伍、カラス 死臭 お経

 それからすぐに私は、病人を静養する、長屋へと連れていかれた。

 幕府が置いた、目安箱の要望を機に建てられた『小石川養生所ようじょうしよ


 病人であれば、誰しも治療が受けられるその場所が、町の診療所と違うのは、裕福な家柄の者からは治療代を取り、お金の無い貧民には、無償で治療と薬を与えていたことだ。


 だけど、幕府の政策で貧乏人を無償で面倒を見るなど、話がうますぎると言い、建てられた当初は、誰も足を運ばなかった。

 おまけに、行き倒れの者まで受け入れるようになり、その評判は下がる一方。

 ついには煎じた薬草の効果を見定める為、病人を変わり身に使っているなど、悪評が出回る。

 

 それでも、お金の無い庶民が、すがりつく場所は、この小石川養生所しかなかった。


 敷地内には長屋が五列並び、四列までは男の病人が寝泊まりする、囲い部屋。

 五列目、離れのように置かれた二つ並ぶ長屋が、女の病人が静養する囲い部屋だ。

 障子の戸を通し月明かりを取り込み、部屋全体を照らしているが中は薄暗く、まぶたを閉じれば、沼へ沈むように深い闇へと包まれる。


 かなり年期が入っているようで、すすけた汚れが垣間見える、天井のはりや柱が嫌悪したくなった。

 しかし、部屋のひのきと畳の香りが、気分を落ち着かせ、いささか気分が楽になる。

 室内は幼い女の子が、六人で並んでとこに着いていた。

 

 日の光で活力を与えようと、日差しの当たりやすい障子側に、二つか三つの女の子が床に伏せる。

 

 一日目の夜。

 ただ天井を見ているしことしかできなかった。

 天井のはりは木の柵を、幾重にも合わせたように見え、その先に果てしない暗闇が続いているようだった。

 梁の向こう側は、人の世界とは思えないほど暗く、あの世につながっていても不思議はないほどだった。


 隣では私よりも小さい女の子が、隙間風のような息をして、苦しみで寝付けずにいた。


 夜空を厚い雲が覆ったのだろう。

 月明かりは、ふすまを閉めるように消えて行き、部屋の中は暗闇に包まれた。 

 さっきまで歌を揃えていた鈴虫が、一斉いに鳴り止み、不気味な静寂が流れる。

 

 重なる梁の間から、何かが、こちらを覗き込んでいるのが解った。

 天井の暗闇に紛れて、見下ろす人影。


 "来た"


 天井の闇から溢れる落ちるように、人影は降って来る。


 広がる傘は、羽を開いたカラスのように不気味で、降り立ったにもかかわらず、物音も、ささやかな風すらも起こさない。

 やはり、この世のモノではないのだ。


 ただ、ニオイだけは感じられる。

 腐り始めた魚のような強い生臭さと、ドブをすくい上げたような臭気が、室内に漂う。 

 子供だった私は、これが"死臭"というものだと、思わされた。


 吐き気のする臭気が、私の頭のそまで来て立ち止まったので、私をまぶたをキツく閉じる。

 顔のない人は、ゆっくり、ゆっくりと真っ黒な顔を近づけて、私の顔を除き混んだ。


 ブツブツと何かうわ言のような声を出している。

 これだけ目と鼻の先だと、否応なし何を言ってるいるか解る。


 ――――――――無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故――――――――


 お姉ちゃんの供養の時に、お寺で聞かされたモノだ。

 ――――――――お経。

 まるで鼻歌でも歌うように、繰り返し唱えていた。

 

 こんなに近づいて聞かされると、気分が悪くなり吐き気がしてくる。


 お経と死臭が遠のき、まぶたを薄く開き様子を見る。

 私を通り過ぎて隅で寝ている、障子側の女の子へ歩み寄った。

 恐る恐る顔をそっちへ向け、覗く。


 顔のない人は女の子に顔を近づけ、しばらく凝視したのち、上へ舞い上がり梁を越えて、天井の闇へと消えた。


 畏怖となる存在が消えたことで、安らぎを取り戻し、そのまま眠りに着いた――――。

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