6.26日

目を覚ますと、遠くから古い歌が聞こえてきた。懐かしいような、だいぶ前から知っているような、全く新しいような、なんとも不思議な雰囲気の曲だ。澄んだ声の女性が歌っている。遠くから遠くから、語りかけるように。

『どこまでも遠い所へ歩いて行けそう』

彼女は歌う。

僕は目をこすりながら、テレビをつけた。

澄んだ声は更に遠くなった。どこかの部屋の人が窓を開けてレコードでもかけているのだろう。

自分がテレビをつけて遠くなった歌声をもう少し聴きたくなって、フラフラと立ち上がる。

何回見ても一人暮らしのマンションの玄関とは思えない玄関まで歩く。歌が少しだけ近くなる。なんとなく、郵便受けに差し込まれている新聞紙を引っ張り込み、掴んでリビングに戻る。

もう歌は聞こえない。

僕はぼうっとしたまま、自分の寝ていたソファーの上に胡座をかいて、テレビを眺めていた。

「おはよう。」

あくびしながら宮本が入ってくる。

この部屋は、というか藪内君の家は閉め切っているので湿気がこもったようにムッとしている。

「おはよう。さっき起きたわ。」

「俺も。」

「藪内君は?」

後ろを軽く振り向いてから「まだ寝てる。」と僕の隣に座る。

「レポートも発表もなんとかなりそうやね。」

「ほんと良かったよ。やぶー割と元気そうだし。俺、やな予感してたけど、女関係でやぶさんが引きこもっちゃったかなとか思ってた。」

宮本はボソボソ言うとニヤッと笑ってこっちを見た。

「結局俺、怖いってやつがわからないままだし。」

僕らが泊まり込んだこの3日間、なんの異常も異音も無かった。僕らの宴会があったくらいで、実に静かな日常と言えた。

「わからんでええんとちゃう?」

新聞を開くと、広告が一枚だけ挟まっている。片面印刷の赤い、一色刷り。裏が白くなっているタイプのはずだが、やたら黄色い。

掴んで、白いはずの黄ばんだ面を表に向ける。


来てしまいました。

どんなに拒絶しても無駄です。

だってあなたは語ってしまった。

語って仕舞えば来るのです。


「なん…これ?」

文字はやたら綺麗な文字でペン習字のお手本のようだ。綺麗でカチッと決まっていて、手書きなのに味みたいなものが全くない。癖らしきものを探してみたけれど、見つからないのだ。

かと言って印刷じゃあない。筆圧で出来た凸凹があるのが視認できる。

「気持ち悪っ」

ひょい、と宮本が僕の手から広告を取り上げる。

僕はつい反射で睨みつけたが、宮本の目は広告の上から離れない。赤い広告面もしっかり読み、黄ばんだ手紙も2回は読んだ。ゆっくり、たたみ始める。

「気持ち悪いけど、意味がわからない。」

「どないすんの?」

「やぶーちには見せない方が良いような気がする。」

そうだけど。そうなんだろうけど。

本当にそうなんだろうか。

「おはよーさん。朝メシ、どないする?シャケ定でも食いに行く?」

小綺麗なパジャマを着たままの藪内君がやって来て、僕は正直に『間の悪い男やな』と思ってしまった。

「おお。そうするか。」

宮本が平然として振り向くと、藪内君の足が止まった。

「新聞…買うてきたんか?」

「新聞?」

何かを確かめるように、重大なことのように聞くもんだから、僕は新聞をもう一度手に取った。

なんでもない新聞。今日の日付があって、大きな新聞社のどこにでも売っているよく見かける新聞だ。

「買ってへんで。」

テレビ欄、その裏の四コマを覗き見ようとして気付く。なにか書いてある。


『もうすぐ』


「それ、どこにあったん?」

僕は返事もできずに新聞をめくっていた。


『もうすぐ』


新聞に大きく書いてある文字は広告の文字のような文字ではない。激情が叩きつけられた習字のような、黒く太く乱れた文字。

「おい?」

宮本が新聞を覗き込んで絶句する。


『もうすぐ』


「それ!その新聞!どこにあったんや!?」

「ドアんとこのポスト。」

藪内の必死な声にやっと返事すると、宮本に新聞を取り上げられた。僕が見ると、驚いたような顔をして僕を真っ直ぐに見ている。

「それはおかしい。」

「それはおかしいよ。だってここはオートロックで1階に集合ポストがある。」

裏口から僕らは入ったりしていたものだから、すっかり忘れていた。こんなマンションならあって当然じゃないか。そうだ。なぜ、配達しているなら集合ポストに入れないんだ。

なんなんだ。コレ。

「最初の日は下のポスト。次の日は門のところ、今日は玄関ドア…。俺…新聞なんか取ってへんのに…。」

藪内君の声がだんだん小さくなる。何かにパリパリムシャムシャと食べられてしまったように。子供の頃飼っていた大きな青虫の食事風景が僕の頭の中で映る。

声を全部食べられてしまった藪内君は泣いている。

さああああ。とベランダの方から音がする。雨が降り出したようだ。

僕は少し落ち着いて、宮本を見た。

「みやもっちゃん。」

その時だった。

『コンコンコン』

はっきりと、藪内君の足の下からノックが聞こえた。

「藪内君!」

なぜか僕は藪内君の手を取り、思いっきり引き寄せた。藪内君は一歩前に出ただけだった。

さああああ。と雨の音がする。

さああああ。

さああああ。

ぷっぷっぷつ。

少し大きな雨粒の音なのか。

『コンコンコン』


からこちら側へ、入れて、ってノックよ。


それが藪内君の真下の床から鳴っている。

さああああ。

さああああ。

ぷっぷっぷつ。

ぷっぷつぷつぷつぷつぷつぷつぷつぷっぷつ。


沸き立つような異音が大きくなる。

これは雨音じゃない。

こんな雨音聞いたことがない。

どんどん大きくなる異音は部屋中を包み、もっと広い範囲も飲み込んでしまいそうになっていく。

「おい!壁!!」

宮本の指差す方向には揺れる白い平面があった。沸騰前の水面のように揺れている。

あれが壁?

壁が沸いている?

細かい泡のようなものがザッと壁の点から広がり、黒い小さな粒になった。

どんどん点から黒い粒は湧いて来る。

一箇所に集まっている黒い粒を見つめるしかない僕らは声が出ない。

黒い粒々はグルンと回転したかと思うと壁一面に広がり、虫が散り散りに逃げ惑うように部屋中を走って消えた。



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