第1章「沈黙の姫君」:6
神喰雪郎。
昨晩、下宿先のカフェー『マダム・バタフライ』で顔を合わせた新聞記者。
何故、ここに――。
雪郎は、足元に力無く横たわっている女性を見下ろしていた。
「神喰、さん?」
声を掛けると、雪郎が音もなく振り返る。その顔は、昨晩顔を合わせた、神喰雪郎に違いなかった。雪郎は制するように、しっ、と声を潜めた後、何か気配を探るように周囲に視線を走らせる。焦点だけが、何か獲物を追うように八方に動いている。
「征四郎クン、今すぐこの場所から離れ給え。今すぐに、だ」
雪郎は、宙を見回しながら、独り身構える。征四郎は、警戒したように周囲の様子を窺う雪郎の視線の先を、同じように目で追いながら、一瞬視線を外して女の顔を確認する。
そして、思わず沸いた嘔吐感と共に呻いた。まるで、魂そのものが抜き取られた空虚な器のように、干からびた亡骸がそこにあった。肌も赤黒く変色している。先程館内を駆け抜けた歪な悲鳴の主は、この女性なのだろう。そして、この女性は、あのときに、きっと――。
「何が……起きているんですか?」
征四郎は、顔面に張り付いたままの嫌悪感を隠すことなく問う。
「人の魂を喰う輩が、懲りもせず現世に降りてきているのさ」
「人の魂を喰う?」
「そうだ。気を付け給え。未だ、ヤツらはこの辺りにいるぞ」
雪郎が言い終わるか終わらないうちに、突如、背筋が冷えた。まるで、何かに鋭く刺されたかのように。恐怖ではなく、何か異質な存在を悟った体が、理解する前に違和感に反応していた。そこにいるのは、透明な獣のようで、でももっと異質な存在のようで……。
――妖魔たちとの戦争は、我々の意思に関係なくもう間もなく始まる。
啄馬の言葉が、耳元で響いた。そして、ゆっくりと両の手を重ねた。雪郎の目が、自分の手元に向いたのが分かった。
「征四郎クン? 早く、避難し給え」
「――いいえ。神喰さん……人の魂を喰う輩って、つまりは『そういうヤツ』なんでしょう?」
征四郎の重ねられた両手が、少しずつ合わさり『印』を組む。その緩やかな動きに合わせて、唇の上を古の呪言が流れ落ちていく。幾千年重ねられた血の繋がりにて――征四郎が唱うように紡いでいく言葉に応じて、両手で組まれた『印』に、少しずつ黄金色の輝きが灯り始める。呪いの言葉が繋がれていくたび、身体中の血脈に熱いものが滾り、全身の隅々まで満たすように駆け巡る。
ドクン。
こちらの出方を探るようにぐるぐると周辺を回っていた重い気配が、いよいよ、その気配を隠さなくなった。
確かに、そこにいる。征四郎も雪郎も、身構えたまま体の正面を『透明なそれ』に向けて間合いを取っている。時折、一瞬、風が吹き抜けたかのように、びゅうっと音を立てて芝生が揺れる。そんなとき、大抵そこに、目に映らないそれは居る。
「来いよ――滅してやる」
征四郎は、声を低くして誘うように言った。
「来いよ――滅してやる!」
もう一度、誘い出すように言い放つ。――そして、征四郎の『印』を結ぶ諸手が、柏手を打った。パァンッと一つ打たれた柏手に、宙がざわめく。征四郎と雪郎の間を、一陣の風が通り抜けて鳴ったとき、征四郎が手を振りかざす。
左の掌の中心に、刀の頭が表れた。それはやがて少しずつ這い出るように、柄となり、征四郎は右の掌で掴む。――一気に、抜き取る。黄金色の刀が、そこに在るべき場所として、征四郎の手に収まっていた。光は波のように、風と共に流れていく。
「汝、還るべき場所に還れ。理(ことわり)を乱す忌むべき者よ!」
征四郎が、素早く柄を両手で握り、空を切った――数秒後、黒味を帯びた暗紫色の細い線が宙を駆け抜けたかと思うと、空気を圧し、二人が対峙していた『それ』が消え失せた。波が引くように、今度は、少しずつ静寂が広がっていく……。
征四郎は両肩で息をしながら、雪郎の方を見遣る。そして、仕留め損ねたか、と独りごちた。
「若いのに、見事な手前。陰陽寮に伝わる、破邪の術の一つだね」
雪郎が、空気が変わったのを敏感に察知しながら言った。
「……神喰さんは、驚かないんですね」
「一々驚いていたら、記者なんて務まらないさ」
「いや、それだけじゃない気がします」
征四郎は、もう一度だけ辺りを見回し、右手の刀を鞘に納めるように左手の掌へと返していく。刀を納め切るように、最後、掌を合わせた。まるで祈り続けるように、そのまま少しの間、押し黙った。
雪郎が、そうかね、と曖昧に声をかけながら肩を竦める。膝を折って、魂が抜かれた女の亡骸を丹念に観察し始める。
「偶然にしては、出来過ぎていませんか? 昨晩知り合ったばかりの方と、いきなりこんな事件に出会(でくわ)すだなんて――それに」
征四郎は、雪郎の背中を見下ろしながら言った。雪郎は、黒革の手帳に何かを鉛筆で記録している。真っ白な頁に淡々と何かを書き込んでいる。
「……貴方も、どこか『おかしい』」
不躾に言って、雪郎の出方を待った。雪郎は無言のまま鉛筆を走らせて、やがて手を止めると膝を正す。膝の埃を手で払いながら、
「そう言うならば、君だって」
「僕が?」
「破邪の術は、門外不出の秘術。君のやったあれは、安倍先生の門下のみが知る術(すべ)」
上着の内ポケットに手帳を収めながら、雪郎は疑念を隠さずに征四郎を見る。
「父に、教わりました」
だから、啄馬に呼ばれて、自分の意思に関係無くこの地に来たのだ。征四郎は、両足の裏の感触に意識を向ける。この地を踏んだ縁と意義を、改めて心身に刻む込むように。
「君も、宿命に縛られた一人なのだね。……私も、そうさ。『神喰』の名が、私を縛る」
そして雪郎は、足元に横たわった女性の顔を一瞥する。最早、彼女の顔に表情と呼べるものはない。魂を、喰われたのだ。
「結局、ヤツらの狙いは私さ。――『神喰』の血と魂には、その名の通り、『神を喰らえる』程の力がある。ヤツらは、それを狙っている。……それが、この顛末だ」
自分の身代わりとなってしまった足下の亡骸に、まるで懺悔を捧げるような口調で雪郎は言葉を紡ぐ。――呪い。征四郎の脳裏に、その言葉が過る。そして昨晩、蝶子が雪郎に告げた、方違え、という言葉を思い出す。
蝶子も何かを知っているのか?
「征四郎クン……。これから、『京都』は、かつての衰退した時期のように荒れることになるだろう。けれど、あの災厄が猛威を振るった時代を繰り返してはならない。そのために、私は、今は捕まらぬように逃げるしかないのだが」
「染葉先生も、同じ事を言っていました。史上最悪の妖魔が復活する、と」
雪郎が、僅かに顎を下げる。
「その妖魔の名は、『八禍徒媛命(ヤマトノヒメ)』と言う。一千年もの昔、この地を地獄に変えた、最悪の妖魔。当時の陰陽寮の記録に依れば、腕一振りで天から炎を降らせ、当時の京の街の三分の一を、たった一晩で灼き尽くしたらしい」
雪郎の視線に釣られて、征四郎も天を仰ぐ。彼処から、炎が降り注いでくる様を想像した。炎の雨は地を弄び、やがてこの世界を地獄に変えた――そう、記録にあると言う。
鼻先を衝く香りが漂った。雪郎が火のついた煙草を咥え、遠い目をしながら空の向こうを眺めていた。一条の煙が、まるで亡骸に捧げられた線香のそれのように空へと手を伸ばしていく。
「かつて我々の祖先は、多大な犠牲との引き換えに、八禍徒媛命を封じ込めることに成功した。――そのとき『神喰』という名の陰陽師が、ヤツの喉を噛み切り、『神さえも喰える』ほどのヤツの力の一部を奪った」
何か分かるかい、と問うような眼差しを雪郎が向ける。
「『声』さ。ヤツは、それで言霊の意味を成せなくなった。そうしてヤツは力の一部を失い、人の手で封じ込められるに至ったらしい。――そして、ヤツから奪ったそれを、『神喰』はそのまま飲み込み、体内に封印した。その後、子孫の血と魂の中へ引き継ぎ、我々は一千年守り通してきた。生き抜くことで、ね」
――生き抜くことで。雪郎は、そっと喉元に手を当てた。
「だから、私の命が尽きないことには、八禍徒媛命が完全に復活することはできないだろうが……。その前に、今度は完全に息の根を止めてやろう、としているのが、啄馬先生の計画なのだと思う」
それが、これから始まる戦い。我々の『宿命』でもある、と雪郎は言うと、静かに煙を吐き切って沈黙を呼んだ。
「戦いの日は、きっと近いね」
雪郎が、どこかしら達観したように呟いた言葉が、虚しく宙に溶けていく。
行くかい、と掛けられた雪郎の誘いに、征四郎は無言のまま付き従った。歩き出して、もう一度頭上の、未だ新しく始まったばかりの一日を照らす、初々しい朝日が残る晴れ空を仰いだ。やがて、それが藍に染まり、紺に染まり、また白(しらじ)み――幾度かそれを繰り返した後、間違いなく雪郎の言う『その日』は訪れるのだろう。それは、明日か。それとも、明後日か。
「一千年前、我々の祖先が仕留め損ねた『沈黙の姫君』が、間もなく眠りから醒める」
そう喩えると、なんだか詩的じゃあないか。少し前を歩きながら、雪郎が自嘲気味に微かに嗤って言った。
沈黙の姫君。
征四郎も続いて、その喩えを舌の上でなぞった。『声』を奪われ封じ込められた、人々の忌むべき存在――八禍徒媛命、という名の災厄。
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