終端抵抗
凹辺凸々
前編 / 青
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雲ひとつない哀しいほど鮮明な青空の下に広がる、茫漠たる白い砂丘。それ以外の形容は許されず、如何なる修飾も意味を成さない。ありとあらゆる舞台装置を取り外され丸裸になった劇場のように、空には太陽も月も輝く星々もなく、地には木も岩も生い茂る草もない。対象的な二つの要素の他には一切を排された、天と地を満たす青と白だけが在る場所では、「言い表す」ことに何の必要性が生じるだろうか。意味は不要であり、意味のないものは存在できない。故に何もかもあり得ない。そういう、純粋な法則が支配している世界。
そこではただ〈機械〉だけが意味を持つ。
青と白の接触面、観測によって初めて生じる架空の境界たる地平線。無限に広がるように見え、実際にそのように在るそれは、ただ一点だけ綻んでいる。天と地の隔たりが実感を失い、二色が溶け、しかし海面に流れ込んだ油のように完全には混交しないままになっている地点。法則を僅かに機能不全に陥らせ、無意味の中の意味を自ら秘匿しながら、天と地のどちらにも属さぬ永遠の
〈機械〉は自らの名前を知らない。ただその有り様は識っている。
頂点のひとつをほんの僅かに地表から浮かせ、空中に静止する灰色の四面体。〈機械〉はそのように見える。比較対象が存在しない広漠な世界においても、なお巨大であると理解できる威容。三次元空間の概念すら取り除かれ、そこが平面であったならば、天地を分け隔て支える
それは大きさがまちまちの、二、三十枚程度の板状のパーツが複雑に組み合わさり形成された巨大構造物だった。一部が直接接着していたり、ワイヤー状の物質で括られたものもあれば、本体と同様に他の構造と一切物理的に接触せず、そうあるのが自然かのように座標を固定したまま浮遊しているパーツもある。中心にはひときわ大きな、砂岩のようにザラリとした表面を持つ卵型の物体が、他のパーツによって外部から守られるように配置されていた。そうして組み上がった構造は、湖面に立ったまま眠りから醒めない鈍重な巨鳥か、冬の訪れに備え身を固めた蓑虫を連想させる。
冬。無限の冬の中で〈機械〉は自閉していた。
おのれが「いつ」からここにいるのか。時間の流れが存在しない空間だけの環境で、そんなものは馬鹿げた問いだし、〈機械〉にははなから関係のない話の筈だった。
……その結論に変化が生じたのは、やはり砂のためだろうか。
「足元」に広がる白い大地。変化に乏しい外界に対して、〈機械〉が唯一興味を示す対象がそれだった。砂丘を構成する唯一の要素である混じり気のない細かい砂の粒子は、雲のひとつも浮かばない、ぽっかりと開いた無意味な大穴のような空から一切の原理原則を無視し、雪のように(雪なんて見たこともないというのに!)ひらひらと落ちてきて、音もなく堆積するのだった。そうして〈機械〉は、停滞する退屈な青空よりも、砂の堆積によって僅かずつ変化と起伏が生じる大地の方に魅力を感じるようになった。
白い砂粒は、光すら存在を許されない限定世界の中でも輝きを放つ。〈機械〉はその、溶けてしまいそうに儚いが、一つひとつが持つ確かな輝きを熱心に観測しては、色のない卵と鎧翅によって構成された巨大なおのれの、永劫変わらぬであろう在り方と比較するのだった。
──ああ、それは。あの空のように。
──哀しいことなのかも、しれない。
「いやはや、そいつは大した
声がした。人の声だ。
〈機械〉は声を知らなかった。〈機械〉は言葉を知らなかった。〈機械〉は人間を知らなかった。流れない時のように、降るはずのない雪のように、世界にとって有り得ない概念を〈機械〉が習得することは不可能の筈だった。
それなのに、〈機械〉は声を識っている。〈機械〉は言葉を識っている。天と地を知るように、〈機械〉は人間を識っている。
〈機械〉はそれを、怖ろしいと思った。
「怖ろしいだって?そりゃ無いぜ、鯨が獲物を海水ごと丸呑みするのを呑み込んでから怖れるかよ?……ま、鯨の性分なんて俺の知ったことじゃないが」
人間の、男だ。
言葉を発したのは、〈機械〉の真下から少し離れた砂の丘に佇む、くたびれた象牙色の
疲労の色は、見えない。それどころか容貌も表情も、黒い立方体の箱のような機械にすっぽりと包まれて、観察することができなかった。
「しかし全知全能の資格者がこうも無知蒙昧の極みとはね。ことここに至っては何もかも手遅れとはいえ……気の毒ではある」
滔々と言葉を吐きながら男は〈機械〉に一瞥もくれず、そこが定位置であるかのような気軽さで砂丘に座り込む。頭部の四角の中で唯一突出している赤色のレンズを明後日の方向に向けたまま、ぞんざいな態度で片手を振った。
「ああ、俺のことはお気になさらずとも結構。役無しの、つまらない観客だ。こうでもしないとただの一人芝居になっちまうからな。
それよりも自分の心配をするべきだと思うぜ。……そら、お出ましだ」
男の言葉と同時に、〈機械〉は接近してくるものに気が付いた。
今度は、女だ。
女のように、見える。
あちこちからぶすぶすと嫌な煙を立てる、黒っぽい歪んだ肉の塊が、膝を抱えて座っている男のすぐ横を這い上がろうとしている。全身が無残に焼け爛れ、四肢は千切れて捻じくれている。損傷がひどく、着衣の有無すら容易には判別できない。高熱で大部分が皮膚に張り付き、肉と共にずたずたに引き裂かれているのだと判ったのは、通常ではまずあり得ないおぞましい巨大な傷跡と同化した、体表の幾つもの痛々しい裂け目に気付いてからだった。
死んでいないのが不思議だった。もしかすると彼女は既に死んでおり、焼死体に閉じ込められた残留思念が呪いと化して、目を背けたくなるような奇跡を起こしているのかもしれなかった(男が「流石に現実味が無さすぎる」と笑う)。それほどまでに、女は凄まじいまでの気迫で、死にかけの肉体を動かし続けていた。
ふと、見られている、と〈機械〉は思った。箱の男には与えられなかった経験、視線というものを初めて知った。おそらくは沸騰して原型を失い、無闇に頑強な視神経で辛うじて繋がったままの眼球が、黒焦げの眼窩から力なく垂れ下がっているにも関わらず、〈機械〉は女から向けられる余りにも強烈な凝視を確かに感じたのだった。
それは……驚愕だろうか?悲嘆だろうか?嘲弄だろうか?憎悪だろうか?それとも他の、いい加減で的を得ない不適切な言葉で分類される事を拒否し、人間の精神の奥底に引きこもった、もっと未分化の、根源的な……
「遅かったじゃないか」男は静かな声で挨拶した。今までとは全く異なる声色だった。「初めまして。いい加減自己紹介は必要ないよな?」
女は答えなかった。肺も喉も壊れているのだから当然だ。代わりに、不気味な呪詛のような微かな囁きが、どこからか途切れることなく聞こえてくる。男は肩をすくめた。
「折角の人生最後の晴れ舞台に一人で、しかもそんな死に体で参加とはね。なんのために頭数を揃えたんだか。これじゃ興醒めもいいとこだ」
女は答えなかった。緩慢になりつつあった這いずりが止まり、遂に力尽きたように動かなくなった。
大きく溜息をつくと、僅かに帽子を傾けて男は立ち上がった。肩に括った
「……始まる前に終わらせてやろうか、ターミネーター」
待って。
〈機械〉は止めかけ、同時に激しく困惑した。なぜそのように思うのか。
男のぞっとするほど冷たい声に恐れを抱いたわけではない。ただ、何も分からないままこの邂逅が終わりを迎えるのが、耐えられなかった。初めて遭遇した人間、今にも命が潰えようとしている女の、あの凝視の意味を知るまでは、この物語を終わらせるわけにはいかないと思った。
女の身体が僅かに動く。
次の瞬間、蛹から羽化する昆虫のように、空に向いた女の背中から勢いよく飛び出していくものがあった。厚みのない、限りなく平面に近い「†」型の小さな発光体が三つ、遥か頭上に浮き上がってから、女を鳥瞰するようにゆっくりと弧を描きつつ戻ってくる。箱の男はそれを見上げると、諦めたように首を振りながら拳銃を下ろした。
発光体の一つが「発声」する。
『
残りの二つが応答する。
『
『
唱和を終えた三基の発光体は空中に静止すると、一つの頂点を軸にして女を覆うように傘の形を取り、先程よりも早く回転しながら
粒子の浸透に応じて、女は本来の形を取り戻していくようだった。無残に突き出ていた骨や臓腑が体内に戻っていき、皮膚と筋組織の激しい損傷に光が集まり、急速に自己修復を開始する。〈機械〉は、この零れた水を再び盆の中に収めるような驚嘆すべき大事業、失われた時間を早回しで巻き戻す復旧の工程を、ただ驚愕しながら見守っていた。
そうして、女は立ち上がった。
まず特徴的なのは髪だった。足首の辺りまで伸びた、長い銀の髪。周囲に残った光の粒を吸収しながら、自ら輝きを発していると錯覚させるような、得も言われぬ美しさ。濃い白色のストッキングのほかは、コートもタイトスカートも手袋もロングブーツも官帽も黒一色で身を包みながら、男よりも僅かに小さい、すらりと伸びた手脚の先まで一分の隙もなく均整の取れた身体を際立たせていた。
肌は足元の砂よりも白く、眩しい。肉体が元通りになり正常に血が通っているというのに、その激しい赤色は肉体の奥底に巧妙に隠されてしまったようだった。無地の官帽を目深に被り、霜に覆われたように白く長い睫毛越しに、眠りにつく瞬間に似て細められた深い琥珀色の瞳が、〈機械〉を見、それから静かに閉じられた。
男が無言で手を振ったのを一顧だにせず、女は砂丘を踏みしめて〈機械〉に向かって歩き出した。再生の完了と同時に分散した発光体が降下し、主人を守るようにその周囲をゆっくりと回りながら、順繰りに情況を報告する。
『〈ベンチマーク〉全域の崩落を観測。残存兵力確認できず。現行人類の絶対防衛圏認識できず。
『座標照合終了:現実閾値逸脱レベル・フォーナイン、終端時空漠クレプシドラ。最上位任務規定に基づき、状況の最終段階を宣告する』
『
どれもが女にとって既知の情報らしかった。そうでなければ誰だって平静ではいられない内容だったと、おのれと砂のほかには何も知らない〈機械〉にすら判断できた。
だが女は顔色すら変えなかった。ただ無言で前へと歩を進めていた。ひとが抱くどんな怖れも哀しみも、三つの短剣のほかは何もかも、痕跡すら残っていない出発地点に置き去りにしてきたように。
あるいは、それは……長いながい旅の終わりに、出発地点へ帰ってきた旅人のようだと、〈機械〉は思った。
女は目前に迫った〈機械〉を見上げ、それからすぐに背を向けた。回転を止めた短剣の切っ先、交わらない二色の地平線の向こうをじっと見据える。
『我等は
終端抵抗 凹辺凸々 @wobe
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