4.23日

宮本は慣れた風に、藪内君の暮らしているマンションへの道を案内しながら

「ふーん。」

と言った。

「全く怖い話とは思わないけど」

「いや怖いのはここからっていうか。誰もいないのに部屋のドアがノックされたり、あらゆるところがノックされて来る。」

僕の説明は端折りすぎだ。こんなの絶対怖くない。彼女の話の一割も伝わってない。

あの語り口、空気感。まるで僕らの周りの空気だけ、磁場が狂ったか重力が変わってしまったかってくらいの重い、どこからかのを感じるほど…。

「でさ、それ、誰が誰の話してんの?」

「こないだ、みんなで晩ごはん行く前にやな…」


『ピロリロリンピロリロリ』


宮本が携帯をケツポケットから取り出して眺める。

「あー藪ちん。『頼むからノックはするな』だって。大丈夫なのかね。」

「…ノックのアレ…ほんまに居ったんやろか…。」

ポケットに携帯をしまいながらマンションの裏口を指差す。

藪内君の住んでるマンションは、一人暮らしのはずなのにファミリータイプで、オートロックで管理人がいて、駐車場側から入れる住人用の、鍵のついた裏口まである。

その鍵をなぜ宮本が持ってるのかは知らないけど。

「あ?これ?やぶーと良くゲームしたりするからさ。もらった。」

「彼女かよ。」

宮本はニヤッと笑うと

「そういやあいつも彼女居ねーよな。なんか最近好きな子居るっぽいけど。」

裏口を抜けると、すぐ右手にエレベーターホールがあって、左奥には管理人室らしきものが見える。やけに静かなエントランスと、冷たい質感の大理石が僕を少し緊張させた。

「ほんまええとこ住んでんな…。ボンボンなんかな。」

左の茶髪が左右に揺れる。

ああ、お前も知らないのか。

「仲ええから、みやもっちゃん色々藪内君の事知ってんのかと思ってたわ。」

ゼミで一緒に発表するチームが3人1組になって、宮本がこいつも一緒に、と連れてきたのが藪内だった。宮本が連れて来るやつなので、どんな奴であろうが僕はきっと最初から信用しただろうけど、藪内はいい奴なんじゃないかと僕自身も判断を下した。

いつも明るい色のシャツを着て、シワの一つもなく、ほんのりと洗剤の匂いのするようなやつで、喋らせると言葉を選んでいるような間が少し空くけれど、なにか動作がのろいと言うこともなく、キビキビとしてて見ていて気持ちのいい青年と言って差し支えないタイプだった。多分顔も悪くない。身長も高い。羨ましいやつだ。


エレベーターで8階に着くと、

「あの部屋」

と指さされたのは通路の一番奥だった。

マンションなのに、門扉のようなものがみえる。門扉にはポストらしきものまで見える。ファミリータイプってのはそうしたもんなの?と宮本に聞いてみたが、知らんとのことだった。

一番奥の角部屋は、玄関ドアの前に小さな庭があってちょっと変わった置物が置いてあった。

「翼のある…なんだろうなースフィンクスっぽくないよねー。」

置物を横目にインターホンを押すと『はい。』とすぐ藪内君が出てきた。


藪内君ちは『藪内らしいうち。』と宮本が一刀両断したように、清潔でシンプルで男くさい部屋だった。特におしゃれってこともなく、特に高そうなものが置いてあるわけではないけれど、ガチャガチャと変なものが置いてあるわけではない。スッキリと片付いたリビングのソファーに腰掛けて、僕はグルっと周りを見回す。

「品がええわ。ほんま藪内君ええとこの子やろ。」

「そうでもないんやで。」

トレイに茶色の液体を満たしたグラスを三つ乗せて、藪内君がキッチンの方からこちらにやって来る。

「電話で話した時より元気そうで安心したよ。」

「うん。ほんま、ごめんな。あの時はちょっと…。」

藪内君は低めのテーブルにグラスと置くと、ふう、と軽いため息をついて、一人座りのソファに腰掛けた。

「あの時はちょっと、ノック、がひどくて。」

気のせいじゃない、藪内君は顔色が悪い。服装も髪型もいつも通りキチンと整えられている。でもやはり何かがおかしい。顔色だけじゃなく、何かおかしい。

「ノックがひどいてエのはなんでなんやノおン?」

宮本がちょっと独特すぎるイントネーションでしゃべる。なんだそれは。関西弁のつもりか。どこの国の言葉だ。

「みやもっちゃん。関西人もどきにもなられへんで。」

僕は覿面に吹き出してしまったが、藪内君は素の顔のままだ。

「あのな。こんなこと言っても信じてもらえるかどうか分からへんけどな。あの日の夜、ここにアレが来てん。」

「そのアレが俺にはよくわからん。」

くしゃくしゃくしゃっと音を立てて、宮本が頭を掻く。

「ノックってなんだ?なにが、なんで、どこが怖い?シカトしとけばいいんじゃね?としか思えない。」

「遠くで鳴ってりゃ無視もできるさ。」

え?って聞き返しそうになるほど小さな声で藪内君は言った。

「遠くで鳴ってりゃ、あー隣がなんかやってんのかなとか、共鳴かなとか、それこそ家鳴りみたいなもんやろ、って思うこともできてたんやと思う。というか最初はそう思ってた。けどな。…違ってん。だってな、隣に面した壁がノックされるんや。隣は今空き部屋やで?ドアもノックされた。インターホンで確認しても、誰もおらん。しまいに、俺のおる部屋の壁が『コンコンコン』ってノックされんねん。外やで?8階やで?どこにも掴まるとこなんかないで?しかもな…部屋移動したら付いてくるねん。」

でかいはずの藪内君が小さい。ほとんど一息で言い切ると大きく呼吸して頭を抱えてしまった。更に小さく見える。

「アレが、アレが壁を走るんや…。」

なんだかぼうっとする。なんでなんだろう。僕はいつも人が真剣になればなるほど、ぼうっとしてしまうんだ。例えば友人の失恋話を聞いてる時、バイトの面接に落ちた話、葬式に出ている時、どんな真剣な場面だってぼうっとしてしまう。

「アレってなんだ。」

宮本は真剣だ。でもその真剣はなんだか少しよくわからない。僕はぼうっとする。

「ごま、アレはごまみたいだ。」

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