episode3 おひとりさまのためのバターチキンカレー
第3話
喫茶店に続く道を、日傘をさして歩くのは、今日で早くも三度目になる。
ただし、喫茶店の先――二階に行くのは、今日が初めてだ。まだ明るい夕空の下で、ついに『波打ち際』にたどり着いた果澄は、緊張を誤魔化すように息を吸って、扉の前でスマホを操作した。メッセージアプリで『着きました』と他人行儀なメッセージを送ると、すぐに
「びっくりした……どこから出てきたのよ?」
「裏口だよ?
鮎川翠子は、茶髪を抜け感のある団子に結っていて、人懐こい仔犬のような笑みで、果澄を裏口へ
「靴は、階段の手前で脱いでね」
階段の手前には、上がり
「果澄は、ソファでくつろいでて。夕飯を温め直すから、ちょっと待ってね」
昨日も耳にした甘いソプラノは、2LDKのキッチンに移動していた。白とライトベージュを基調としたリビングは、壁紙の一部が浅葱色で、木製のシェードをかぶったペンダントライトが、窓から差し込む夕日と共に、室内を柔らかく照らしている。
果澄は「うん」と小声で答えると、ダイニングテーブルから離れたソファに座り、そわそわする気持ちを
「そのウサギ、果澄に似てるでしょ? 結婚したときに、実家から連れてきたんだ」
「どこが似てるのよ、目つきが悪いじゃない」
「そこが可愛いところなのに」
小鍋をおたまで混ぜていた翠子が、気づけば果澄を振り向いていた。
どうして、大嫌いなはずの女の家で、夕飯を待っているのか――
――『果澄の都合がつくときに、うちに夕飯を食べに来て。仕事の件も、そのときに改めて相談させてほしいんだ。ちなみに、あたしは今日でも大丈夫だよ』
自宅で
ただ、正直なところ――昨日の夕方に、翠子と仕事の話をしないまま、帰路に
かくして、今さらのプレッシャーを感じながら、
「お待たせ。こちらにどうぞ」
お盆に料理を
「綺麗なカレー……」
「……鮎川さんの分は?」
「もう、翠子だってば。あたしの夕飯も、すぐに用意するよ。その前に、果澄からカレーの感想を聞きたいな」
「何よそれ」
見つめられると緊張するが、翠子のように
「すごく
「やった。この料理、うちの喫茶店のバターチキンカレーなんだ」
そういえば、以前に『波打ち際』で見たメニューに、カレーの記載を見た気がする。熱い鶏肉の食感は、目を瞠るほどにホロホロだ。
「カレー粉とヨーグルトに
「事実を言っただけよ」
可愛げのない照れ隠しを伝えても、翠子は嬉しそうな笑みを
「夕飯をご馳走してくれたのは、私に喫茶店のごはんを食べてほしいから?」
「そ。従業員には、お店が提供してる味を知っていてほしいからね。お客さんから、料理の説明を求められる場面だってあるし。また今度、他の料理も食べてね」
「そういうところ、ちゃんとしてるんだ」
「あたしのこと、見直した?」
席を立った翠子は、キッチンに戻っていく。沈黙で肯定せざるを得なかった果澄が目を
「本棚、気になる?」
「別に」
内心慌てた果澄は、スプーンを動かすことに専念した。本棚から書籍をごっそりと抜き取った
「喫茶店では、あたしも元旦那も、
「……あなただって、そんな話をわざわざしたら、自分が傷つくでしょ」
「全然? だって、果澄が受け止めてくれたから。今みたいに」
「そういえば、このバターチキンカレーをメニューに加えた決め手って、元旦那の反応だったな。喫茶店のメニューを決めるときに、たくさんの種類のカレーを作って試食したんだ。キーマカレーでしょ、シーフードカレーでしょ、もちろんオーソドックスなカレーも試したし、あとはカレーうどんも」
「うどんっ? それは、お店のカラーに沿わないんじゃないの?」
「元旦那からも、果澄と同じ理由で却下されちゃった。喫茶店のカレーうどんって、面白いと思うんだけどな。まあ、そのときにはナポリタンもメニューに加えるって決めてたから、
ラップを掛けた小皿を電子レンジに入れた翠子は、
「元旦那、このカレーを食べたときが、一番幸せそうな顔をしたんだよね」
遠い目をした横顔に、果澄は目を
「カレーの話で思い出したけど、パスタメニューも決めるのに苦労したんだ。ナポリタン派のあたしと、カルボナーラ派の元旦那で、どっちをメニューに入れたいか主張し合って、なかなか決着がつかなくて。やっと決まったと思ったら、今度はオムライスの卵でケチャップライスをどう包むかで、また意見が割れちゃって。きっちり焼いて包むラグビーボール形と、半熟卵でドレープを作ってかぶせる形で、互いにそれぞれ作り合って、食べさせて……あたしも
料理をお盆に載せて、ダイニングテーブルまで戻ってきた翠子の声は、懐かしそうに
――翠子の元旦那は、どんな人物だったのだろう。浮気をして、翠子と別れて、喫茶店を残して消えたことしか、昨日までの果澄は知らなかった。だが今は、別れてもなお翠子に、こんなふうに過去を語らせる人物なのだと知ってしまった。夫婦で編み出したメニューなのに、今は一人で作っているバターチキンカレーを見つめていると、食卓に自分の夕食を並べた翠子が、さらりと穏やかな口調で言った。
「でも、あたし自慢のバターチキンカレーは、お店を再開してもしばらくは、提供を休止するかも。まだ迷ってるけどね」
「え?」
「休業中も
「それは大丈夫だけど、なんでメニューの見直しが必要なのよ?」
「今のままだと、お客さんに迷惑が掛かるから」
お腹を労わるようにゆっくりと着席した翠子は、経営者の目をしていた。真剣さに気圧された果澄をよそに、破顔した翠子は「いただきます」と唱えて
「メニューの
「それなら、他にも従業員を
「いずれはね。そのためにも、まずは果澄と二人の経営体制に慣れなくちゃ」
「でも……って、翠子。どうして、私とあなたと、夕飯の
翠子の夕飯は、ごはんと味噌汁、キノコと
「あたしはカレーを昨日食べたし、つわりが落ち着いて食べ過ぎてたから、塩分控えめの献立にしたの。妊娠中は、摂取に注意が必要なスパイスがあったり、逆に摂取したほうがいい栄養素があったりして、食生活が変わったから」
「あ……」
説明を聞いた果澄は、
「当たり! おめでとう!」
「当たり? ……あっ」
言葉の意味は、口に運ぼうとしていたスプーンを見下ろした瞬間に、理解した。優しい辛さのカレーの中に、星形のニンジンが紛れ込んでいる。翠子が『当たり』だと言ったニンジンは、やがて訪れる夕闇を照らす一番星のように、
「お店のバターチキンカレーの鍋にも、星を少しだけ入れてるんだよ。当たりを引いたお客さんが笑ってくれると、あたしも嬉しくなるんだ」
翠子は、得意げに胸を張っている。言葉通り嬉しそうな顔を見ていると、なんだか落ち込んでいるのが馬鹿らしくなり、果澄は苦笑しながら確認した。
「カレーに当たりを入れる提案をしたのは、旦那さんじゃなくて、翠子なんでしょ」
「そうだよ。なんで分かったの?」
それくらい、簡単に分かる。翠子の元旦那のことは、まだまだ分からないことが多くても、果澄の新しい雇用主は、料理で人の気持ちを明るくすることが大好きなのだということなら、夫婦で築き上げてきたという『波打ち際』のメニューが教えてくれた。
――このカレーの星だって、果澄の皿に偶然入ったわけではなく、翠子が入れてくれたに決まっている。必然の『当たり』を
「果澄には、うちのメニューを引き続き食べてほしいし、接客も覚えてもらうから、これからもうちに通ってもらえるかな。もちろん、交通費は出すから」
「え……お金のことは、今はいいわよ。ご馳走になってばかりだし」
「遠慮しないでよ、仕事の
「別に、そこは負担じゃないけど……」
否定したものの、実は少し図星だった。アパートから電車で数駅の距離はさほど気にならないが、駅から『波打ち際』までは距離があるので、
果澄のとっさの誤魔化しは、やはり翠子に気取られているようだ。箸を止めた翠子は「うーん」と
「そうだ、果澄。ここに住む?」
「……は?」
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