第4話

 颯馬そうまの退院の予定は一日延びた。院長先生は親には言わないでいてくれたけど、ひと晩ほとんど徹夜したから少し熱が出てしまったのだ。一度昏睡状態に入ってしまった陸翔りくとは、さらに何日か入院が必要らしい。でも、もう心配はいらないだろう。あの夜以来、真新しい病院の壁のどこにも、あの黒いは見えないから。


「また入院、なんてならないように身体には気を付けるんだよ、颯馬君。それに……言ったことを忘れないで。峯岸病院ここじゃなくても、いつ、が聞いているか分からないからね」

「はあい」


 最後の診察の時に小声で囁いてきた院長先生にも、今は素直に頷くことができた。思ってもいないことは、口に出してはいけない。人の命は大事なもので、かけがえのないもの。訳の分からない何かに、つけ入られる隙を作ってはいけないのだ。


 母親が受付で何かの手続きをしている間、颯馬は病院のロビーをうろうろしていた。入院中は、パジャマ姿では下りて来られなかった場所だから、改めての探検だった。咳き込んでいる人なんかにはなるべく近づかないように、公衆電話が並んでいるのを物珍しく眺めたりして。そして、入り口の自動ドアを出たところで、颯馬は足を止めた。

 白いワゴン車が停まっていた。それだけなら何てこともない。でも、後ろのドアを開けたところから、担架みたいな台が覗いていた。でも、救急車にしてはランプがついていないしそれらしい設備もない。フロントガラスには白い花が飾ってあるし、運転手らしい、車の傍で煙草を吸ってる人は真っ黒な服を着ているし――これは、死体を運ぶための車じゃないだろうか。そう思いついて、黒い染みを見た時の寒さや怖さを思い出してしまったのだ。


 あの黒い染みは、どこかへ消えた。陸翔は助かった。のせいじゃない。あいつじゃなくても、病院で人が死ぬことはあるはずだし。


 自分に言い聞かせようとして――でも、颯馬は思い出してしまうのだ。車いすに乗ってた、死体みたいなジジイのこと。その人を挟んで喋ってたババアたちのこと。


『ぽっくり逝ってくれるとね、助かるんだけど』


 あれは、あれも、呪いにはなるんじゃないだろうか。黒いも、聞いていたんじゃないだろうか。それに、院長先生も。聞いていた上で、颯馬たちとは違ってババアたちを怒らなかった。それは、大人だからなんかじゃなくて、わざと、だったりしたら……?


『気を逸らすことができれば、と思ったが』


 院長先生はそうも言っていた。颯馬たちへのお説教のことだと思ってたけど、あのジジイのことだったら? あっちに行けば、颯馬たちは助かると思っていたのだとしたら? ババアたちは、他に何て言ってたっけ。


『タカナシさん、おじいちゃんの具合、どぉお?』


 心臓がどきどきし始めたのを感じながら、記憶を掘り起こしながら、颯馬はワゴン車の周りをぐるぐると回っていた。運転手が、変な子がいるな、って感じで目で追ってくるくらいに。その間に、フロントガラスに名札みたいなものが挟まっているのにも気付いた。小鳥遊家様、だって。タカナシさんじゃないなら、安心、だろうか。でも。もしかしたら――


「あの……それって、タカナシって読むの?」

「ん? ああ、よく知ってるね。そうだよ」


 運転手は煙草を携帯灰皿でもみ消すと、ほっとしたように笑った。なんだ、それが気になってたのか、とでも言うように。颯馬の顔が凍りついて、喉の奥からひっと小さな悲鳴が漏れたのにも気付かずに。じゃあ、やっぱり死んだのはあのジジイなんだ。いや、偶然かもしれないけど。だってあんなに死体みたいだったし。


「……ここに入院してたんだ。タカナシさんって人がいたから……」

「ああ、お知り合いだったのかな? 一昨日の夜、容態が急変したそうでね……お年だったんだろうけど。坊や、じゃあ手を合わせてくれる? ご遺族も喜ぶと――」

「いい! 見ただけだったから!」


 腰をかがめて話しかけてくる運転手に、颯馬は怒鳴るように答えると背を向けて走り出した。え、ちょっと、という呟きが聞こえるのを無視して。だって、あのババアのどっちかとなんて顔を合わせられない。

 一昨日は、陸翔からを追い払った夜だ。颯馬の呼びかけではどこかに消えてしまった。でも、退治できた訳じゃなかったんだ。陸翔はダメって言われたから、次の獲物に向かったんだ。生きてるか死んでるか分からない、小鳥遊のジジイに。あの人も、死ねば良いって言われてたから。院長先生は、聞いてたのに黙ってた。そうなると分かってて、陸翔や颯馬を助けるために! あのジジイは颯馬のせいで死んじゃったんだ。


 病院の中に駆け戻ると、母親が颯馬を探していたようで、軽く頭を小突かれてしまった。


「もう、うろうろしないの。他の人の邪魔になるでしょう」

「早く、帰ろ」

「あんたを探してたんじゃない!」


 母親は呆れたような声を上げたけど、颯馬は何も言わずその手を握りしめた。寂しかったとでも思ったのだろうか、すると母親も表情を和らげてくれた。


「今日は何が食べたい? 何でも好きなの作ってあげるわよ。お父さんも、退院祝いにケーキ買ってきてくれるって」

「……ハンバーグ。チーズ乗ってるの」

「はいはい、了解」


 母親の笑顔に、大切にされていることを感じる。颯馬は愛されている。陸翔も同じだ。だから、かけがえのない命で、院長先生も助けてくれた。でも、小鳥遊のジジイは違った。かけがえのない命じゃから、子供ふたりの代わりにされたんだ。院長先生は見殺しにした。そして、あのババアたちは多分そんなに悲しまないんだろう。あの様子だと、ほっとしているかもしれないくらいだ。

 院長先生やババアたちはひどい、んだろうか。でも、じゃあ陸翔が殺されてしまっても良かったとは言えない。颯馬だって死にたくない。子供と年寄りだったら、子供の方を選んでも仕方ない、と思う。自分は関係ない話だったら、それで終わりにできたんだけど。人食いの黒い染みだなんて誰にも言えない。だから、誰に叱られることでもないんだけど。でも――忘れられそうにない。


 母親が運転する車の窓から、颯馬は峯岸病院を振り返って眺めた。建て替えたばかりの建物は白くて綺麗で清潔そうで、が潜んでいそうな気配は全くなかった。


      * * *


 二学期になってから、颯馬はクラスメイトたちに峯岸病院に入院したことを話した。夏休み中のイベントとしては結構大きいものだから。そうすると、意外とあの病院や院長先生のことを知っているやつが多いことを、初めて知らされた。


「あそこの先生さあ、すげえ熱血だよな。叔父さんがガンになった時、すごい励ましてくれたって叔母さんが感動してた」

「お爺ちゃんが入院してたとこだあ。もう死んじゃったけど。ボケが進む前で良かったってお父さんとお母さんが言ってた」


 そんな噂に相槌を打ちながら、颯馬はあの白い壁に黒い染みが滲むところを想像していた。病室の隅から、先生や患者や見舞客の話をじっと聞いているのだ。どいつなら殺して良いのか、どいつが助からないのか。それから、考えてしまう。友達の知り合いや親戚の中で、誰がかけがえのない命で、誰がそうでなかったのか。あの院長先生は、どこで線を引いているのか。


『人を食わせては、を鎮めていたんだろう』


 院長先生は、夜の病院でそう語っていたから。だから――あいつは追い払い続けられるものじゃないんだ。いつかは必ず、誰かが食われる。だから、誰をイケニエにするかを選ばなきゃいけない。


『この病院はね、かつてはヤブだと言われてたんだ。患者がよく死ぬってね』


 でも、今の峯岸病院の評判は良いみたいだ。熱血な先生に、綺麗な建物に。医学が進んだから? だから死ぬ人が減った? 違う、それでもは腹を空かせる。それなら――今は、死んでも良い人、死ねば良いのにと思われている人が増えたのだ。


 颯馬は知ってしまった。この世にはかけがえのない命とそうでない命があって、誰が生きて誰が死ぬか選ばなければいけない時があるのだ。彼は、かけがえのない命だ。愛されて、大事にされている。だから、小鳥遊さんを犠牲にして生き残れた。それが、許された。


 君はかけがえのない命――まだ、今のところは。

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君はかけがえのない命 悠井すみれ @Veilchen

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