世界が変わらないのなら。

鍋島小骨

世界が変わらないのなら。

 夏の昼下がり、夢を見た。




  * * *




 観光客もほとんど来ないような、人の気配のない地元の海水浴場。

 打ち寄せる波の音、下からも反射する砂浜特有の光、潮の香り、独特の湿気と、かもめの声。

 静かな海。

 満たされた強い夏の日。

 背中に世界が、目前に水平線まで続く海があって、私は文庫本を抱き締めている。

 このみぎわで私はたった一人だ。

 でも、今になってそのことに気付くなんてあまりにも、愚かだ。

 いつだって一人だった。

 背にした陸の世界でだって、私は、いつだって。


 世界が変わらないのなら。

 私が居場所を変えればいい。

 たとえそれが、すべての終わりになるとしても。

 ながい停止と短い終わり、どちらだって変わりはしない。

 考えようによったら後者の方が、苦しみが短いだけ、まだしも。

 だから。


 私には、意志がある。

 私には、選択の自由がある。

 私は、耐えられる。

 私はそれを望んでいる。

 最後の時まで私は、海の彼方を目指して進んで行けるだろう。


 さようなら、すべて。

 私が世界を置いていく。




  * * *




 あたたまったまぶたをふと開くと、やはり夏だった。

 ざあん、と波が打ち寄せる音に、遠くできゃあきゃあと楽しげな笑い声がする。サーフボードで遊んでいるグループだろう。

 潮の香り。日陰を通り抜けていく風。日向ひなたの浜辺は白く眩しくて、その向こうに空と海の青。

 また夏が来ている。

 しばらくここでうとうとしていたようだ。ほとんど手をつけないままピーチティーソーダのプラスティックカップがたっぷり汗をかいて、膝の上の文庫本はページが風にめくられ、どこまで読んだかわからなくなっていた。

 広いウッドデッキを覆う大きなタープの下から、ずっと向こうに張り出した岩場を眺める。

 去年、私はあの向こうに隠れた小さな砂浜にいた。

 一歩踏み出そうという時に間抜けな声が聞こえてきて、そして今、ここにいる。

 私は偶然、死にそびれたのだ。

 あいつのせいで。




  * * *




 うわぁ、と少し離れたところから声がした時、私のスニーカーの爪先はもう波に濡れていた。

 構わずにこのまま行くべきだ、行動を変える必要はない、と脳は判断していたのに、私は。

 振り返ってしまった。

 その途端、海しかなかった視界の半分が陸に戻った。

 決して振り返ってはいけなかったのに振り返ってしまった、これで私は失敗したのではないかなあ、とぼんやり思う。

 向こうの岩場に人影があり、多分それ・・が転んだのだ。アホめ。何だって今。何だって、メインビーチじゃなくこっちに来たのだろう。

 あれ、と思った。

 その人間が、起き上がらない。

 動いてはいる。起き上がらない。そういえば上半身、肩から上くらいしか見えないな。あの場所で?

 ああ。……もしかして。

 私は波打ち際から歩き出した。目をすがめて、恐らく転んだか何かしたのだろう誰かを見ながら。手にしていた文庫本を薄いパーカーの前ポケットに突っ込んだ。踏むと数瞬後に沈む砂浜を、いつか小走りになった。

 まったく、何だって今この時に、そこにまるの。

 メインビーチからこちらには入らないよう、ロープを張って看板も立ててあるっていうのに。

 こちら側の岩場には、落ちて嵌まると自力では身体が抜けなくなる場所がある。過去にはそのまま満ち潮で溺れてしまう死亡事故もあった。この狭い浜は、岬のように突き出した岩壁に隠れてメインビーチのライフガード小屋から見通せない位置にあって、それが危険なために閉鎖ということになったのだ。

 地元の人間なら誰でも知っていて、あまり近付かない場所なのに。

 果たして、ひたひたと海水に浸かり始めている岩場の真ん中に近付いていくと、そこには。


「あっ。すみません、手伝ってもらえませんか。動けなくなったんですけど」


 ……情けない声を出す若い男が、案の定嵌まっていたのだった。

 目に刺さるような原色イエローのTシャツどころか頭の上まで海水をかぶり、波に濡れた眼鏡は斜めになってしまっていて。

 あ、これは三十分も放置すれば死ぬわ、と思いながら私は、その盛大にずれた眼鏡を見て思わず笑ってしまったのだった。


「……はは。ふ、あはは! ああ……、ばかじゃないの、何で今」


「いや、馬鹿は同意だけど、ちょっと笑える状況じゃないんですけど……」


 ざざ、と小さな音を立て、波が男の首とあごを洗っていく。

 もうすぐよ、もうすぐよ、と無数の声でささやくように。

 もうすぐ満ちて、わたしはおまえを連れていくよ。

 私の顔と心から笑いが引っ込んだ。寄せては返す海の致死性が、私を正気に戻したのだと思う。

 だめ。

 私ならともかく。

 死にたいと思ってもいない人間を、連れていくことは。

 ……だめ。そんな、取り返しのつかないことは。

 傍観してはいけない。


「私が眼鏡を預かるから、そのまま一旦、まっすぐ沈んで」


「は」


「上に抜けようとすると余計に嵌まるつくりなの。細身の子供でもなきゃ出られない。肩を外して皮膚も肉もゴリゴリにされていいなら別だけど。

 真下に沈めばすぐ沖側にスペースが広くなって、水面の下の穴を通って出られる。そっち向きに抜けられるから、光の射す方に進んで」


 ジェスチャで水の中の岩がどんな風か伝える。

 いい? と聞くと、やってみる、と返事があった。私は気を付けてその場に膝をつくと男の顔に両手を伸ばし、海水に濡れた眼鏡を外す。

 当然のことながら眼鏡を取ると生の目玉があるのだった。私は、その直接の視線にたじろいだ。

 真剣だったから。


「俺、あっちのメインビーチの海の家で働いてる高旗たかはたれん。やばそうなら、すぐ助けを呼んでくれる? ライフガードがいるはずなんだけど」


「ざっくり一分、出てこないようなら呼びにいく。約束する」


「分かった。じゃあ、お願いします」


 すうっと息を吸って彼は覚悟を決めたように目を閉じ、ゆっくり、垂直に、波間に消えた。

 私は眼鏡を手にして膝をついたまま、呼吸も忘れて秒数を数え始めた。

 ざざ、と波が送られてくる。

 岩場は満ち潮を迎えようとしている。

 明るくて熱い日光が天から私の背中を突き刺す。

 潮の香り、独特の湿気と、鴎の声。

 静かな海。

 満たされた強い夏の日。

 まるで、

 まるで何もなかったかのような。

 鴎が鳴く。何度も鳴く。繰り返し。繰り返し。そして彼は出てこない。

 波が足元を洗っていく。

 笑うように白く砕けては引いていく。

 おまえは夢を見たのだよ、あれはもうわたしのものだよ、とでも囁くように。

 両手の中には、濡れた眼鏡だけが残っている。




  * * *




 ことん、と音を立てて、木彫りの小さな皿が目の前に置かれた。色とりどりのマーブルチョコレートが入っている。私は読むのを諦めた文庫本を閉じながら、頼んでないです、と言う。

 店からのサービスですよ、と答えた店員は、許可も取らずに私と同じベンチに座った。

 勝手な判断で気安く振る舞ってくれるものだ。勘違いしないでほしい。真夏に若い女がひとりで海の家にいるからって。

 店員はそのまま隣で行儀悪くテーブルに頬杖をつき、こちらを覗き込むようにする。まるで家族か恋人みたいに。


「油断し過ぎですよ。ひとりで居眠りはまずい。こんなド田舎のビーチでも良からぬやからは来るんだから」


 ほらアイスのカウンタの方、と視線を動かさないまま低い声が告げる。さりげなく見ると、アルコールのロング缶を手にした男の三人連れが、一人はこちらから視線を外し、二人は文句ありげにこちらを見ながらウッドデッキを出ていくところ。

 さっきから完全に狙われてたの気付いてないでしょ? と店員は頬杖をついたまま困ったように笑っている。


「それにしてもきみ、ほんとまつ長いね。見とれちゃう」


 顔が近付いている。本当に図々しい。急に現れて、急に人の意識に入り込んでくる。

 去年のあの時のように。


「近付かないでよ……」


「このくらい近付かないときれいに見えないんだよ。去年、誰かさんに眼鏡取られたから」


「コンタクトにしたって言ってたでしょ?」


「したんだけどね、やっぱ外に長時間いるのにコンタクトはゴミ入りやすくてダメだった」


 ぐいぐい顔が近付いてきて、私はそれを避けようとベンチから斜めに落ちそうになって、身体ごと捕まえられて引き寄せられたかと思うと、目尻にかすめるようなキスがひとつ落ちてくる。

 まったく、何だって今、この時に。こんなところで。許可も取らずに。勘違いしないでほしい。急に。図々しい。頭の中がわっと混乱して体温が上がる。

 夏のせいだ。こいつのせいじゃない。暑いからだ。くやしい。


「やめて。くっつかないで、暑い、人に見られる……!」


「もう誰もいないよ。このビーチそんなに流行ってないの、莉子りこの方が地元だから知ってるでしょ」


 ちくしょう。



 あの日、途方もなく長い時間――と私には感じられた四十八秒間――の後で海面に顔を出し、岸に上がってこの男は、きみ死のうとしてたでしょ、と言った。

 それできみから視線を離せないまま歩いてたら落ちたんだ、と。

 多分岩場から逃れようともがいた時についたのだろう両肩の傷から、べったりと濡れて破れたTシャツに血が染みていた。

 そうだけど今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、と言い返して私は、間抜けなずぶ濡れ男の腕を引っ張ってメインビーチのライフガード小屋まで連れて行き、救護室に叩き込んだ。

 その時の私は、自分でも分からない何かに猛烈に腹を立てているみたいな気分で、とにかくこの間抜けが死にかけたことが許せなくて。

 多分怖かったのだと思う。

 人がひとり死んだかもしれなかったのだということが。

 あんまり夢中になっていたから、自分も膝に傷を作っていたことは、そこで指摘されて初めて気がついた。

 あーあ、ごめんね、と言って無許可で膝に触ろうとする手を叩き落としながら、私は。

 どうやら本格的に死にそびれたな、と妙にクリアに自覚したのだった。


 それから。

 お礼がしたいと連絡があって、移住者だという年下の彼が地元のことを知る手伝いという言い訳で何となく定期的に会うようになって、どんどん、どんどん死ねなくなってしまって。

 だって、新しく人を好きになるなんて、もう死のうと思ってる人間のすることじゃない。

 私が変わってしまった。

 世界は変わらなかったけれど、私の方がすっかり変わってしまったのだ。

 逃れられない海流に押されるようにして、この人に捕まってしまった。

 だから今は、もう。


 この海に来る理由は、死ぬためじゃない。



 潮の香り、独特の湿気と、鴎の声。

 静かな海。

 満たされた強い夏の日。

 客の引いた海の家のウッドデッキで、私はれんと過ごす。

 この海岸で私は、孤独ではなくなった。

 世界が変わらないのなら、私が居場所を変えればいい。

 居場所が海辺の岩場に嵌まっていたなんて、なんかちょっと、お笑いだけど。


「ねえ、今日三時で上がりだからさ、それまでいてよ。散歩して帰ろう」


「分かったから離れて!」


 肩を組まれると、くすぐったくて笑ってしまう。

 大型犬の子どもみたいな蓮と、夏の海辺。

 暑くて、眩しくて、潮の香りがして、鴎が鳴いて、私は、ピーチティーソーダやマーブルチョコレートよりもずっと、蓮が好き。

 こんな気持ちで過ごす日が来るなんて思ってもみなかった。

 あの日死ななくてよかった。

 あなたが私を見つけてくれてよかった。

 あなたがあの岩場に落ちて、眼鏡が絶妙な感じにずれていて本当によかった。

 生きていてよかったよ。


 蓮が売り場に戻っていった後、残されたマーブルチョコレートをつまんだ。色とりどりの甘い粒々は夏の暑さで温まって、噛むと少しとろけるような柔らかさだった。

 私はバッグのスマホを取り出して、時間だけ見るとまた戻す。蓮の仕事が終わるまであと三十分。

 氷がすっかり溶けたピーチティーソーダをゆっくりゆっくり飲みながら、彼を待つ。

 眩しい夏の真ん中に建つ、この海の家で。





〈了〉

 


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世界が変わらないのなら。 鍋島小骨 @alphecca_

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