参、背後から追いかける影
その夜は紅い月が見下ろし、江戸の町を血で塗りつぶしたように、異様な世界を作り上げていた。
ぐったりと力の抜けた私をおぶって、長屋から駆け出す父は、柵の戸まで行き、「木戸番」の老人に事情を話す。
江戸の町は、区画ごとに柵で覆われ「木戸」と呼ばれている。
火付けや盗賊から人々を守る為、壁の役割を担っており、この木戸の出入り口を見張っているのが「木戸番」だ。
門の老人も、これ一大事とばかりに、慌てて扉を開けて敷地の外へ、父を送りだした。
養生所までは、走っても一刻(およそ三十分)はかかる。
灯籠のない夜道。
風に吹かれたススキの葉が、擦り合い物音を立てる。
人の通らない真夜中を見計らって、命を宿したススキ達が、一斉に昼間の出来事を語り合っているようだ。
そのススキ達の談義を、砂を蹴りあげながら駆けずる音が遮る。
夜道を颯爽とかける父の足は、吹きすさぶ
しばらくすると、ススキの木に寄り添うように、蜃気楼が見えた。
月が見下ろす夜に、蜃気楼などありえない。
もたげるススキの葉で、顔を隠しているように見えた、その影の主は、紛れもなく"顔のない人"。
頭巾で顔が見えないのではない、顔が能面のように無いのだ。
しかし、水に浮いた油がうねるように、漆黒の顔は微微かに歪み、笑ったように思えた。
颯爽と駆けるお父ちゃんが、知らぬ間に顔のない人を追い越すと、私は安心して息を整える。
しかし、父が米屋を曲がったとき、角っ子で私達を待ち構える顔のない人が、そこにいた。
やはり姿か見えないのか、父は気に止めることなく、顔のない人を横切る。
顔のない人は、走り去る私達を遠くから眺めて、夜の闇に溶けて行った。
そこからは、言いしれぬ恐怖だけが続く。
川を渡れば、泳ぐ雷魚のように橋の下から影が追い、道の隅にある、雨水を受け流す用水路から、真っ黒な能面を覗かせたかと思えば、瓦屋根から、目をギラつかせる黒猫と共に見下ろしたり。
先回りしているかと思えば、背後を付いて回り、時に遠くから眺めるだけ。
何をするわけでもなく、影法師のように、ただ付いて回る。
背後から秋風とは違う、ひんやりとした異質な空気が漂い、徐々に尺を縮めるのが解った。
父が追いつかれたら、私も姉みたいに、連れて行かれちゃう。
「早く……早くしないと……追いつかれる……」
「待ってろオミヨ! もうすぐ、お医者様のところに着くからな!」
父は私の為に、死力を尽くしてくれている。
しかし無情にも、人知を超えた存在にとって、人の命を削る行いなど、アリの荷運び程度にしか思われない。
背後から忍び寄る顔のない人は、煽り風のごとくあっという間に追いつき、指を虫の蠢く手足のように動かしながら、私の首へ、腕を矢のように
冷たい空気が喉を締めつる感覚。
私の首は顔のない人に掴まれ、もがれるように引っ張られる。
父が走れば走るほど、私の締め付けられた首は、後ろへ半身をのけぞらせた。
苦しさのあまりむせ返り、爪で木材を何度も、えぐるような音を喉元から発する。
父から引き剥がされないように、ろくに力の入らない骨のような手で、必死にしがみつく。
だけど、しがみつく手に力を込めるほど、首は絞まり胴体から引き抜かれそうな激痛が走る。
しかし、手の力を抜けば、そのまま夜闇にさらわれて神隠しに合い、この世の者ではなくなってしまう。
この背中から絶対に離れてはいけない。
幼くもそう感じていた。
とはいえ、病を患った
「オミヨ! しっかりしろ! もう少しで楽になるぞ!」
背負う我が子が、死の影を引きずっているなど、夢にも思わないだろう。
私の気は遠くなり、父の背にしがみつく手を離す。
が、手を離したのは私だけではない。
首を締め付けていた、顔のない人の手もまた離れたのだ。
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