第1章「沈黙の姫君」:7

 ――良い頃合いだ。昼食でも取らないか。そう雪郎に誘われて帝国国立図書館を後にし、征四郎は「京」の見知らぬ通りを歩いていた。途中、右に曲がったかと思えば、次の通りでは左へ。まるで何かを避けるような足取りではあったが、雪郎は前へ前へと導かれるように歩を緩めず進んでいく。

「陸鬼義久(クガキ ヨシヒサ)という名を、聞いたことがありますか」

 征四郎は、数歩前を進む雪郎の背に、古新聞の記事で目に留まった名を投げた。征四郎には、今、「京」のどの辺りを歩いているのか見当もつかなかった。天を仰げば、頂に近く陽が上っている。昨晩口にした曹達水の仄かな泡の感触が、喉の奥で不意に蘇ってきた。喉が渇いたな、と想う。

「昨年の夏の記事で、初めて目にしました。……僕も、同じ陸鬼。でも、京都に親戚がいる話なんて、聞いたことは今まで一度もなくて」

 雪郎は、嗚呼、とだけ言葉を零して暫く押し黙った。そしてまた迷うことなく、右手の細道へと折れる。

「きっと、分家筋の話だろう。古い文献に依れば、当時、陸鬼の姓を負う二人の兄弟の陰陽師がいたという記録が残っている。その片方の血脈の先。一千年も前の話だから、お互いを知らなくても不思議ではないが」

 そしてまた足早に、左手へ。征四郎は見失わないように、後を追う。雪郎は、不揃いに柳の木が立ち並ぶ小川沿いを上がっていく。

「義久殿は、陸鬼分家筋の先代当主。八禍徒媛命を監視する任を、一千年もの間、代々継いできた血筋の末裔に当たる」

 そして、昨夏、数日程度だが、突如『怪死体』となって世間を賑わせた。雪郎が、察しの通りだよ、と続ける。

「それが、義久殿が我々に送った『報せ』でもあった。鷹矢家の先代当主、清政殿はすぐに察し、再び京に妖魔を閉じ込めるための『結界』を敷く準備に入った。そして、染葉先生は古い文献から次の一手を探そうと急いだ。だが、初めて前にする八禍徒媛命の力は我々が想像していた以上に強大で、清政殿の命を贄(にえ)としても大した時間稼ぎにはならなかった。今は、娘の美音子殿が『結界』の保持に努めているが、それもいつまで保つかわからない」

 ――みんな、今できることをしているんだ。

 入り乱れる雑踏の中で、雪郎は静かに行く末を紡ぐ。喧騒は、歩を進めるたび、段々と勢いを増す。大通りは、すぐそこだろうか。昼食時が近づいているせいか、通りは、さらに賑わいが増しているようだ。雪郎は、このまま視界が開けた先の大通りへと入る。

 大通りでは、視線の先に薄高い青々とした山の連なりが見える。視線を落とせば、老若男女の輝くような笑みが、あちこちに散見される。まるで、誇らしく咲く花のよう。この辺りは、恐らく「京」の繁華街に当たるのであろう。征四郎は、不意に目に飛び込んだ風景を異質なもののように訝し気に眺めながら、人の流れに沿って雪郎の後をついていく。

「封印の手立てが整うまでは、少なくとも私は、こうして逃げ回っておく他ない。かつて『神喰』が喰った八禍徒媛命の声が喰われない限り、奴が完全に復活することはないのだから」

 征四郎と雪郎のまわりを、様々な群像が通り過ぎていく。その隙間に、『奴ら』は居る。征四郎は、その危うさを想う。もしかしたら次の瞬間、『奴ら』は動き出し、目の前の人々は一瞬にして、地獄へと押し遣られる恐れもある。今この瞬間も、生と死の狭間に誰もがいて、そのどちらに転ぶかの選択は、『奴ら』の手の内にある。

「やっと、着いた」

 雪郎は、『金銀堂』と彫られた古ぼけた松の木の看板を見上げ、店先の暖簾に手を掛けた。戸を開けた瞬間、店内からは騒々しくも活気ある人の声が溢れ出てくる。ここの蕎麦は絶品だよ、とそのときはじめて雪郎の目元が緩んだことに、征四郎は気づいた。不思議な人だ、と想った。でも、腑に落ちた心地もする。それがまた、不思議だと想った。


「今、『東京』はどんな感じだい?」

 雪郎は、運ばれてきた蕎麦をするするっと流暢に啜って満足げに目尻を緩ませた後、思いついたように問うた。

「緩やかに時間が流れる『京』とは、きっと進歩の速度が違うんだろうね」

「……そう、なんですかね。僕は生まれも育ちも、『東京』ですから。でも、『京』の空気も好きですよ。懐かしく感じる、というか、何故かここにいることが自然に想えてしまうような気持ちにさせられてしまっていて」

 上手く言葉にできないけれど、言うなれば、昔見たことのあるような憧れの風景。駅に降り立った瞬間に頬を伝った涙を、胸を衝いた郷愁を、帰ってきたなと腑に落ちた安息感を言い表すなら、きっとその表現が正しかっただろうと征四郎は言葉にした後、一人考えた。雪郎が、新聞記者という時代の最先端のその先を追う身だからこその問いだったのかもしれない。雪郎は、目を細めて、微かに湯気が立ち上る煎茶を啜った。

「別に、『東京』を批判する気はないのだけれど、なかなか時代の最先端と進むというのなら、無理を押さなくてはいけないこともあるのだろう。古き良き時代、伝統との決着が――」

 と雪郎が言葉を紡ごうとした瞬間、その言葉は思わぬ方向に吹き飛ばされていってしまったかのように、お昼時の喧騒の中で搔き消えてしまった。雪郎の言葉の行き先を変えてしまったのは、若い女の声。

「は、花牟礼(はなむれ)クン……」

 雪郎は、明らかに動揺していた。両の眼が、まるで想定外の事件に巻き込まれてしまったかのように見開かれている。征四郎も思わず雪郎の視線を追って、振り返る。

 深みのある緑がかった翡翠色の洋装を纏った女性が、仁王立ちをしながら雪郎を見据えていた。『東京』にいた頃、うっすらと流行の話を聞いたときに話題に出た『ベレー帽』を深々と被っている姿が目に留まる。花牟礼、と呼ばれた女性は、迷うことなく一直線に雪郎に近づき、鼻筋に人差し指を突き付ける。なかなかの剣幕である。

「私に、小戸森(こともり)先生の原稿を取りに行かせて、自分は優雅に『金銀堂』でお蕎麦、ですか。私は、朝からくどくどくどくど…、先生にお小言を言われて。今、ようやくお昼を、と想ったら――なんと、神喰先輩のお顔があるじゃないですか。……私の言っている意味、わかってます? 神喰、さぁん?」

 花牟礼と呼ばれた女性は一気に捲し立てて、さらに刃先を鼻先に食い込ませるように、雪郎に詰め寄る。雪郎は逃れられないように体を固めたまま、視線を逸らして征四郎に救いを求める。言い逃れろ。雪郎の眼の色は、一色に染まっていた。

「ご、ごめんなさい、僕が……」

 神喰、さぁん?ともう一度詰め寄った女性と雪郎を引き離すように、征四郎は口を挟む。続けろ、と雪郎が視線で指示を送ってくる。征四郎を見据えるように、花牟礼は顔を向ける。征四郎は、一瞬出かけた言葉を飲み込む。数秒考え、雪郎に救いを求めた後で、雪郎兄さんが、と言葉を絞り出した。

「この春から、僕、『京都帝国大学』に入学するので……。ちょっと雪郎兄さんに無理を言って、『京』の案内をお願いしてしまったんです」

 そうそう、と雪郎は小刻みに頷く。

「親戚筋に当たる征四郎クンが、入学までに『京』の街を知りたいと言っていてね」

 と、言葉を添える。征四郎は、訳が分からないまま不安げな視線を雪郎に送る。観念、という言葉が脳裏に過ったとき、

「花牟礼クン、こちらは僕の親戚の、陸鬼征四郎クン。――征四郎クン、こちらは、同じ明報新聞京都支社、文化部所属の花牟礼 椿(はなむれ つばき)クンだ」

 と話を一気にまとめてしまった。合わせろ、と雪郎が目で促す。

「……は、はじめまして。雪郎兄さんの親戚の、陸鬼征四郎と言います」

 椿は、相変わらず疑うような目つきで雪郎と征四郎の顔を交互に見ていたが、少し時間がかかって、一先ずは征四郎の言葉を飲み込むように雪郎から指先を離した。

「征四郎クン、はじめまして。私は、明報新聞京都支社文化部所属の花牟礼です。帝国大学入学、おめでとう。……ちなみに、『東京』の方?」

「あ、えっと……はい、そうですが。なぜ?」

「やっぱり。イントネーションに、癖がないもの。江戸っ子言葉も無いし、新しい時代の言葉がつくられているのを感じるわ。これからの時代、やっぱり、そうでなくては。君も、そう思わなくて?」

 征四郎は、そう問われて、素直に言葉に詰まる。状況に置いていかれてしまったように困惑しながら雪郎に救いを求める。だが、雪郎はその視線に気づかない振りをしながら、涼し気な顔で蕎麦を啜った。

「私、『東京』が好きよ。とても、進歩的。今、日本で一番、そうではなくて。――でも、一番好きなのは、やっぱり倫敦(ロンドン)。もっと、前衛的で、進歩的。知ってる?世界が誇る、英国の首都よ」

「……嗚呼、彼女は、英国帰り。特に、倫敦贔屓なんだ」

 雪郎は、相槌を打つように切り込む。そして、

「花牟礼クン……。征四郎クンも、なかなか困っているようだし、今日はその辺にしてくれ給え。征四郎クン、彼女は珍しく、女性で英国留学を遂げた才女でね。まあ、あとは見てわかる通り、我が新聞社が誇る稀有な記者で」

 と椿を紹介しながら、椿にはこのまま立ち話も何だから、と着席を促した。機嫌を良くしたのか、もしかしたら、征四郎に興味を持ったのか。椿はそれ以上続けず、静かに征四郎の横に腰を下ろした。――ふわり。喉まで出かかった言葉を押し留めるように、微かに甘い薔薇の香りが征四郎の鼻先を擽(くすぐ)った。

「因(ちな)みに、小戸森先生の原稿は如何だった」

 椿が片腕に抱えていた、やや厚みのある茶封筒へと視線を送る。椿は、丁度横を通り過ぎた店の娘を呼び止め、山菜蕎麦を頼みながら、大事そうに茶封筒を自分のすぐ傍らに置いた。決して見せませんよ、と示すように。

「……先輩のご期待とおりだと思いますよ」

「それなら、良かった。小戸森先生は、現在の日本における、最高の推理小説家であり、怪異小説家だからね。ある程度の筋書きは、先生に用意しておいてもらうのが正解だと思っていたんだ」

 ――筋書き。

 雪郎が、微かに笑みを浮かべていた。大人の会話だろうか、と征四郎は湯呑に口をつけたまま、一度だけ、雪郎と椿の間に視線を往来させた。この二人は一見親しそうにも見えるが、どことなくうっすらと緊張感が滲み出ている。敵、それとも味方なのか。ひと目ではわからない。

「神喰先輩って、やっぱり意地悪な方」

「仕方ないさ。八禍徒媛命との戦いには、多少の囮(おとり)が必要なんだよ。美音子殿の力も、そう長くは保つまい。我々には、次の、さらにその次の一手まで必要さ」

 そう思わないか、征四郎クン。

 まるで、そう問うように、雪郎が不意に言葉を切った。状況についていけていない征四郎は、まるで救いを求めるように椿の横顔を見る。まるで、待ち受けていたかのように、椿はその目線を受け止めて、静かに微笑む。

 この人も、何者。

 そう思った矢先、椿は、トンッと征四郎の胸の真ん中辺りを指先で軽く押す。次の瞬間、征四郎の鼻先に、椿のすらりと筋の通った鼻先が僅かの距離を置いてあった。――ふわり。また、鼻先で、仄かに甘い花の香りが立ち上った。

「あなたも、先輩と同じ“一味”なんでしょう?」

「一味……って……、そんな」

「隠さなくたって、良くてよ。私には、わかる」

 何が、と問いかけた征四郎の言葉を胸の内に押し留めるように、胸元に当てた指先がまた、軽く自分の制服を、その奥の皮膚を超えて、禍々しい熱を伝えてきた。まるで、何かの刻印を刻むように。

「八禍徒媛命――私の姉様を滅ぼしに来たのでしょう。……あなたも」

 ハッと見開いた自分の瞳を覗き込んでいる椿の瞳は、怪しげな艶を帯びていた。

 花牟礼 椿。ハナムレ、ツバキ。

 雪郎が告げたその名の響きが、まるで呪詛の文言のように耳元で蘇った。

 この女、本当に、何者だ。

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