、甘いコーヒーを淹れるのが好きだよなあ」


 がちゃん!


 望海は、乱暴にカップをソーサーと一緒に、机の上に置き……。

 俺は睨まれた……。


「この男女平等の世界で、あたしが生徒であって、先生の分のコーヒーまで淹れてる事実を理解してください!」


「?」


「ありがとうって言って?」


「ああ……」


「ちゃんと、言ってよ! ばか!」


「望海ィ、先生にむかってばかとはなんだ……」


「ふんだ!」


 おえ。


「やっぱ、甘いよ……」


「糖分とると勉強や仕事がはかどるの! 真面目に先生のことを考えてる証拠!」


 アピールだったのか、わからなかった。


「すまんすまん。望海がそこまで気を遣ってくれているとは、思わなかった」


「そおよ! 糖分足りないと、健康にもよくないんだからね! ……別に先生を糖尿にして、不治の病のモテないくんにしよーなんて、思ってないんだからね!」


「……」


 俺はだまって、コーヒーカップを押しのけた。


「飲まないの? あたしの愛情のこもった……」


「糖尿になりたくないからな……」


 あ! 本音が出てしまった。


「なによっ!」


 俺は窓の外を見る。

 あれはいつ頃だったろうか……。

 やはり、春だった。


 キミに逢いたくて、俺はここへ来たんだ……なのに。

 流されてしまいそうな、日常に閉口している。

 窓の外で、座敷童のキミが、桜の後ろで手を振っている。


 どうして……?


「せーんせい!」


 ちゅっ!


「うわあ!」


 ガタターン!


 俺は椅子からずっこけた。


「おっ、お、おまー、今! なにしたっ!」


「初キスは、先生がよかったんだもーん!」


 あいつは……。

 ヒラリと白いスカートをひらめかせ、するっと戸を潜り抜けて行ってしまう。


「襲われたのは初めてだ……!」


 ああ。

 俺のもてあますばかりだった長い初恋を終わらせたのは……。


 ――あれはお前だったに違いない。



おしまい

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