第3話
「
「破傷風ってやつでしょ……知ってる」
ガーゼを取り換えに来た看護婦さんの、子供を脅かすみたいな言い方は颯馬の気に障った。何も知らないと思われているのも腹が立つし――何より、そんなウソで騙されると思っているならバカにするにもほどがある。
傷口に悪い菌が入って腐ったり腫れたり、っていうのはマンガだったかで見たことがある。でも陸翔は今朝までは元気だったのに。急に集中治療室だか何だかに移らなきゃならないほど具合が悪くなるなんて、おかしい。
それに、颯馬は言ってしまった。陸翔が死ねば良い、って。院長先生の言いつけを破って。黒い
「あら、すごおい。大人ねえ。――じゃあ、ひとりでも大丈夫、ね?」
「…………ぅん」
ウソに気付いているのに言うことができないのは、夜だからだった。今夜はひとりぼっちになるからだ。看護婦さんを責めて、本当のことを聞き出すのが怖かった。聞いても教えてくれるとは限らないけど。昨日までと同じように、綺麗な病院での何もない一夜だと信じ込みたかった。だから、何も見なかったことにしなければならなかった。
* * *
今夜は点滴も取れたし、痛み止めも効いている。昨日よりは身体を動かしたし、眠れても良いはずだった。でも、暗闇の中で颯馬の両目はぱっちりと開いたままだった。天井の、うっすらと光りさえするような白さが、怖い。またいつ黒い染みが滲んでくるか分からないから。でも、目を閉じるのも、怖い。黒い染みが現れても気付くことができないから。
朝までの果てしない時間が早く過ぎることを祈りながら、颯馬が何度目かに寝返りを打った時――カーテンに、人の形の影が浮かび上がった。
「――颯馬君」
「ひゃ!?」
名前を呼ばれて跳ね起きる。急な動きで傷口が痛む。めちゃくちゃに手足を振り回してもがきながら思うのは、この声は知っている、ということだ。低い、男の人の――穏やかな語り口。誰だったか――思い出すまでもなく、カーテンがしゃっという音と共に引き開けられる。
白い壁と白い天井。それに、白衣。それらの白は暗い中でも眩しくて、その人の顔を浮き上がらせる。にこやかな笑みを浮かべた、院長先生の顔を。悲鳴を上げれば良いのかほっとすれば良いのか。颯馬が分からないでいるうちに、院長先生は片膝をベッドの淵に乗せ、ぐいと颯馬に顔を近づけてきた。診察の時と同じ、優しそうな笑顔が迫り――耳元で、囁かれる。
「陸翔君のこと……聞いただろう。今、危ない状況なんだ。――君、あの子を
颯馬の腕にぞわりと鳥肌が立った。寒くもないのに、全身ががたがたと震え出す。
聞かれていたのだ。黒い染みにだけじゃなく――それか、この人も
そんなつもりじゃなかったんだ。あれくらい、よく言うじゃないか。陸翔だってウザかったし。ほんとになるなんて思わないじゃないか。だから、颯馬は悪くない。
「違……本気じゃ……!」
色んなことが頭を駆け巡ったけど、口にできたのは幾らもなかった。歯ががちがちと鳴ってろくに舌が動かなかったから。それに、きっと颯馬のせいなのだから。違うことなんて、ないのだから。
「ふむ、やはりか。あんな説教はね、怪しかっただろう。おかしな奴だと思っただろうね」
でも、院長先生は軽く頷いただけだった。死ねなんて言ってしまった颯馬なのに、笑いかけてくれる。でも、笑っているのに、どうして悲しそうに見えるんだろう。確かに、院長先生の「お話」は変だと思ったけど。分かっていたのに、言ってたなんて何なんだろう。
「死ねとか殺すとか、子供は、言ってしまうよね。仕方ない。……昨日のあれはね、君らというよりは
「な、に……?」
院長先生が何を言っているか分からない。分からないけど、怒られるのではないらしい。そう思った次の瞬間には、陸翔より自分のことを考えていることに気付いてしまって嫌になった。居心地悪くベッドの上で身体を縮こまらせようとした颯馬の腕を、でも、先生はぐいと引っ張った。ベッドから引きずり出して、立たせようとしている。先生の目は、怖いくらいに真剣だった。口元は笑っているのに、だから、異常な感じがして怖くて――
「医者として情けない限りだが、君の助けを借りたい。君なら陸翔君を助けられるかもしれない。呪いをかけた本人なら、覆すことができるかも……!」
だから、颯馬は抗うことができなかった。
* * *
この病院はね、かつてはヤブだと言われてたんだ。患者がよく死ぬってね。そもそも、峯岸が病院を始めたのもそれが理由だったんだろう。昔は、どうしても助からない病気も身近だったから。そういう人を食わせては、
* * *
夜の病院の廊下を、院長先生に手を引っ張られながら早足で歩く。昼間だったらつまらないゲームみたいだとか笑っていたかもしれない話も、ところどころにある非常灯が浮かび上がるだけの暗闇で聞くと疑うことはできなかった。颯馬は、確かにあの黒い
「俺、陸翔を呪いたいなんて思ってなかった……!」
「分かってるよ。ただ、
「た、助かるの……?」
「……試してみるしかない」
颯馬の手を握る院長先生の手に、力が篭った。それで分かってしまう。先生にもはっきりと分からないのだと。
集中治療室と赤いランプが点った扉の前で、男の人が女の人の肩を抱いていた。先生と颯馬の慌ただしい足音に、ふたりは顔を上げる。
「先生。この子は……?」
「あ……颯馬君……」
女の人は、颯馬も会ったことがある陸翔の母親だ。じゃあ、男の人は父親だろう。ふたりとも、大人なのに泣きそうな顔をしている。陸翔が死にそうだから、心配しているんだ。陸翔だって大切にされている――かけがえのない命、なのに。院長先生が言った通りだったのに。颯馬は、本気じゃないのに言ってしまったのだ。死ねば良い、と。
「あの、ごめんな――」
「陸翔君と同室の子です。友達の声が支えになるかも、と思いまして」
陸翔に何が起きているのか説明しようとしたけれど、院長先生は早口に颯馬を遮った。謝ろうとしているのに、背中を押されて逆らうことができず、颯馬は押し込まれるように治療室の中に転がり込んだ。
「颯馬君、こっち」
「あっ、はい」
中は意外と広くて、ベッドの他にも機械が並んでいた。きょろきょろと見渡していると、院長先生がベッドのひとつに向かいながら手招きした。
「陸翔……!」
そのベッドに、目を閉じて、口にチューブを挿されて横たわっているのは、確かに陸翔だ。でも、実は顔を見るまでもなかった。黒い染みが、床から這い上がってシーツやベッドの手すりまで染め上げていたからだ。陸翔の足元は、真っ黒い沼に沈んだようになってもう見えない。お腹の辺りで組んだ陸翔の手も、黒くまだらにカビたようになっている。顔周りは、まだ丸く白く切り抜かれたようになっているけど――白と黒の境は、じわじわと蠢き、白は次第に押されているようだった。
ライオンとシマウマみたいに、と院長先生が言ったのがやっとよく分かった。前にテレビで見た動物番組を思い出すから。獲物が弱るのを待って、少し距離を置いて追い詰めていくライオンとかハイエナとか。黒い染みが陸翔との距離を測るようにざわざわと蠢くのは、あの光景にそっくりだった。
「ご両親にも、諦めないように、励ますようにとお願いしたんだ。でも、多分ヤツは今、君の言葉に従っている。だから――君が、否定してくれれば……」
「う、うん……」
床に淀んだ黒を踏むと、泥を踏んだようなぬちゃ、という感覚があって背筋に寒気が走る。できるなら、逃げたい。こんなのに触れたくはない。でも――言ってしまったのは、颯馬だから。責任を取らなければならないのだ。
「ごめん、陸翔……本気じゃなかったんだ。死ねば良いなんて、本当は思ってなかった……」
胸がどきどきして、息が苦しい。痛い。それを堪えて、絞り出すように声を上げる。
「外で、お父さんとお母さんも心配してた。目、開けてくれよ……! 陸翔は、まだ死んじゃダメなんだよ……」
必死に呼び掛けると、
「陸翔! 死んじゃダメだ! 陸翔!」
腹の底からの叫びは、黒い泥のような
「陸翔……!?」
「あ……?」
何度目かの呼び掛けに、陸翔の目が、開いた。口に突っ込まれたチューブに、苦しそうに眉を顰める。でも、しきりに瞬きする陸翔は、颯馬の顔をはっきり認識しているようだった。
「陸翔君、良かった……!」
「早く、ご両親呼んで!」
院長先生の声に、看護婦さんたちが走り回る気配もする。陸翔はチューブを外されて、袖をまくられて脈を取られている。颯馬はもう邪魔ものなのか、看護婦さんのひとりに、こっち、と言われてそっと治療室を押し出された。看護婦さんたちにも染みが見えていたのだろうか。関係ないはずの颯馬がいること自体は、それほど不審に思われていないようだけど。
でも、とにかく終わった、はずだ。陸翔のお母さんが泣きながら陸翔に抱き着いているのを見れば、良かった、と思う。颯馬は、陸翔を呪い殺さなくて済んだんだから。
治療室を見渡しても、廊下に出されてから壁や天井に目を凝らしても、あの黒い染みはもうどこにも見えなかった。
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