発売一周年記念番外編

谷嶋教官と1周年のお祝い

 気にしない方が幸せでいられるということは、世の中に多々存在する。——が、そういうものほど気にしてしまうのも、人のさがというものなのだろう。


 かれこれ十分ほどスマホの画面と睨めっこしている沖野おきのは、目の前に表示されているメッセージをどう受け止めたものか、未だに悩んでいた。


「なにやってるんだ? さっきから」

 そう声をかけてきたのは、共に「助教」としてやってきたはらだった。原隊げんたいこそ違うが、歳の近い原とは、わりと親しくしている。この話題を振るなら、一番の適役だと沖野は瞬時に判断した。要は、道連れが欲しいというだけのことではあったが。

「ちょっと、これ見てくれよ。誤爆で送られて来たみたいなんだけどさ」

「あ?」

 沖野にひょいと画面を向けられ、原は素直にそれを覗き込んだ。そして瞬時に後悔する。


「……なんだこれ」

「なんなんだろうなぁ……つか、まずいよな」

「まずいっていうか……まずいよなぁ」


 表示されているのは、メッセージアプリのトーク画面だった。相手の表示名は「YAJIMA」——谷嶋やじま教官だ。日中、散々レンジャー学生らを惑わせた彼は、交代ですでに退勤している。


「『愛しのレナさんと出会って、今日で1周年だね。帰りはお祝いのケーキを買っていくよ。貴女のお気に入りのチーズケーキが、売れ残っていれば良いのだけれど』——ひゃー、なんかキザな文章ですね!」

「あの声で脳内再生される感じが、なんとも嫌……」

 左右から不意に聞こえてきた女性の声に、沖野と原は「ぎゃっ⁉︎」とそろって頓狂な声を上げてしまった。慌てて、画面を隠す。


「レンジャー小牧こまきにレンジャー志鷹したか! 二人そろってなにやってんだよ!」

「二人そろって、ってゆーか。二人そろわないとどこにも行けないじゃないですかー。バディだし」

「一応声はかけたんですけど、お二人とも気づかない様子だったので」


 あっけらかんとした小牧と、淡々とした調子の志鷹が、悪びれずに言ってくる。レンジャー学生が助教に向ける態度として、如何なものなのだろうか。自分がレンジャー学生がだった頃は、もう少し畏怖の念を持っていた気がするが……。


「谷嶋助教って、新婚さんなんですか? アツアツなんですねーっ」

 小牧のはしゃぐ声で、物思いから現実に引き戻され、沖野はハッとした。そもそも、訓練日程が前半に比べれば穏やかになってきたとは言え、それでも日中酷くしごかれているはずなのに、どうしてこうも元気なのか。これが若さなのか。


「いや……谷嶋さんは割りと若い頃にご結婚されてるって聞いたことがある。子どもも、一番上の子はもう大学受験とか」

「えっ、じゃああたしくらいの頃には、もうお子さんがいたんですね! おっとなー」

「大人としてその反応はどうなんだ」

 小牧と原の間の抜けたやり取りを聞きながら「それって」と疑念を挟んだのは、志鷹だった。

「この、本来メッセージを送るはずだった相手って……奥様じゃないってことですか?」

 ぴたりと、助教二人が黙り込む。


「えっ、それってこのさんって方のことですよね⁉︎ 奥さん、レナさんじゃないんですかっ?」

「聞いてくれるなよ……」

 げんなりした顔で、原が唸るように言う。


「谷嶋さんの奥さんって、確か……」

「谷嶋一等陸佐だな……」

「うわ、ガチで偉い人じゃないですか!」

 沖野と原がぼそぼそと交わす会話に、小牧が大きな声で叫ぶ。「だからあんたはいちいち声がでかい!」と、志鷹がその背をどついた。


「それにしても谷嶋教官……最低ですね。長年連れ去った奥様を裏切るなんて」

「お、俺は無実だぞ⁉︎ だからこっちにその視線を向けるんじゃないッ」

 真夏に五日間放置された生ごみを見るような志鷹の視線に耐えきれず、沖野が怯えるように原の後ろに隠れる。


 その横を、トイレ帰りらしい瀬川せがわ糸川いとかわのバディが助教二人に礼をしつつ、何事もなかったように通り過ぎていった。


「いやー、それにしても谷嶋教官のレナさん愛はすごかったなー。あんな惚気ちゃってさぁ」

「まぁ……訓練中の様子見てて、ああいうのが好きなんだろうなとは思っていたが——ぎゃっ⁉︎」


 後ろから助教二人に突如抑え込まれ、屈強な体格の糸川がなす術もなく冷たい廊下に倒れ込む。

「なっ、なんですかッ⁉︎」

「レンジャー瀬川、レンジャー糸川。状況報告」

「れ、レンジャー」

 神たる助教からの言葉に、状況が飲み込めないながらも、バディを人質に取られた瀬川が決まり文句の返事を(語尾が半音上がりつつも)する。


「これがどういう状況なのかを、こっちが聞きたいんですが……」

 ぼやく糸川に「コードネームRだ」と神妙に沖野が告げる。

「R……あ、今話してたレナさんの話っすか?」

 頭を掻きながら、瀬川が首を傾げる。

「谷嶋教官が、帰り間際に見せてくれたんすよ、画像。めっちゃ美人でしたよ?」

「それでどうして俺がこんな……」

 あっけらかんと告げる瀬川と、解せない表情でぼやく糸川に、志鷹が先ほどの眼差しを更に強くする。


「女の敵……というか、真っ当に生きる人類の敵ね。見損なったわ」

「なんの話だ⁉︎」

 視線を直に浴びた糸川が悲鳴を上げるが、瀬川は更に首を捻る。


「いや、谷嶋教官はむしろ、良いことしてるんじゃないのか? レナさんは親も早くに亡くして天涯孤独だったって聞いたけど」

「は? 恵まれない相手のためなら、伴侶を裏切るのが正当化できるわけ?」

「別に裏切ってはいないだろ……一佐の理解も得ていると仰ってたし」

「一佐公認って……さすが谷嶋家、規格外だな……」

 ぼやくように言う糸川の言葉に、ごくりと沖野が生唾を飲み込む。その頭を、べしっと原が引っ叩いた。


「サイテー……あんたがそういう考えだったなんて。クソ真面目なところが取り柄だと思っていたのに見損なったわ」

「何がだ⁉︎」

 別カップルにまで、禍いの火種が飛び移る。まずいな、と沖野は心の中で唸った。自分一人が、なにも見なかったことにすれば。心のうちにだけ閉じ込めていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


(いや。でもこいつら勝手に他人のスマホ覗き見してきたんだし。男連中も考えなしにベラベラ喋ってたんだから、俺は悪くないな。無実無罪だな)


 抑え込んだままの糸川と志鷹が、ギャーギャーと騒ぎ出す声を逃避と共に聞き流していると。

「わーっ! ほんとに美人さんですねぇ」

 なにも考えていなさそうなでかい声が、廊下に響き渡った。


「ほら、見てくださいよこの写真! レナさん超美人」

「いやそれ、俺のスマホなんだけど」

 糸川を確保するときに、手に持っていたスマホを一番近くにいた小牧へ、無自覚に預けていたらしい。だからといって、勝手に通知を見るのはどうなのかと思うが。


 小牧が示したのは、先ほどから開きっぱなしだった谷嶋とのトーク画面だった。「すまない、間違えた」というメッセージの下に、エプロンを身につけている谷嶋と、ソファでくつろいでいる一佐、その膝の上でポーズを取らされている猫が写った画像が添えられている。


 黒色のテーブルには切り分けられたチーズケーキと、カッティングボードに載せられたカナッペ、それからワイン。

 ボールドカラーのカーテンの上には、洒落た空気をぶち壊すように、「レナさん 谷嶋家に来て1周年♡」と画用紙を切り貼りした文字、それから仔猫の写真が糊付けされた飾りがペタペタと貼り付けられている。


「………」

 沖野、原、志鷹の三人が、黙って目を合わせ。そしてなにも言わずにそっと目を逸らした。


「可愛いって言うより美人さん系だねー! 教官も一佐も目が超めろめろー」

「だよなー。息子さんが拾って来た時は、目ヤニだらけだし弱ってて大変だったって」

「なんなのよ! あんたのあの『ああいうのが好き』とかいう思わせぶりな台詞はっ」

「いやだから、白鳥とか猪とかの仮装するくらいだし、動物好きなんかなって普通思うだろ?」


 それぞれにギャーギャー騒ぐ学生らを尻目に、沖野と原は黙って目を合わせた。

 互いの心は、なにも言わずとも分かっている。学生バディらよりも強固に、助教らの心は一つだった。


(もうさっさとやることやって、おうちに帰りたい)


 数年前に厳しいレンジャー教育を終え、胸になにより硬いダイヤの徽章を身につけても、よく分からない上司に振り回される日々は変わらず、むしろ厄介ごとばかり増えている気がする。

 それでも、ここに「神」の一人として立つ限り、やるべきこがある。


 二人は腕の時計をちらりと確認すると、ため息を隠しながら、首元にかけた笛を強く吹き鳴らした。


 レンジャー教育隊の地獄の夜は、これからである。




※※※


『レンジャー・ガール! 女性自衛官・小牧陽は地獄を這い進む』、本日で発売より1周年を迎えることができました!

未だにあたたかいお言葉をいただくこともあり、大変嬉しいです。


今回は、読者様に「好き」とお声をいただきつつ、なかなか焦点を当てられなかった谷嶋教官についてのお話を書かせていただきました。


どうぞ今後とも、アキラたちの応援よろしくお願いいたしますm(_ _)m

レンジャー!

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【書籍化】レンジャー・ガール!―女性自衛官・小牧陽は地獄を這い進む―(旧『答えはぜんぶ「レンジャー!」ですっ』) 綾坂キョウ @Ayasakakyo

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