第2話

 昨晩の騒動を、陸翔りくとは寝て起きた翌朝になってもしっかり覚えているようだった。


「なーなー颯馬そーまぁ、昨日何見たんだよ。金縛りとか? 怖い話でも思い出しちゃった?」

「うっせーな……ちょっと勘違いしただけだって……」

「へー、何を、何と? 何想像しちゃったん?」


 陸翔は颯馬が何かにビビって大騒ぎした、と決めつけているらしい。にやにやした顔にイラッとするけど、明るくなってみると颯馬が見たものの痕跡は何ひとつ残っていなかった。だから、勘違いとしか思えなくて。でも、だからこそ颯馬の機嫌は悪くなる一方だった。


「うぜ。ジュース買ってくる」


 陸翔と顔を合わせていると、また院長先生に怒られそうな喧嘩になってしまう。だから颯馬は財布を掴むとベッドから立ち上がった。今日はもう点滴も取れている。少しは歩かないと息が詰まりそうだった。


      * * *


 自販機のあるフロアには、椅子やテーブルも何組か置いてあって休憩場所みたいになっている。入院患者らしい人たちが新聞を読んでいることもあれば、見舞客が雑談していることもある。ほとんどジジババばっかりで、颯馬は関わろうとは思わないけど。


 冷たい炭酸飲料の缶を手に空席を探していた颯馬の耳に、通りすがりのテーブルのやり取りが聞こえた。


「タカナシさん、おじいちゃんの具合、どぉお?」

「イロウにしてもらったのよ。ちょっとは楽だけどね、ボケが進んじゃって、もう……ねえ? 生きてるか死んでるか分からないでしょ」

「でも、まだ大人しいから良いじゃない。うちなんか――」


 車椅子に座らされたジジイを挟んで、オバさんというかババアというかがくっちゃべっている。口と目をぼんやりと空けて宙を見ているジジイは確かに死体みたいで少し不気味だった。死体の横で楽しそうに喋ってるババアたちもだけど。


「あんまり長引かないでね、ぽっくり逝ってくれるとね、助かるんだけど……」


 よく分からない単語も多いし、他人の会話だ。何となく聞き流しながら通り過ぎようとした時――颯馬の目は、白衣の人影を捉えた。院長先生だ。こっちを見ている。いや、違う。ジジイとババアを見ているようだ。こいつらの声、でかいから。聞こえてるのかもしれない。


 あ、これ、怒られるやつじゃね? と颯馬は思う。よく分からないなりに、ババアどもの会話は「命を大事に」してる感じじゃない。ジジイのことを死体みたいとか、院長先生は絶対怒りそうな気がする。大人が叱られるところなんて滅多にない。それも、颯馬が怒られたのと同じ理由でなんて。それはちょっと、見てみたい。


 わざとスピードを落として、できるだけ顔を動かさないようにして目をきょろきょろさせる。気付かれないように、院長先生とババアどもの両方をチェックできるように。先生がいつ立ち上がって説教を始めるかと、少しワクワクしながら。


「なんだよ……」


 でも、颯馬は落胆の呟きを漏らすことになった。院長先生は動かなかった。もうババアどもから目線を外して、どこか別の方向へ背を向けてしまっている。もちろん、忙しいんだろう。だけど颯馬と陸翔には、忙しい中絡んできた癖に。大人相手だと何も言わないのかよ、と思ってしまう。じゃあ、ダメだと言われたことだってそんなに深い意味はないんじゃないか。昨日怒られたのは、一体何だったのか。


 院長先生のお説教と、陸翔のにやにや顔を思い出すと、急にイライラしてきた。だから颯馬は、わざと口に出して言ってみる。ダメと言われたことをやるのは、楽しいものだから。


「陸翔のばーか。死なねーかなー」


 もちろん、誰にも聞こえないような小さな声だ。それでも、軽く節をつけて歌ってみると胸がすっとした。――視界の端に、黒い染みが過ぎるまでは。


「え……?」


 でも、峯岸病院は新しいのだ。どこも綺麗に掃除されている。だからやっぱり、カビでも汚れでも、黒い染みなんて見当たらないのだ。まして、染みが動くことなんてあり得ない。

 その、はずなんだけど。


      * * *


 その後も、颯馬は病院中を無駄にぐるぐると回ってから病室に帰った。同じ部屋に入院しているのは彼と陸翔のふたりだけだったから、あいつと顔を合わせなきゃいけないのが嫌だったから。といっても、子供がうろうろできる場所は限られているし、食事の時間には戻らないと怒られる。


「あら、颯馬君。探しに行くとこだったわ。もう痛くないの?」

「ん、大丈夫」


 ちょうど、というか。病室に近づいたところで、颯馬はワゴンを押す看護婦さんと合流した。入院初日から、颯馬の点滴とかを受け持ってくれているおばさんだった。お喋りでちょっとウザい感じもあるけど、話しやすくはある。少なくとも、院長先生よりは、ずっと。


「――あれ?」


 病室の扉を開けた瞬間、颯馬は首を傾げた。彼自身のベッドは、さっき抜け出した時のままだった。充電中のゲーム機に、ほっぽり出したマンガ本が捲れた布団の上。一方で、陸翔のベッドは綺麗なものだった。シーツもピンと伸びて、私物もない。何ひとつとして。あいつが初めからいなかったみたいに。


「陸翔は……?」

「ああ、陸翔君はね……ちょっと」


 看護婦さんがワゴンから下ろすのも、ひとり分のカレーだけだった。


「颯馬君、ひとりご飯になっちゃうけどごめんね。今日も、お母さん来るんだよね……?」

「うん……そう言ってたけど」


 陸翔のことを聞いたのに、看護婦さんは颯馬のことについて話してきた。別に、ひとりなんて気にしないのに。陸翔にまた笑われるくらいなら、いなくなってすっきりしたくらいなのに。母親だって、別に毎日来なくても良い。マンガは読み終わったけど、ゲームはあるし。対戦相手りくとがいなくても、ひとりで遊べるし。


 せいせいした――そう言い切れないのは、看護婦さんの笑顔の影に、なんだか心配そうな気配が見えた気がしたからだ。別に心配される必要はないはずなのに、そんな顔をされると逆に不安になってしまう。

 それに、昨日からの色々が頭を過ぎってしまっていた。院長先生のおかしなお説教。夜中に見たはずの黒い染み。それに、颯馬は言ってしまった。陸翔が死ねば良い、と。冗談だし、誰も聞いていなかったけど。


 誰も? 本当に? もしかしたら、あの黒い影はさっきも。死ねと呟いた、ちょうどその瞬間に。


「颯馬君、残さず食べなよ。後で食器下げに来るからね」

「あ――」


 不意に襲った寒気に颯馬が身体を震わせた時には、看護婦さんはワゴンを押して病室を後にしようとしていた。明るい笑顔が遠ざかってしまうのが嫌で、呼び止めそうになる。でも、待って、と言ったところでどうなるだろう。看護婦さんには仕事があって、ずっとついていてもらう訳にはいかないのだ。


 颯馬がカレーを食べ終わっても。母親が見舞いに来て、そしてまた帰っても。夜になって消灯の時間が来ても、陸翔のベッドは空のままだった。

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