第1章「沈黙の姫君」:8

 目の前にいるその女は、一千年もの昔、この『京』の都を戦火に包み込んだ八禍徒媛命の妹だと語った。女――椿は、山菜蕎麦が盛られた器が目の前に置かれると、さも自然に、“人間”と何ら変わらぬ仕草で箸を操り、蕎麦を啜った。驚いたでしょう、と意地悪気に嗤ったその目元の移ろいさえ、どう見ても“人間”そのものであった。

「君も、なかなかに趣味が悪い。世間知らずの少年を惑わすなんて」

「先輩ほどでは、なくってよ。――私は、世の悪い大人に、うら若き少年が騙されて利用されないよう守ったつもりだわ」

 椿は、世の悪い大人、という文節により声を強めて微かに眉を寄せた。明らかに甘く噛むように、雪郎に向けられた批判であった。雪郎は視線を逸らして受け流し、

「嘘ではないよ。彼女は、八禍徒媛命と血脈をともにする『妹』だ」

 未だ状況についていけず呆然としている征四郎に向けて、椿が口角を引き上げた。唇に差された紅の所為だろうか。椿が固く結んだ唇が、理解を雄弁に求めている気がした。椿は蕎麦を掴む箸を止めて、甘味でも如何、と付け足す。征四郎が答えぬ内に、椿は早々に店の娘を呼び寄せて、大福を二つね、と伝えた。

「嘘、みたいだろう?」と、雪郎。

「はい。信じられないですよ」と、征四郎。

「でも、嘘ではなくてよ」と、椿が結んだ。

 まるで言葉遊びのように弾む会話を、雪郎もどこかしら楽しんでいるように口元を緩ませた。椿は、運ばれてきた小ぶりの大福が乗った小皿を、どうぞ、と征四郎の方に寄せた。

「先生は、八禍徒媛命は、史上最悪の妖魔だ、と。間もなく、その戦争が始まる、と」

「それも、嘘ではない。戦争は、間もなく始まる――いや、もう始まっている」

「先輩、それは、かつての陰陽師側の一方的な言い分だわ。姉様は、ただ自由になりたいだけよ。戦争、だなんて」

 自由。椿が挟んだ言葉を引き継ぐように、征四郎は口の中で反芻した。……自由。

「征四郎クン、八禍徒媛命について何か文献を読んだことは?」

 征四郎を制するように、椿が冷やかさを隠さずに問いかける。口籠る征四郎を横目に、彼はまだ『京』に着いたばかりの学生なんだ、と雪郎が割って入った。意地悪も程々に、と忠告を付け加えるのを忘れなかった。

「歴史は、後の世に、いくらでも都合の良いように書き換えられるもの。そう思わなくて? 一千年後に伝わっている歴史なんて、真実かどうかなんて誰にもわからなくてよ。……ただ、私は一千年、この地で生きてきた。この目で見、耳で聞き、肌で感じた、そのすべてを覚えている」

 椿は、幾枚かの桜の花びらが舞う格子の奥に視線を遣って、遠い昔の記憶を手繰り寄せるように、暫くの間、沈黙した。意識を奪われたからか、真昼の喧騒がどこかへ遠退いて、三人の周囲には静寂が押し寄せていた。椿は、その穏やかな静けさに刻み込むように零した。

 ――姉様は、かつてこの『京』の都を司っていた、護り神だったのよ。

 『京』の都を司る? 護り神?

 雪郎が、言葉が流れていく先を追うように付け加える。

「そう、八禍徒媛命は一千年前、『京』に住む人々がこの世の春を謳歌していた時代に、まさに『秩序』そのものだった……そうだよ」

「でも、先生は昨日、八禍徒媛命は『災厄』だと」

 征四郎は、昨日、大学で会った染葉啄馬の顔を思い出しながら言った。啄馬の語気の強さは、記憶の中で、まだ生き生きと気配を滲ませている。

「それこそ、都合の良い歴史の改ざんだわ」

 愚かな話、と椿が吐き捨てて唇を尖らせた後、そのまま口付けをするように大福に口をつけた。まあまあ征四郎クンに罪はないよ、とすぐ向かいで執り成しながら、君も、と雪郎が大福を勧める。征四郎は、黙って口をつける。格子の向こうから、柔らかな春風が吹き込んできた。頬が微かに帯びていた熱気をともに連れ去っていく。まるで思い出したかのように、ほんのり甘い餡の風味を、美味しい、と思った。

「問題は、何故、当時の人々と八禍徒媛命が“対立”したか、だよ」

 雪郎の言葉に反応した椿が口を開きかけて、雪郎は即座に手で制す。二人の視線が、同時に征四郎に注がれた。まるで、それぞれから試されているかのように。――迂闊に答えてはいけない、と素直に思った。征四郎は言葉を返す代わりに、大福を飲み込みながら視線を机の上に落とす。

「当時の『秩序』は、あくまで八禍徒媛命の『支配』の下に成立していた」

 淡々と語る雪郎に、椿は反論する。

「『支配』だなんて、人聞きの悪い。正確には、『庇護』だわ。姉様が『秩序』となって、この地を統べていたからこそ、世は平和で、誰もがその恩恵を享受していた。世の繁栄は、姉様の『庇護』の下にあったわ」

「……確かに、そうだったろう。でも、人の欲、というものは果てがない」

 雪郎の唇の端に浮かんだ影が示していたのは、自嘲。そのことは、征四郎にも見て取れた。雪郎が、続ける。

「端的に言うならば、自分たちの世を創るために、八禍徒媛命が邪魔になったんだよ。結果、当時の帝を中心とした勢力は、八禍徒媛命を封印する計画を実行した。当時の人間からしてみれば、八禍徒媛命の『支配』……いや、『庇護』の下であるならば、永遠の平和も叶ったかもしれないが、彼らが目指したものは、帝中心の人の世。――八禍徒媛命という『枠組み』を、打ち破ろうとした。未来に、より広い世界への『自由』を求めたんだよ」

 雪郎は、窓辺で桜の花びらを啄(ついば)んでいる小鳥をじっと見つめた。微かに残る花の蜜を追い求めているのだろうか。歌うように鳴きながら、小鳥は花弁を嘴の先で弄ぶ。

「そんな美談にまとめても、結局は、護り神への『反逆』だわ」

「……確かに。花牟礼クンの言うとおりだ。でも、その結果、今がある。――今の世は、そこまで否定されるべきものかい」

 椿が言葉を探して押し黙った心情を察し、征四郎もそれに続いた。この世に生を受けて未だ十数年しか生きていない自分からしてみれば、その正否は、遥か遠い未来の先にあるような気がした。今の自分がいくら手を伸ばしても、きっと届かない場所にあるような気が。

「では、八禍徒媛命の目的って――」

「それは、さっきも言ったわ。姉様は、ただ自由になりたいだけよ」

「……自由」

「そう、自由。遥か古(いにし)えの時代から続く、『理』から解放されたいだけ」

「それって、そんなに難しいことなのですか」

 征四郎が無邪気に投げた問いに、椿は大きくため息を漏らした。あとは任せます、と放り投げるように雪郎を見遣り茶碗に手を伸ばす。雪郎は、椿に詫びるように一瞥を返してから、

「難しいね。……ある視点から見れば、難しくはないのかもしれないが。けれど、今の世の『理』は、八禍徒媛命の『秩序』の上に成り立っている。当時の人間たちは、彼女の『支配』から逃れようとしたのではなく――逆に、八禍徒媛命を『支配』することで、恩恵を受けながらも、自分たちの望む世界を創ろうとしたんだ。だから、八禍徒媛命を『理』から外すとなると」

「そもそも、この世界は成り立たなくなる」

 椿が締め括るように言葉を重ねて、本当に愚かなこと、と呆れた口調で言った。

「『京』の人々は、別に何の自由にもなっていない。ただ、姉様から、この『世界』を奪おうとしただけ。それが、本当に彼らの望みだったのかしら」

 椿は、そう宙に問うた後、思い出したように懐からカチカチと小刻みに秒を刻む懐中時計を取り出した。先輩、時間、と口早に告げる。雪郎は、示された時刻を見て、嗚呼、と答えると、

「征四郎クン、今日は付き合わせて悪かったね。ただ、君も、そのうちに『選択』を迫られる日が来るだろう。籠の中の小鳥でいるべきか、大空を自由に羽ばたくべきか――」

 タイを整え直してから腰を上げた雪郎に、椿も傍らの茶封筒を脇に抱え直して続く。幾分か表情を和らげて、

「今日、お会いできて、良かったわ。私は別に、あなたたちを敵視したり恨んでいるわけではないけれど」

 そう語る椿が、雪郎に続こうとする姿に、その言葉が真実であることが征四郎にも理解できた。ただ、物事はそう単純にも行かない。そのことも、同時に悟った。その後、胸に微かな清々しさが流れ込んできたのは錯覚ではないだろう。

「姉様には、姉様の事情もあるだろうし、そこは当事者にしか感じ得ないものもあるのでしょう」

 去り際に椿が、また逢いましょう、と幾らか輝きを帯びた声で言って微笑んだ。そして間髪を入れずに、三人分の勘定が書かれた紙を雪郎に押し付ける。やれやれ、と雪郎のついた溜息に気づいたか気づかなかったか、征四郎にはわからないまま、椿は店内に入ってきたときと同じ快活な足取りで出口を抜けていった。やれやれ――雪郎は言葉にする代わりに肩を竦めると、また蝶子さんの店でね、と言い残して椿の背を追っていった。

 征四郎は、視線の置き場を失って、椿と同じように格子の外へと視線を遣る。春風に舞う桜の花弁が、幾枚か連なって視界を横切って行った。純粋に、美しい、と思った。この風景は、この一千年の時間の積み重ね、そして一千年前に当時の人々が選択した先で形作られた世界であることは確かだ。

 ――八禍徒媛命の『庇護』の下にあった世界、とは。

 ――何故、その『理』を変えようとしたのだろう。

 まだ、小鳥は蜜を探して、窓辺に留まる桜の花びらを弄んでいる。征四郎は、ぼんやりとその愛らしい姿を眺めていた。

 何故、一千年前の人々は、『楽園』を抜け出そうと考えたのだろう。

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【2023年再開】京師裏史書 狩部崇介 @karibe_sousuke

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