episode4 一番星の隣に添える枝豆のキッシュ

第4話

「果澄、昨日『波打ち際』の前で、甲斐かい達也たつやに言ってたよね。今のアパートを引っ越す、って。理由は、元カレを吹っ切るために、環境を変えたいってところ? それなら、あたしと暮らせば解決するんじゃない? 空き部屋もあるし、ルームシェアできるよ」

 窓から射す夕日の光が、赤みを深めていくリビングで、ダイニングテーブルを挟んで向き合う翠子は、驚愕きょうがくの提案をうきうきと語っている。爆弾発言が生む衝撃波しょうげきはが、果澄から声を奪い去った。カレーを食べる手も止まり、たっぷり数秒の間を空けてから、震え声で「ほ、本気? というか、正気っ?」と全力でうったえる。

「本気だし、正気だよ? むしろ、お願いしたいかも」

「……い、嫌よ!」

「答えが直球すぎない?」

「だって、他人同士が、一つ屋根の下で暮らすのよっ? 簡単に決めていいことじゃないでしょ!」

「他人同士じゃなくて、友達同士なのに。だめ?」

 上目遣いで懇願こんがんされてしまい、まごついた果澄は、ハッとした。

「そのほうが、絶対に、毎日がもっと楽しくなるに決まってるから」

 腹に手を添えた翠子の笑みは、いつもの嫣然えんぜんとしたものではなく、少し寂しそうに見えた――なんて。きっと、果澄の思い過ごしだ。返答にきゅうしたまま、とにかく食事を再開すると、喫茶店から消えるかもしれないバターチキンカレーは、冷め始めていても心を温める滋味深じみぶかさを宿していて、なんだか無性むしょうくやしくなった。


     *


 翠子の家を出ると、夕空は薄紫色に変わっていた。二階の窓かられる灯りが、街灯と共に歩道を照らしている。黄昏時たそがれどきの空の彼方に一番星を見つけた果澄は、先ほどの打ち合わせの内容を反芻はんすうした。

 喫茶店は、七月末の営業再開を目指すこと。その日までに、果澄は翠子から接客を学ぶこと。そのために、明日も『波打ち際』に通うこと――もやもやした気持ちをかかえながら、駅に向かって歩いた果澄は、またしても知人に出くわした。

「……達也?」

「あっ、果澄……」

 パン屋の灯りを背に受けた達也が、かたい表情で振り向いた。おろおろしつつも近寄ってきた浮気男を見つめた果澄は、動揺どうようを押し殺すと、昨日のように作り笑顔で対応する。

「こんな所で会うなんて、奇遇きぐうね? ……本当に警察を呼ぶからね!」

 スマホを構えて威嚇いかくすると、達也は大慌てで「待ってくれ!」と叫んで釈明しゃくめいした。

「えっと、さ……昨日、果澄に嫌な思いをさせたことを、謝りたかったんだ。本当にごめん。もう待ち伏せはしないから」

「……その台詞が、すでに嘘じゃない」

 呆れつつも声音をやわらげてしまい、ほとほと自分が嫌になる。まだ完全に吹っ切れていない甘さに辟易へきえきしながら、一人暮らしのアパートに達也をまねいた日のことを思い出す。今日の翠子のようにカレーを作って、二人で食卓を囲んだ時間は楽しかった。

「果澄? どうしたんだ?」

 達也が、心配そうな眼差しになる。果澄は躊躇ためらったが、わだかまりを言葉にすることで、もやもやを形にできるかもしれない。これは達也に打ち明けるというよりも、独り言だと自分自身に言い聞かせて、ぽつりぽつりと語り始めた。

「ある人に、新しいパートナーになって、って頼まれたの。でも、一緒に食事をしても、別々の部屋にいる感じがして……」

「えっ? パートナー? 食事? 誰だよ、そいつ」

 達也は、雷に打たれた顔をしている。謎の動揺を見せた元カレを放置して、物思いに沈んだ果澄は、次第に腹が立ってきた。

 メニューを見直そうとしている翠子は、果澄を喫茶店の戦力としてとらえていない。ルームシェアを望むくらいには、本当は孤独を恐れているくせに。そんなふうに考えたとき、十五歳の頃を思い出した。学園祭のあとで、翠子が差し出したレモンスカッシュを断った秋のことだ。セーラー服のえりひるがして歩き出した果澄を、翠子が呼び止めた。

 ――『果澄も、あたしのことを翠子って呼んでよ。友達になろう?』

 振り向いた果澄は、初恋の一件で翠子をうらんでいた。かといって、学校の人気者を正面切って非難する度胸どきょうもなく、負け犬の遠吠とおぼえ同然の台詞しか吐けなかった。

 ――『鮎川さんは、私のことなんて、そのうちどうでもよくなるに決まってる』

 翠子は、大きな目を瞬いて『そんなわけないじゃん!』と抗議してから、悪戯いたずらっぽい笑顔で『それじゃあさ』と提案した。

 ――『あたしが大人になっても、果澄のことを覚えてたら、そのときは翠子って呼んで、友達になってくれる?』

 果澄は、鳩が豆鉄砲を食った顔をしたと思う。そして、レモンスカッシュを翠子の手に残したまま、『出会えたらね』と言って立ち去った。

 ――『果澄? やっぱり。果澄だ』

 再会の日の呼び声が、潮騒しおさいとなって脳裏のうりに甘く響いている。学生時代に、多くの友人に囲まれていた翠子が、つかでも不安がっている姿なんて、見たことがなかった。

「……達也。私が仕事を辞めたのは、達也の所為じゃないって話したよね。私が復職しない理由を、聞いてくれる?」

 心を決めた果澄は、まだ狼狽うろたえている達也を見上げた。

「と……友達、の……喫茶店を、手伝うって約束したから。自分の言葉に、責任を持ちたいだけ」

「……そいつ、本当に友達か? 親のあだでも見たような顔をしてるぞ」

「……そんな顔なんて、してないわよ」

「もしかして、男か? 果澄、まさか二股かけてたんじゃ」

「うるさい。じゃあね!」

 許しがたい誤解の台詞をさえぎった果澄は、早足で先を急いだ。確か、近くにスーパーがあったはずだ。途中で一度立ち止まり、スマホを操作する。手土産のゼリーを買った際の『妊婦 手土産』という検索履歴に続いて、『妊婦 食事』『妊娠中 食べられるもの 食べられないもの』という、今までの人生には無縁むえんだった言葉たちが、流星群のように連なっていく。

 そして、一つのメニューを頭の中で組み立てると、スーパーに着いた果澄は、冷凍パイシートと生クリームを買い物かごに入れた。卵とベーコンは買い置きがあり、昼食のラーメンに載せるために茹でたほうれん草も、まだ十分に残っている。すぐにレジを目指したとき、野菜コーナーに陳列ちんれつされた枝豆の袋が目に留まった。

 ――枝豆に含まれる葉酸ようさんは、妊娠中に必要となる栄養素だと、先ほど知った。ただ、枝豆を材料に加えれば、調理の時間が少し増える。逡巡しゅんじゅんしたが、ひと手間を掛けたココアを作った店主の笑顔を思い出したから、野菜コーナーに足を向けた。

 会計を終えて、会社帰りのサラリーマンに紛れて電車に乗っている間に、スマホのメッセージアプリを立ち上げる。『渡したいものがある。そっちに二時間後に戻ってもいい? 遅くにごめん。すぐに帰るから』と送信すると、あっさりと『了解』と返ってきたので、自宅のアパートに着いた果澄は、心置きなく調理を開始した。

 まずは、枝豆を鍋で塩茹しおゆでして、オーブンレンジを百八十度の予熱よねつに設定し、長らく使っていなかったタルト型を食器棚から探し出して、パイシートを麺棒めんぼうで叩いて伸ばしていく。休む間もなく、ほうれん草とベーコンをフライパンでいためれば、じゅわっと点火したばかりの花火のように派手な音が、白い湯気と共に炸裂さくれつした。

 並行して、ボウルで卵と生クリームを混ぜ合わせてから、塩胡椒を振ろうとして、調理のリズムが初めて乱れる。翠子の声が、脳裏のうりよぎった。――つわりが落ち着いて食べ過ぎてたから、塩分控えめの献立にしたの。果澄は、塩胡椒をいつもの分量よりもひかえめに振った。理由は、今の翠子のためだけではなく、素材の旨味を楽しむキッシュのほうが、一番星のような『当たり』を浮かべたカレーに似合うと思ったからだ。

 間髪かんはつを入れずに、ほうれん草とベーコンを加え、さやから取り出した枝豆も、クリーム色の海に落としていく。これで、アパレイユと呼ばれる生地きじは完成だ。タルト型にいたパイシートにアパレイユを流し込み、余熱よねつを終えたオーブンレンジにセットすると、爽やかで懐かしい充足感じゅうそくかんが、忙しい調理の疲労を吹き飛ばしてくれた。手間が掛かる料理にいどんだのは、達也との関係にかげりが生まれて以来だった。

 普段よりも少し長めに焼いた二十分後に、こんがりとキツネ色に焼き上がったキッシュからは、野菜の優しい甘みが立ち上った。ほうれん草と枝豆の緑色は、盛夏せいか野花のばなのような力強さで、カリカリのベーコンがのぞく大地に芽吹めぶいている。生地に竹串たけぐしを突き刺しても、卵液はにじまない。しっかり加熱できた証拠しょうこだ。ピザのように切り分けた一切れを、一人きりの部屋で味見して、悔し涙を必死にこらえる。

 ――達也の心が離れたとたんに、料理が雑になった己の格好悪さに、もっと早く気づきたかった。だが、誰かを笑顔にしたくて手間を掛けた時間まで、否定し尽くす必要はないことを、無敵の料理で伝えてくれた人がいる。

 だから、今度は、果澄が意思を伝える番だ。粗熱あらねつを取ったキッシュをラップで包み、ジップロックに入れてから、ランチバッグに詰め込むと、薄紫から紺青に移り変わった空の下へ、はやる気持ちを抑えて飛び出した。

 乗客が減ってきた電車に乗って、夜の『波打ち際』まで駆け戻り、木製扉の前に立つ。二階を振り仰げば、明かりをかせた窓のカーテン越しに、友達だと無理やり認めた人物の影が見えたから、まだ呼び慣れない女の名前を、ちゃんと呼んだ。

「翠子!」

 ややあって窓が開き、翠子がバルコニーに出てきた。湯上ゆあがりなのか、結っていた茶髪を下ろしていて、服もワンピースに着替えている。「果澄」と呼んできた美女の顔を、橙の逆光と紺青こんじょうの暗がりが隠しても、楽しげに笑ったのだと理解できた。

「あたしたち、ロミオとジュリエットみたいだね。おお、ロミオ。あなたは、なぜロミオなの?」

「ふざけないで。私たちは、私たち以外の誰でもないんだから」

「果澄、もしかして怒ってる?」

「怒ってるわよ!」

「なんで?」

 心から不思議そうに、翠子は訊いた。肩で息をした果澄は、言い難さをつばと一緒に飲み下して、宣言する。

「あなたとルームシェアは、できない。たとえ今は同居できても、お腹の子が生まれたあとの生活を、私には想像できないし、その生き方に責任も持てないから」

 翠子の反応を待たずに、果澄は「その代わり!」と声を張った。

「私は、翠子の家の近くに引っ越す。だから翠子は、私に料理を教えて。『波打ち際』の料理の作り方を、全部!」

「どうして?」

「私も厨房に立てたら、身重の翠子が疲れて休憩しても、私が対応できる。お客さんを待たせない。今のメニューを維持できるでしょ」

「それは分かるけど、だからどうして? あたしは、果澄に接客しか望んでなかったよ。どうして、そこまで考えてくれたの?」

「……翠子のカレーが、美味しかったから。この味を待ってるお客さんはいるはずなのに、私が未熟みじゅくな所為で消えることが、許せないから。それに、厨房には夫婦で立ってたんでしょ? あなたの元旦那にできた仕事が、私にもできるかどうか、まずは試してみなさいよ」

 啖呵たんかを切ってから我に返り、年甲斐もなく感情を剥き出しにした恥ずかしさに襲われた。穴があったら入りたい気持ちと戦いながら、ランチバッグを掲げて見せる。

「……これ、キッシュを作ったの。よかったら、朝ごはんに食べて。バターチキンカレーに合うと思うし、妊娠中でも食べられる食材だから……翠子?」

 俯いた翠子は、両腕を抱いて震えていた。愉快そうな笑い声が、ぬるい夜風に乗ってこちらに届く。果澄が顔を赤くして「人が真剣に話してるのに、失礼よ!」と抗議すると、翠子は「ごめん」と返して、顔を上げた。

「果澄のそういうところ、あたしやっぱり好きだな」

「か、からかわないで!」

「本気なのに。ま、ロミジュリごっこはこの辺にして、続きは家でどう? 果澄のキッシュ、早速食べたいし」

「……最近、食べ過ぎてたんじゃないの?」

「今日は、特別」

 バルコニーを後にする翠子を、果澄は「翠子」と呼び止めた。もう一つだけ、いま伝えたい本音が残っていたからだ。

「これから、一緒に食事をするときは……体調と食材の折り合いがつけば、二人で食べられる献立がいい。そうしないと、洗い物が増えて非効率的でしょ」

「……ふふ、了解!」

 振り返った横顔の輪郭りんかくを、リビングから零れる光が縁取ふちどった。やっと見えた翠子の笑みは、真夏の夜空を彩る大輪たいりんの花火のように明るかった。

 今日も大嫌いと伝え損ねた果澄は閉口へいこうしたが、これから嫌になるほど顔を合わせるのだから、今度でいいか、と思うことにした。

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スイート・ライムジュース 無敵の再会ごはん 一初ゆずこ @yuzuko

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