妻が留守の間

湯煙

妻が留守の間

 妻が実家へ戻ってそろそろ二週間になる。


 私達夫婦の仲に問題があって戻ったわけじゃない。老齢の義父を介助していた義母が体調を崩したのだ。義父は軽くけているらしく、また身体も不自由なところがあるため一人で過ごさせると危ない時があるそうだ。


 施設に入居させることも考えた。だが、妻の兄夫婦があとひと月ほどで海外赴任から戻ってくる。実家に同居するというので、それまでの間、両親の面倒を妻が見ることになったのだ。


 私は簡単な料理ならできるし、掃除や洗濯も妻と交替でやってるから、ひと月やふた月の妻の留守などたいしたことではないと考えていた。一緒に居たって、その日何があったかを夕食時に話す程度で、日によっては会話らしい会話もないくらいだ。

 実際、久しぶりに一人の生活も気楽でいいななどと、数日前までは思っていた。


 だけど、妻が居ない期間が長くなってくると、家で過ごしていてもどうも落ち着かない。


 二~三日に一度は様子伺いの電話も来る。声を聞いてる分には、少しはストレス感じているだろうけれど、張りのある元気そうな声で安心している。義父の介助の苦労話や、義母の体調の話などを聞き、会話があるという点だけで言えばいつもとさほど変わらない生活だろう。


 だが、観もしないTVを点け、ソファに座って本を読んだり、パソコンでネットを眺める……妻が居るときと変わらない生活をしているのにどうも落ち着かず穏やかに過ごせない。


 窓のそばに置かれた、仲の良い奧さんから妻が貰ってきたゼラニウムの鉢植えが目に入った。


「初心者でも簡単に育てられるようなの」


 だいぶ前だが妻はそう言っていた。

 そして「もう9月なのに花が咲かないのよねぇ」と、眉間に皺を寄せていたのも思い出す。


 そう言えば私の母も観葉植物をいくつも育てていた。

 やはりうまく育てられなくて愚痴っていたな。


 何か問題があるのかもしれないと、パソコンの電源を入れ、ゼラニウムの育て方を探す。


 日当たりの良い場所がいい。

 過湿を嫌う。

 中性よりの弱酸性の土を好む。

 鉢植えの場合、根が窮屈になると根詰まりを起こすので年に二回は植え替えが必要。


 窓際の日当たりの良い場所に置いてある。

 市販の培養土でも良いらしいから、明日の土曜日、出かけて植え替えをしてみる。

 あとは水と肥料の加減に気をつけよう。

 土に触れて濡れているようなら水は控える。

 肥料は週に一~二度。忘れると困るから、カレンダーに肥料を与えた日に印をつけよう。あ、専用の小さなカレンダーも明日買ってこよう。


 うまく花が咲きそうになれば、帰ってきたとき妻は喜んでくれるだろうか? 


・・・・・

・・・


 翌日、肥料と腐葉土を買ってきて、ベランダで植え替えをした。卓上カレンダーを鉢植えの横に置き、肥料を与えた印として星のマークを今日の日付の欄に付ける。


 汚れたついでだと思い、妻が日頃していないであろう、TVや家具の裏も掃除しようと決める。

 せっかくの休日だが、どうせ何かしていないと落ち着かないのだ。


 案の定、TVの裏も家具の裏も埃がたまっていた。

 妻が居れば愚痴の一つもこぼしたくなっただろう。しかしおかしなもので、埃がたまっている状態を見ていると、妻の顔を思い出しつい頬が緩む。


 予想通り汚れているところを見つけて妻を思い出したなどと言ったら怒るだろうか?

 それとも妻らしく、「これからもどんどんやって? お願い」と下手したてに出てる風を装うだろうか?


 掃除機をかけ、雑巾で床と壁を拭いたあと、TVや家具を元通りに戻す。


 よし、妻が戻る前にもう一度掃除しておこう。


 そう決めた私は、つい微笑んでいるのに気付いた。


 何が楽しくて笑っているのだろう?


 よく判らないけれど、笑みを浮かべているなら良いことに違いない。

 私はそう考えて、掃除機が吸ったゴミを片付けることにした。


・・・・・

・・・


 もうすぐ妻が帰ってくる。

 空港の到着ロビーまで迎えに来ている。


「おみやげは特にないわよ」


 出発前の電話でそう言っていた。

 観光に行ったわけじゃないし、実家でいろいろと大変だっただろう。だから、おみやげがあるなどと思ってもいなかった。なのに、そんなことを言うからおかしくなった。


 ああ、でもいつもの妻だ。


 たったこれだけのことだけど、もうじきいつもの生活が戻ると思えて嬉しくなったんだ。妻の留守の間、これまでやってないことをやりながら、落ち着かない気持ちを誤魔化してきたけれど、それも今日で終わる。いや、掃除はともかくゼラニウムの世話は続けるかもしれないな。


 

 到着ゲートから出てきた妻の荷物を手に持ち、「お疲れさん」と声をかけた。


「うん、ちょっと疲れたぁ」


 そう言う妻と並んで歩き、駅へと向かう。


・・・・・

・・・


「シャワーで汗を流して布団で休んだら?」


 いつもの休日なら午後は一時間ほどは昼寝する。まして、飛行機でとはいえ長距離移動したあとだ。両親の世話でも疲れているだろうしと思いそう言った。

 

「んー、お腹すいたから何か食べてからにする」


「そっか。でも、パンくらいしかないよ?」


 妻が戻ってきたら改めて食材を買いに行くつもりでいたから、冷蔵庫には何も入っていない。


「パンでいい。ジャムくらいはあるでしょ?」


 ダイニングテーブルの椅子に座り、もう動く気はないと空気で伝える妻に苦笑する。


「ああ、そのくらいはね。じゃ、二枚でいい?」


 いつも通り六枚切り二枚をトースターへ入れる。タイマースイッチを動かしたあと、カップを取り出した。珈琲をいれようと、コーヒーメーカーに水を注ごうとすると、妻が「ストップ!」と言う。


「紅茶、紅茶がいい」


 疲れてるからなのか、それとも別の理由なのか判らないが子供のようにねだる。

 まぁいいやと、紅茶の葉とティーポットを棚から取り出し準備する。

 どうせならポットのお湯じゃないほうがいいかとホーローのやかんに水をいれて湧かす。


「あら? ゼラニウムにつぼみが……」


 よく気付いてくれたと、私は妻の留守の間にした世話の話をする。


「ふーん、なんか悔しいわね」


 ここで自慢話などすると、妻はムキになる。だから黙って、皿にうっすらと焦げ目がついたトーストを置き、湯気の勢いが増したやかんの火を止めた。


「ま、これからは手伝うよ」


 それだけ言って、ティーポットに茶葉を入れ、布巾の上で少し冷ましたやかんから湯を注ぐ。


「数分お待ちください」


 茶葉が開くまで待つよう伝え、トーストにバターを塗っている妻を見つめた。


「何だかんだ言っても、やっぱり我が家よねぇ。ホッとする」


 ジャムをスプーンでトーストに乗せてつぶやく。


「そうだな」


 妻が留守の間感じていた、落ち着かない気持ちを今は感じない。


 妻が居てこその我が家だ。

  

 そう強く思ったけれど、妻には内緒にしよう。

 そして、隅々まで掃除したことをあとで自慢することにした。


 さ、妻の反応がどうなるか楽しみだ。 


 まだ小さいけれど淡いピンクのつぼみが、張りのある緑の葉の陰から顔を出してるゼラニウムを私はチラッと見た。

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妻が留守の間 湯煙 @jackassbark

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