君はかけがえのない命

悠井すみれ

第1話

「君たちは、自分が何を言ったのか分かっているのか!? 友達に向かって『死ね』だなんて……!」


 峯岸みねぎし病院の一室で、颯馬そうま陸翔りくとと並んで懇々と諭されていた。昨日、盲腸の手術を終えたばかりの身としては、ベッドに半身を起こして姿勢を正していると傷の痛みが少し辛い。キャンプで川に落ちて、骨が見えるレベルの怪我をしたという陸翔だってそうだろう。


「来院した時のご両親の顔を覚えているだろう。必死の表情で、君たちが治るよう、傷跡や後遺症が残らないように先生にお願いしていたんだよ。君たちは愛された、かけがえのない命なんだ。決して、軽々しくそんなことを口にしてはいけない」


 ふたりの前の白衣の男の人は、この病院の院長先生だ。わざわざ椅子を引っ張ってきて、子供に目線が合うように腰掛けている。颯馬の父親よりは少し年上、担任の村西先生くらいの年の人だろうか。颯馬の盲腸の手術をし、陸翔の傷を縫ってくれた人でもある。だから、お世話になってはいるし、親に促されてちゃんとお礼も言った。それに多分、こっちにも悪いところは、あった。

 入院生活は暇なのだ。手術の傷の痛みは大分マシになったけど、きちんと身体を起こして夏休みの宿題をするにはまだキツい。横になったままできることと言えば、マンガを読むかゲームをするか。運よく隣のベッドの陸翔が同学年だったから、対戦ゲームをしていたのだけど――白熱したからといって死ねだの殺すだのと言い合っていたのは、確かに良くはなかったのだろう。母親に聞かれでもしたら、やっぱりお説教になったのは間違いない。


「……すみません。ゲームしてて、つい……」

「たとえ遊びでも、いけなかったね。ゲームをしてはいけないとは言わない。でも、喧嘩はしないと約束できるかな?」


 颯馬は、陸翔とちらりと視線を交わし合った。この先生めんどくね? の意味だ。彼らは確かに乱暴な言葉遣いをしていた。でも、本当に相手を殺したいとか死ねば良いと思っている訳じゃないと、普通に分かってくれても良いだろうに。それくらい、よくある冗談というか挨拶というか、別に気にするものじゃない。

 でも、院長先生の目は真剣だった。目を逸らすことも、笑って誤魔化すのもきっと許されないと分かってしまうほど。真っ直ぐで、刺さるようで、不気味なほどに。だから、颯馬は陸翔にほんの少しだけ頷いて見せた。これは、しょーがねーよ、の意味。何だか変な人に掴まってしまったけど、ひと言約束すれば終るなら、そうすれば良い。


「はい、約束します」

「俺も」


 真面目な顔でうなずいたのも表面だけ、ふたりとも、さっさと解放されたい一心だった。でも、院長先生はとても嬉しそうに微笑んで、颯馬と陸翔の頭を順番に撫でた。


「ありがとう。良かった、分かってくれて。……本当に、もうダメだからね。良いかい、君たちは大切な存在なんだ」


 それでも、ダメ押しのように告げた先生の顔も声も、また真剣で怖いものに戻っていた。もう立ち上がって次の病室に行くようだから、良いんだろうけど。変な先生に診てもらうのは嫌だな、と。颯馬の心の片隅にちくりと引っ掛かりが残っていた。


      * * *


「おかーさん、俺、変なビョーキじゃないよね?」

「何言ってるの、ただの盲腸って言われたでしょ」


 着替えとマンガ本の交換にやってきた母親に念のため尋ねてみると、呆れた顔で返された。院長先生の変な真剣さを見た後で、まさか、颯馬に言われていないだけで余命わずかな難病だったりしたらどうしよう、と――ほんの少しだけ心配になってしまったのだけど。


「何、病院が怖くなっちゃった? 早く帰りたいの?」

「な、ちげーし!」

「はいはい、明後日には退院だからね。明日には点滴取れるそうだし、宿題もやっときなさいよ」

「うー……」


 小四にもなって、病院や夜が怖いなんてあるはずがない。恥ずかしい決めつけをされた上に現実を突きつけられて、颯馬は不機嫌に唸る。そんな息子にくすくすと笑うと、母親はまた明日来るからね、と言って病室を後にした。面会時間は、意外と短いのだ。扉を閉める間際に、母親は一瞬だけ悲しそうな目を向けてきた。病院に颯馬を残していくのが寂しくてならないような、パジャマ姿で横たわる彼を見て哀れむような。

 そんな、母親の見たことのない顔を見てしまうと、院長先生の言葉が蘇った。照れ臭過ぎて考えるだけで叫びそうになってしまうけど、颯馬は愛されている、のだろう。だから――かけがえのない命、とか言われたのも当たっている、ということになるんだろうか。


 病院の夜が更けるのは早い。夜の九時にもなると、電気は消されて横になることを強制される。こっそりゲームをするくらいはできるかもしれないけど、昼間、院長先生に叱られたことを思い出すと見つかったら面倒なことになりそうだった。

 コウセイ物質とやらの点滴で、今夜は身動きも取れない。だから颯馬は死体みたいに仰向けになって天井を見つめることしかできなかった。昨日に比べれば、傷の痛みや熱っぽさがないだけ気分は良いけど。でも、だからこそ朝までの長い時間が退屈でならなかった。

 陸翔も眠ってはいないのだろう、ベッド同士を区切るカーテンの向こうから寝息は聞こえない。それどころか時々溜息さえ聞こえてくる。声を掛けようか、とちらりと思うけど、それも院長先生の変に真っ直ぐな目を思い出すとできなかった。


 だから、颯馬はひたすら天井のパネルの線を見ていた。そこに迷路というかあみだクジみたいなものを描いて、退屈を紛らわせようと。一日中ベッドの上で過ごした後、しかもこんな早い時間では、眠気なんて来てくれない。家だったら、まだ見たいテレビ番組もあったのに。

 峯岸病院は、何年か前に建て替えたばかりらしい。だからだろう、天井は暗い中でもうっすらと浮き上がって見えるほど、白い。カーテンも洗い立てみたいな真っ白さだから、真っ暗なのに明るいような気さえ、する。学校よりもよほど綺麗だ。廊下では看護婦さんが行き来する気配もする。こんな場所が怖いだなんて、母親は颯馬を馬鹿にしていると思う。


「ん……?」


 何度目かに瞬きをした時だった。天井の隅に黒い影があるのに気付いて颯馬は声を漏らした。壁と天井の境目の角っぽくなったところに、カビが広がったのかな、という感じの染みがあった。でも――さっきまでなかった気がする。一瞬でカビが浮かび上がるなんてあるんだろうか?

 ぎゅっと目を閉じ、目蓋の裏に色んな線や模様が浮かぶくらい、力を籠める。それから、再び開くと――染みは、確かにあった。さっきよりもずっと広く濃く、屋根裏から墨汁を垂らしたみたいに。颯馬が驚いて目を見開いたわずかな隙にも、またじわりと。黒い染みは広がって、伸びていく。颯馬が寝ているベッドの、真上を目指して。


「う、わ……!」


 身体を捩ると、腕にちくりとした痛みが走った。点滴の針がずれたのか。痛みの源を確かめようと少し横を向くと、陸翔のベッドとの間を仕切るカーテンが目に入った。それはもう白くはない。が忍び寄って来ているのだ。天井からカーテンを伝って、ベッドへと。狙われている。


「やめろ、来るなあっ!」


 染みに襲い掛かられるのを思い浮かべて、颯馬は思わず叫んでいた。同時に腕を振り回すと痛みが強まり、点滴のポールが倒れてくる。がしゃん。がつん。颯馬の頭や腕、肩に鈍い衝撃が走るけど、構わず手を振り回す。は、彼に向って伸びてきている。なぜか、そう確信できた。


颯馬そーま、寝惚けてんのかよ?」

「どうしたの、夜は静かにしなさい!」


 隣からは、陸翔の声。それに、看護婦さんのキツい大声。寝ないで遊んでいるとでも思われたらしかった。そうじゃないのに怒られるのはムカつくけど、ぱっと灯りがついた瞬間、颯馬は泣きそうになるほどほっとしていた。もちろん、本当に泣いたりなんかしないけど。


「そこ……なんか黒いのがいた!」


 眉を顰めて颯馬のベッドに近づいてくる看護婦さんに、必死に指で天井とカーテンを示す。意味もなく騒いでいたんじゃないんだと伝えたくて。でも――


「何もないじゃない」

「嘘だ……カビみたいのが、動いて広がってたんだ……!」


 暗闇から急に明るくなったのに目が慣れなくて、颯馬はしきりに瞬きをした。それに、見えるものが信じられなくて。峯岸病院は立て替えたばかりだということはあった。天井にも壁にもカーテンにも、染みもカビも一点もない。真新しい真っ白さが眩しいくらいだ。


「ゴキブリでもいたとか? ビビっちゃって、だっせえ」

「やだ、怖いこと言わないで――ああもう、血が出ちゃってるじゃない」


 陸翔はバカにしたように笑うと、ごそごそと自分のベッドに戻っていった。完全に寝惚けたと決めつけてる感じに文句のひとつも言いたかったけれど、看護婦さんがさせてくれない。強引に掴まれた腕を見下ろしてみると、確かに点滴が抜けた跡から血が滲んで、パジャマの袖を汚していた。


「お腹は……手術跡は大丈夫? 盲腸だってね、お腹切ってるんだからね?」

「大丈夫……」


 正直なところ、縫ったばかりの脇腹の傷もずくりと熱く痛み初めていたけれど。でも、颯馬はそれを看護婦さんに伝えることはしなかった。もう一度点滴を腕に刺される一瞬の痛みも、どうでも良い。それよりも、確かに起きている時に見たものが消えてしまったのが不思議で不気味で仕方なかった。

 本当に何もなかったのか確かめようと、颯馬は首をぐるりと巡らせる。すると――看護婦さんが開けっ放しにしていたドアの隙間から、白衣の影が遠ざかるのが、見えた。身長や体格からして、あれは院長先生ではないだろうか。

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