第1話

1、


伊涼杯、と呼ばれる野球大会がある。

中学生年代の野球チームによる、一般的なトーナメント方式の大会で、県内からエントリーされた野球クラブが力比べをする催しだ。

元は、メジャーリーグで活躍した伊涼優和という選手が主催になり始めたもので、すでに三十回以上開催されている。

現在では、地域ごとに予選もあるほど有名な大会となっていて、本戦は秋の初め、土日祝日の三連休を利用して行なわれるのが通例となっていた。

その本戦の開会式のスピーチで、挨拶を行なう女性がいた。

「チームによっては、これが最後の公式戦になる選手もいると聞いています。是非、悔いのないように、同時に相手への敬意を忘れることなく、最善のプレーを行なわれるように心がけてください」

一分程度で要領よくスピーチを行ない、そう締めくくった女性は、開会式のグラウンドで整列した選手たちにお辞儀をする。

彼女の名は伊涼和希。男のような名前をしているのが特徴な、大会主催者である伊涼優和の一人娘だ。

本来、大会での主催者挨拶では彼女の父が直々に挨拶するのだが、今回は彼女が代理として会場に赴いていた。理由は単純、父が現在病気に罹り、療養を医師から通達されているからだ。

大会が始まってこれは初めてのことだったが、彼女は代理の役目をきちんと果たしていた。

開会式が終わった後、大会の運営職員が和希に話しかけてくる。

「和希さん、お疲れさまでした。手短かつ意義の深い内容でしたね」

おだてるわけでなく、運営の男性職員はそう述べる。

三十代前半の彼女は、年上の相手からの言葉に頭を振った。

「あまり、良い言葉が浮かばず素っ気ないものになってしまったのではと心配でしたが、そう言って貰えるとありがたいです。何か、おかしなことを言ってなかったでしょうか?」

「いえ、まったく。子供たちからすれば、長々とした話よりも、あぁいった手短な挨拶の方が嬉しいでしょうからね」

やや苦笑を含みながら、運営の男性は言う。

その言葉に和希も釣られて笑みを浮かべてから、尋ねる。

「すみません、お手洗いに行きたいのですが、どちらでしょうか?」

「えーと、運営のテントまで戻って貰ってから、そこを左に曲がって――」

質問に男性職員が答えると、和希は礼を告げてからこの場を後にする。実はスピーチに緊張していたことは、この場では言わなかった。


伊涼和希は、単なる野球選手の娘ではない。

彼女自身も、女子野球の選手であった。

十年ほど前に一度無くなってしまった女子プロリーグでは、最年少でタイトルを総なめした左腕投手として知られており、現在では社会人の女子野球で活動していた。現在でも、女子野球界ではナンバーワンピッチャーとして知られているが、とある事情から今年で引退し、来年から発足予定のある機構の裏方に回る予定であった。

知る人ぞ知る、実力者の女性選手というのが彼女の顔で、しかし多くの者はそのことを知らず、彼女がただの元メジャーリーガーの娘としか認識していなかった。

だから、それが原因で心もない言葉を受ける事も多い。

「伊涼優和は病気で、その子供のおばさんが来ても、全然嬉しくないよな」

大会会場の隅にあるトイレから運営のテントへ戻ろうとしていた和希の耳に、少年球児の陰口が聞こえてきた。

手をハンカチで拭きながら横目を向けると、そこでは何人かの野球少年が屯って、ヘラヘラ笑っている。和希には気づいていない様子で、彼らは話している。

「えーでも顔はいいじゃん。ちょっと年いっているのが残念だけど」

「は? お前あんなのが好みなの? マジねーわ」

「別にタイプじゃねーし。でも、なんで女があんな偉そうに野球語っているんだろうな?」

軽薄に、差別的な口ぶりで少年たちは話している。

その内容に、和希も内心思うことはあった。

野球は、男性のスポーツとみられがちで、未だに男尊女卑の風潮が残っている。実際、レベルが高いのは間違いなく男子の方で、女子は選手の存在すら一般では認識されないほどであった。

そのため、まだ年もいかない少年たちから、そんな言葉が出ても不思議ではない。

「でも女子の選手も大会には出てるだろ? あぁいうのを推すための要員じゃね?」

「うわぁ、めんどくせぇ大人の事情だな。大体、女子なんて野球やっても意味ねぇじゃん。どうせ、高校野球にも出られないんだしよ」

「そうだよな。イキって『女子でも甲子園にいきたい!』とか、マジで井の中の蛙だよな。レベル違うのにも気づかないのかな、あいつら」

ヘラヘラと軽薄に、少年球児たちは言う。

その侮蔑に満ちた差別的な発言に、しかし和希は嘆息するだけだ。

注意をしたいところだが、彼らのような少年たちは、年上がいろいろ説教をしたところで、その場では反省したそぶりを見せても、きっと心から反省することはしないだろう。特に、彼らが差別している対象からの叱責は、まったく効果をするどころか逆効果になりかねない。

ただ、自分への差別はともかく、女子選手全体への差別は見過ごせない。

どうすべきか、和希は考えていた。

「無知な男子が偉そうに語っている事の方が、よっぽど井の中の蛙だと思うよね」

そんな、少女の大声が聞こえてきた。

和希が目を向けると、そこには四人の少女たち、野球のユニフォーム姿の娘たちがいた。

声を発したのは、その中にいるポニーテールの少女のようだ。

「自分たちはその女子にも及ばないだろうに、偉そうに語っちゃって。負け犬の遠吠えに見えるのは私だけなのかしら?」

続けざま、そうせせら笑うように、少女は自分に気づいた男子生徒たちに言い放つ。

挑発的なその態度をした少女は、いかにも気が強そうな切れ長の目をした人物だ。

「は? なんだお前ら?」

女子選手の挑発に、屯っていた男子球児が鋭い目を向ける。威嚇めいた目に、女子選手の一人は怯えたようだが、他の三人は身じろぎもしない。

それどころか、発言者の少女はむしろ嘲弄の度合いを高める。

「なんかさっき、女子はレベルが低いとか、高校では野球が出来ないとか、そんな戯言が聞こえてきたわね。もしかして、女子高校野球も知らないの? そうだとしたら滅茶苦茶ださいわね」

そう言うと、その少女は横の少女に目を向ける。別の長身の少女は、困ったような、また何か呆れたような笑みを浮かべるだけだ。

その言葉を聞いてか聞かずか、野球少年たちは詰め寄っていく。

「なんだよお前ら。どこの女子だ?」

「え? 何だその不良めいた尋ね方は? まさか今の男子って、そういうナンパが流行っているのか?」

そう言ったのは、ポニーテールとは別の少女だ。こちらはボーイッシュな短髪で、少し男子めいた容姿をしている。異性よりも、同性にモテそうな雰囲気を持っていた。

「先輩、どうしよう? 私、こんな時代錯誤したナンパする男子と会うのは初めてですよ!」

「・・・・・・あのねぇタマ。あれは、どう考えてもナンパしようとしているんじゃなくて、私たちにもの申そうとしているだけよ」

尋ねられたポニーテールの少女は、少し辟易した様子で言う。

背丈は逆だが、どうやらそちらが年上らしい。

「おいテメェら。どこのクラブの奴だって聞いているだろうが!」

「アンタら、目がないの? ユニフォームのロゴ見れば分かるでしょう。それとも、ローマ字すら読めないの?」

「んだと、てめぇ!」

呆れた様子で挑発を重ねる相手に、少年球児たちは怒り心頭であった。

しかし、そんな相手に物怖じすることなく、女子選手は言う。

「というか、高校以上ならいざ知らず、地方の野球レベルじゃ、男子も女子も、上手さで言えば男子も女子も遜色ないでしょう。そんな当たり前のことすら直視できていないの?」

「それと、女子高校野球もご存じないんですね。無知は罪って聞きますが、あぁもしっかり無知を露呈されているのは、見ていて可哀想です」

ポニーテールと短髪の女子二人が口々に言うと、男子球児たちは怒りに身を震わせる。

「てめぇら、何を偉そうに! どうせ弱小のメンバーだろうが!」

「弱小? 聞き捨てならないわね。少なくとも、あんたたちの所よりは強いわよ。何せ、今年優勝するチームだもの」

「優勝? はっ、何馬鹿なことを・・・・・・」

「えっ、まさか優勝する気もないのに大会に参加しているんです? それはそれで驚きですね」

嘲笑おうとしたところで、少女の片方が驚いたように言う。

それに、少年球児たちはかえって虚を突かれた顔をした。

「というか、先ほどから威嚇するばかりで反論はなさらないのですか? もしかして、反論もできなのですか?」

「ハァ? 何ふざけたことを・・・・・・」

「出来ないでしょ。こいつらはただ、自分たちより下の人間を作って、その上にいると偉ぶりたいだけだもん。上を目指して頑張るんじゃなくて、下を見下して悦に入っている低次元な連中だもの」

少女は、そう言って的確に男子たちの本質を射貫く。

それに、男子球児たちは怒りを露わにする。

「んだとこらぁ! さっきから妙な事ばっかり言いやがって!」

「あまりに低レベルすぎて、反論する気にもならねぇだけだ!」

「そう。そんな低レベルな意見にも反論できないほど低レベルなのね、アンタたち」

ようやく反論してきた相手に、少女は更に追い打ちをかける。

どう見ても、この場で口達者なのは少女たちの方だ。

そんな状況に、男子たちはもはや尊大な態度と行動で威圧して黙らせるしか手段がなくなっている。それだけ、彼らには論理がなく、また非がある証拠だった。

一触即発――あるいは男子は実力で彼女らを黙らせようと考えはじめる。

「その辺りにしておきなさい」

見るに見かねて、和希はそう割って入っていた。

静観から仲介に入ってきた彼女に、男女は共に驚いた様子だった。

が、その内容は違う。

男子側は、少し前まで自分たちが侮辱した相手が近くにいたことへの驚きや焦燥を含んでいたが、女子側は彼女の存在よりも止めに入られた事の方に驚いた様子であった。

「貴方たち、この大会は野球大会よ。ディベートの場でも、喧嘩の場でもないわ。競うのは、野球の腕前とマナーだけにしなさい」

そう言って、和希は両者を叱責の視線で見据える。

それに、男子たちは押し黙り、女子も少し気まずそうな顔をする。

「ここで、互いに謝れとは言わないわ。競うなら試合でなさい。ただし、あくまで紳士的、淑的に競うこと。感情的に野蛮なことをしたら、即刻それぞれのチームを失格にします。いいわね?」

そう言って叱責すると、男子側は明らかに不満そうな顔をするが、女子側は渋々ながら頷いた。

しばらくして、和希から両者は離れていくのだった。


「伊涼さん!」

大会運営のテントに戻った和希の元を、少ししてから二人の少女が尋ねてきた。

目を向けると、そこには先ほど諍いを起こした少女のうち、ボーイッシュで中性的なのが特徴の少女と、少し気の弱そうな別の少女がいた。

彼女たちに、運営の職員たちは不審な顔をしたが、和希は黙ってから立地上がり、向かう。

「貴方たち、何の用?」

「ごめんなさい。さっきのこと、少しでも謝ろうと思って」

そう言って、頭を下げたのは中性的な少女だ。

「本当は先輩も来るべきだったけど、あの人ちょっと頑固だから来てくれなくて。でも、そもそも啖呵切ったのは先輩で、どうしても、許せなかったらしくて」

「・・・・・・気持ちは分かるけど、あぁいう喧嘩は絶対駄目よ」

 腰に手を当て、頭を下げる少女たちに和希は言う。

「女子選手への偏見は今に始まったことじゃないわ。でも、それにいちいち目くじら立てていては――」

「いえ、そうじゃなくて」

「?」

「伊涼さんが近くにいるのに、伊涼さんへの陰口たたいているのが、許せなかったらしくて」

少し迷いながらもそう言うと、和希は驚く。

てっきり、彼女たちがあぁいった口論を仕掛けたのは、自分たちへの誹謗からだと思っていた。が、どうもそれよりも、和希への中傷が許せなかったということだった。

「ごめんなさい。でも、謝って済むものじゃ無いと思います。反省して、言われた通りに実際のプレーで示します」

そう言って、少女は今一度頭を下げ、和希を窺う。

それに、和希は我に返ってから、微苦笑する。

「そう。まぁ、そこまで分かっているなら、これ以上とやかく言わない。それと、これは知っているか分からないけど・・・・・・」

そう言って、和希は手元にあった紙を取り、目を落とす。

「さっきの子たち、奇しくも貴方たちの初戦の相手みたいよ。いきなりやれるなんて、運がいいのか、悪いのか・・・・・・」

「え、本当ですか?」

もう一人の少女が思わず言う中で、和希は頷いた。それを知り、その少女は少し青ざめさせて不安そうな顔をする。

一方で、それを聞いた中性的な少女は目を煌めかせた。

「分かりました。必ず、勝ちます。勿論、フェアプレーで!」

「えぇ、よろしい。勝っても負けても悔いはないように」

「負けません! 絶対勝ちます!」

和希の言葉に、少しだけむっとした様子で少女は言うと、それからすぐに去っていく。

彼女たちが去った後、和希の元に男性職員たちが来る。

「和希さん、彼女たちは?」

「・・・・・・ちょっとした知り合いです。追及は別の機会にお願いします」

そう言って、和希はやんわりと深追いを拒む。

同時に、彼女は大会用の資料に目を通した。

件の試合の開始は、あと三十分ほどで、会場はすぐ近くのグランドのようだ。

そして、選手名簿を見るとすぐにその四人の少女たちの素性が判明した。登録されていた女子の名前がちょうど四つだったので、誰かがそのうちの誰かなのだろう。

そして彼女らは全員が、一桁の背番号をつけている。つまり、レギュラーのようだ。

(さて、果たして口だけなのか。それとも実際に腕もあるのか・・・・・・)

少なからず、和希は好奇心を刺激された。



一体、彼女たち少女選手がどれだけの技量を持っているのか、和希は興味を持って試合を見ていた。

はっきりいって、少女の野球選手の技量はさほど高いものではない。小学校はともかく、中学以降になると男子との運動神経に格差が出始め、選手としての力量も離れていく。

だから、上手い選手はいてもすごい選手はまずいないものだ。

(でも・・・・・・すごいわ、あの子)

和希は、来賓テントで試合を見ながら、そう思わざるを得なかった。

彼女たちのチームで、四人は全員試合に出場している。

最初に啖呵を切ったポニーテールの少女は、投手だった。いかにも気の強そうな彼女は、しかしその性格とは裏腹に技巧派のようだ。投げる球はさして速くないが、丁寧に打者が打ちにくい低めの隅にボールを集め、相手打者にどん詰まりのゴロ、凡打を打たせている。

その組立てをするのは、捕手である長身の女子選手だ。彼女は上手く投手の少女を制御している様子で、次は何を投げさせるかの配球を考案し、投手の快投を引き出している。黒子役に徹しながら、相手の打者陣を苦しめていた。

そして、相手チームの打者が飛ばす打球をほとんど捌くのが一塁と二塁、二塁と三塁の間をそれぞれ守る、セカンドとショートのポジションにいる二人の少女選手だった。

そのうち、二塁三塁側、ショートのポジションにいるのが、一見気弱そうにみえた少女だ。その動作は、少し鈍そうに見える表情からは想像できない、かなり機敏な動きであった。飛んできた球に対する反応やボールの捌き方、そして取ってからのスローイングまでの動き、それらすべての完成度が高い。その守備の機敏さだけなら、中学男子の標準並みだろう。

そんな三人の上手さは、多くの観客や運営関係者も感心している様子だ。

しかし、あくまでそれらは「上手い」のレベルだ。

一人だけ「すごい」のレベルにいたのが、中性的な少女であった。

少女投手の投げたボールを、相手の選手のバットが捉える。甲高い音で弾かれた球が、一塁ベース付近を守るファーストの選手の右を抜けていく。

が、決して外野まではいかない。

飛んできた鋭い打球を、少女は横っ飛びでグローブに収める。それだけでも凄く機敏な動きの後、彼女は滑りながら身を起こし、膝立ちになって一塁へボールを送球する。慌てて一塁ベースについた選手は、柔らかく送られてきたボールをキャッチし、ベースを踏んだ。

本来ならば、外野の右翼手前に転がっていただろう打球は、二塁手の少女によって凡打に変わってしまった。

「おい。これで何個目だ?」

横にいた職員が、思わず驚嘆した。

一回だけではなく、すでにこの試合で何度も、二塁手の少女はあのような打球処理をしていた。打球に対し、まるで風のように現れては掴みとり、そして何事もなかったように、一塁手に送球していた。

すごい、といわざるをえない。

多くの観客の目で言えば、素早い脚力と横っ飛びでボールを捌く華麗なプレイヤーといったところだろう。が、経験者・指導者からは、彼女は打者が打った瞬間にボールのくる場所を予測して走り出しているということが分かっただろう。それは、決して先天的なもののみではない、かなりの練習と経験、そして頭脳がなければ出来ない高等技であった。

和希は、手元にある資料にもう一度目を向ける。

彼女の名前を、和希は記憶する。

少女選手の名前は、宮城珠恵(みやしろたまえ)。

あれだけのすばらしいフィールディング技能を持ちながら、まだ中学一年生という、末恐ろしい少女のようであった。


   *


大会期間の三連休は、あっという間に終わりを告げた。

本戦に残った十六チームによる熱戦は、三日のタイトな日程で終了する。

優勝を飾ったのは、少女たちがいたチームだった。

圧倒的に強かったわけではないが、守備がよく鍛えられた、手堅い野球をするチームだった。

そして、この伊涼杯においては最優秀選手も選ばれることになっている。

選ばれたのは、あの鉄壁の二塁手、宮城珠恵だ。

選考した運営たちは、満場一致で彼女を推した。それだけ、彼女の守備の衝撃は凄かったのだ。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

最優秀選手の印であるメダルを和希が首にかけると、珠恵ははにかむように笑って頭を下げた。

その振る舞いを見ると、あれだけのプレーを見せておきながら、彼女はやはり年相応の少女なのだという実感があった。




表彰式の後、運営のテントを訪れた一行がいた。

和希がそれに気づくと、彼女たちは一斉に振り向いた。

「あ、伊涼さん!」

「あら、貴女たち、どうしたの?」

いきなり現れた彼女たちに、和希は不審さも見せずに笑って出迎えた。

それを見て、運営の職員たちはそれまで少し戸惑っていた様子だが、和希の反応を見て少女たちを中に案内してくれた。

「すみません、突然お邪魔して。その、まだ先輩たちがお詫びしてないのを思い出して」

「・・・・・・あの時は、申し訳ありませんでした」

いいながら、少し納得いっていない様子で、ポニーテールの少女が言う。

どこか嫌々な態度であるが、しかししっかりと頭を下げているところから、一応後ろめたさはあったようだ。

「ふふっ。もういいわよ、あのことは。あの後きちんと、実際にプレーで自分の意志を見せてくれたのだし」

「そう、ですか」

えぇ、と和希が言うと、職員たちも遠巻きで彼女たちを見始めていた。

「なんだい、和希さん。その子たちと知り合いだったのか?」

「いえ。元々知り合いだったわけじゃないわ。大会の最中にいろいろあってね」

「へぇ、そうなんだ」

興味を抱いている様子の周囲に和希が言うと、一人の職員が珠恵をみる。

「君、確かMVP取った子だよね? すごいプレーだったね」

「はい。ありがとうございます」

「本当に凄かったよ。あんなプレー、男子でもそうそう出来ないよ」

職員たちは、手放しにそう賞賛する。ここの職員は大体が野球経験者だが、そんな彼らからみても、彼女のプレーは凄いものだった。

「君みたいな子が大会に現れるなんてね。でも、夏の県予選にはいなかったよね?」

「バカ。県予選は出られないんだよ、今年は」

「あ・・・・・・」

とある職員の漏らした失言に、他の職員が静かに叱る。

今年は、少し全国大会のルールが変わり、県の予選にクラブの女子選手は出られなかったのだ。

「ご、ごめんね。決して悪気はなかったんだ」

「いえ。別に私は気にしてません」

謝る職員に、珠恵はあっさりと返す。その様子は、腹芸ではなく実際に全く気にしていないようだ。

ただ、横にいるポニーテールの少女の目だけは険があった。

「しかし、この大会で女子選手のMVPが出るなんて驚きだよ。こういうことが起こると、またあの機運も高まるかな?」

そう言ったのは、少し年のいった中年の職員だった。

その言葉に、別の職員が不審がる。

「あの機運?」

「そうだ。女子でも甲子園に参加させてやろうというあの機運だよ」

そう、中年の職員は尊大に言った。

その瞬間、周囲の空気が一瞬強ばる。

まずいことを言い始めたと、周りの職員たちは顔をしかめた。一体何事かは、和希もおおよそ察していた。

「現状、高校野球では女子選手を甲子園大会に出すのを禁じているだろう? だが、その考えをもう時代遅れだと思う人間も多い。女子だって、甲子園に出る権利はあるはずだ。そう願って頑張る子も多いだろう」

中年の職員は、そう義侠心に駆られているように言い始める。

その様子に、周りの職員たちは厄介なことになったという顔をしている。

きっとその職員本人は、己の価値観から自分の意見は正しいものと信じているようで、周りの空気の悪化に気づいていない様子だった。そこには、潜在的な差別意識――女子を同じ野球の舞台から性別故に排除していることに関する負い目というものを、まったく直視していない不遜な事実を棚に上げていることを気づいていない様子が窺えた。

その証拠に、彼は珠恵に顔を向ける。

「君たちも、あの舞台に立ちたいだろうに。現在の高野連は、女子の出場を頑なに禁じている。悔しいだろうね」

そう、男性は心から同情するように言う。

それをやめろと言わないのは、この場でそういえる立場の職員が他にいないからだろう。

その言葉自体が、女性選手にとっては、ひどい発言であることも分かっていないようだ。

それに対し、珠恵は・・・・・・


「いいえ、全然。悔しくも悲しくもありませんし、どうでもいいです」


あっけらかんと、不思議そうな顔で返していた。

その表情は、この人は何を言っているんだろうといった具合だ。

それに、却って周りがあっけに取られる。

返答は、おおよそ予想だにしていないものだった。

「ど、どうでもいい?」

「はい。大体、なんでそんなに皆は甲子園に出たがるんですか?」

珠恵は、そのように質問を返してきた。その問いに、周囲の職員は言葉を失う。

まさか少女とは、野球をしている若者からそんな発言がくるとは思ってもみなかったのだろう。

「バカね、タマ。前も言ったけど、それだけ皆にとって甲子園は特別なの」

そう言ったのは、ポニーテールの彼女の先輩だ。

「高校の選手なら、誰だって目指すのがその舞台なのよ」

「でも、全国大会なら女子でもあるじゃないですか。なんで、皆そっちではなく甲子園にこだわるんです?」

「そりゃあ、晴れある舞台には憧れるでしょう?」

「ふつうに、女子の全国大会も晴れある舞台じゃないんですか?」

「あーもう! また屁理屈言い出して!」

珠恵の重ねてくる問いに、ポニーテールの少女は憤慨する。

そのやりとりを見ながら、しかし周りはまだ呆然としていた。

ただ一人、和希を除いては。

「貴女、甲子園に憧れてはいないの?」

「え、はい。それより、女子の全国大会に出てみたいです!」

「どうして? 今までみたく、男子と勝負出来る環境じゃなくなるのよ?」

「え、別に私、男子と勝負したくて野球しているわけではないですし」

和希の言葉に、珠恵は心底不審そうに返した。

「大体、どのスポーツも男女別じゃないですか。なんで野球だけ、男女混合で勝負しなきゃいけないんですか?」

ひどくシンプルに、珠恵はそんな疑問を投げかけてくる。

「サッカーもバスケもバレーも、陸上競技も武道も、全部男女別にやっているじゃないですか。なんで、野球もそういう考え方しないんですか?」

「・・・・・・貴女、わざと言っているわけじゃないわよね?」

すっと、和希は目を細めて問いかける。

それに、傍らの少女が慌てた。

「す、すみません! タマちゃん、決して悪気があるわけじゃなくて・・・・・・」

「分かっているわ。いえ、むしろとても嬉しいわ」

そう言って、和希は微笑んだ。その反応に、相手は逆に不審がる。

「えっ、嬉しい、ですか?」

「うん。貴女たち、テレビやドラマは好き? 映画やマンガでもいいわ」

「え? まぁ、一応・・・・・・」

「それらに対して、憧れや羨ましさを覚えたことはある? 自分もあぁなりたいと」

「んー、時々はあります」

珠恵が素直に答えると和希は頬に指を当てて、首を傾げる。

「それと一緒よ、甲子園も。あれは、限られたものしかいけない夢の舞台。だから、行ってみたいと思いたくなるものなのよ」

和希は、そう言って珠恵にも分かりやすく、甲子園の特別さを語る。

「でもね、それだけじゃないの。少し心汚い話になるけど、知りたい?」

「どんなの、ですか?」

「結論から言うとね、皆はあそこしか晴れ舞台を知らないのよ」

その言葉に、少女たちは不審な顔をした。

和希は、続ける。

「高校野球の聖地はあそこだけであって、名勝負やドラマはあそこなしには語れない・・・・・・そういう先入観が、ひどく世間では刷り込まれているの。球児だけでなく、指導者や多くのファンにもね。そう言う風に、誘導している組織もあるんだけど」

「そうなんですか?」

「えぇ。まぁ、それは些事だから置いておくけど・・・・・・」

そう断りを入れて、和希は続ける。

「甲子園しか高校野球を知らない。だから、そこを目指すのも一因ね。貴女が前に行ったように、女子には女子の全国大会がある。でも、それは取り上げられない。だから、皆は甲子園を目指さなきゃいけないと思い込んでいる。そういうことよ。分かる?」

「んー。なんとなく」

少し気むずかしそうな顔をしつつ頷くと、「よろしい」と和希は珠恵に頷く。

「ただ本当の問題は、それをどうやって打破するかね。そんな現状をどうすれば良くできるか――思いつくことはある?」

「えっと、じゃあ、女子野球がもっと競技として盛り上がればいいと思います!」

「大正解」

珠恵の言葉に、和希は満足そうに笑う。

その回答に、彼女は心から嬉しかった。

「ではさらに問題。そのためには、何が必要だと思う?」

「え・・・・・・えっと・・・・・・」

これは、少し難しい問題だったか、珠恵は答えられない。

それを見て、和希は言う。

「答えは、いろいろあるけれど正解は誰にも分からない。だって、現状それは成功していないもの。ただ、盛り上げるにはまず多くの人に知ってもらう必要があるのは確か。だから、間違いなく必要なのは、スタープレイヤーとも呼べる選手の存在ね」

そう言うと、和希はじっと珠恵を見る。

「もしも、貴女みたいな子が、才能に自惚れることなく努力してくれれば、それも叶うかもしれないわね」

「え・・・・・・私、ですか?」

「ふふっ。これは、あくまで可能性よ」

少し戸惑った様子の相手に、和希は笑う。

そして、その目に真剣なものを浮かべた。

「一つ、貴女にお願いしてもいいかしら」

「あっ、はい。なんですか?」

「選手として、人として、これからも鍛錬を怠らないで頂戴」

そうすれば、と和希は言う。

「貴女はきっと、女子野球界を変えるだけの原動力になってくれると、私は信じているから」

そう、彼女は最大限の賞賛と願望を込める。

その言葉に、珠恵は元より、少女たちは些か茫然としていた。



「すごいよタマちゃん! 伊涼さんから、あそこまで言って貰えるなんて!」

運営テントから帰路につく中で、珠恵にそう言ってきたのは気弱そうな顔をしていた印象が会った少女だ。

今、その顔にはやや興奮の色が見える。

「本当だね。タマは実際才能もあるだろうし、頑張ればもっとすごい選手になるかもしれないね」

「・・・・・・ふん」

同意をしたのは捕手をしていた長身の少女で、鼻を鳴らしたのはポニーテールの先輩投手だ。

ポニーテールの少女の反応は一見勘違いしそうだが、三人は皆、珠恵が褒められた事が嬉しそうな様子を滲ませている。

三人から見ても、珠恵は特別な存在だった。

ただ、珠恵本人はさほど喜色を見せていない。

「あれ、タマちゃん? どうしたの?」

「ん。いや、正直言うと、よく分からなくって・・・・・・」

仲間の呼びかけに、珠恵は少しもやもやした様子だった。

「私が、女子野球を変える原動力になれるって言われても、正直ピンとこなくて。私、そんなすごい選手になれるとか、あまり考えたことなかったから・・・・・・」

「羨ましい謙遜ね。少し妬ましいわ」

ポニーテールの少女が、珠恵の言葉にそうぼやく。

「あ、ごめんなさい」

「冗談よ。まぁ、確かにあぁ言われてもピンと来ないのは貴女らしいわ」

そう言って、彼女はクスリと笑う。

彼女のその表情を見て、珠恵は安堵した様子だ。

「はは・・・・・・。いやだって、私は、皆と野球がやりたいだけだから。そこまで大それたこと、考えたことなかったというか・・・・・・」

そう言って、珠恵は困った表情で頬を掻く。

言いながら、彼女は数ヶ月前までの事を思い出す。

今のクラブに入り、この仲間と共に野球を始めるまでの過程を、だ。

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暇つぶし小説(野球) 嘉月青史 @kagetsu_seishi

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