死、江戸の総合病院

 父が水車のように回る足を止めたことで、つんのめりになり、私は再び広い背中にしがみつく。

 父は強風に張り合うように叫んだ。


「先生! 助けて下さい! 先生!?」


 縦看板が立てかけられた、大きな門構え。

 

 筆書きされた看板には『小石川養生所』と書かれている。

 

 養生所にたどり着いたことで、私の死の天命が変わったのか、顔のない人は気配と共に、忽然と姿を消した。


 門の先に叫び声が届かないと踏んでか、父は馬の蹴り足かと思うくらい、乱暴に戸を叩く。


 その音へ張り合うように、戸の向こうから、大きな怒鳴りが返って来た。


「誰だ!? こんな夜中に大声出す馬鹿者は!?」


「先生! 娘が、娘が病気なんだ。死ぬかもしれねぇ!」


 木材のこすれる音と共に、大きな戸がゆっくりと開き、中から睨みを利かせた、おじいさんが現れる。

 手に持ったロウソクの灯りを、顔の下から照らしているので、鬼か死霊かと思えるほど、薄気味悪かった。


 口に髭を蓄えたお医者さまの小川先生は、白髪混じりのボサボサの髪で、もみあげと髭がつながり、顔が猪みたいに怖い。

 何より着物の上にかぶせた、白い割烹着のようなお召し物には、赤黒い血のシミが花びらのように散っていて、いっそう不気味な風貌だった。

 先生はしゃがれた声でぶっきらぼうに、父を脅す。


「この養生所では、多くの病人が静養しておる。ただの風邪だったら、あんたを手術の練習台にしてやるからな」


 早速、先生は私の方を見て頬を軽く触り、手に持ったロウソクで照らす。

 ロウソクが顔に近いから、こっちからも先生の顔がよく解る。

 先生は毛の色が薄いからか、ロウソクの光に当たると、お髭が赤く見えた。

 

 先生は私のおでこに手を当てて、熱を測り顎を掴んで口を開かせ、喉の奥を除くと先生は黙りこくる。

 しばらくしてから、唸り声を上げ、しゃがれた声で聞く。


「いつからだ?」


「夜九つを過ぎた途端に、悪くなりました」と、お父ちゃんが返す。


「そうか……わかった。中へ入りなさい」


 先生は私達を室内なかへ案内した。


 木の床は冷たく膝を付いて座ると、雪の上に乗ったように、足がひんやりとした。

 

 小川先生は口と鼻を頭巾で覆い、ロウソクの薄暗い灯りを頼りに、私を診察する。


 脈を測り、まぶたを指でこじ開け瞳孔を凝視、胸に耳をそばだてて、心音を確かめる。


 診察が終わると、顔の頭巾を外してから、重苦しい口を開く。


「"ハシカ"だな」


 熱にうかされ朦朧もうろうとしていたので、その時の様子は、はっきり覚えていないけど、先生の話を聞いた父は青ざめていたと思う。


 江戸の町で、幼い子供がハシカやオタフク風邪で死ぬのは、珍しいことではなかった。

 多分お父ちゃんの頭に、流行りやまいで亡くなった、お姉ちゃんのことが浮かんだはずだ。


「熱が下がるまでは、しばらくウチの養生所であずかるが、よろしいか?」


「……いつまでですか?」


 顔をこわばらせて、不安な表情を見せるお父ちゃんに、先生は答える。


「そうだな、治療と完治した後の経過も見たいので……七日と言ったところだな……しかし、娘さんの生命力が果たして持つかどうか……五日が山だ」


「五日が山……」


 それを聞いた父は、自分に言い聞かせるように強く頷く。

 お医者様ではない父には、預けること以外に方法はなかった。


「どうか、お願いします」


 深々と頭を下げてお願いした。

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