episode3 おひとりさまのためのバターチキンカレー

第3話

 喫茶店に続く道を、日傘をさして歩くのは、今日で早くも三度目になる。

 ただし、喫茶店の先――二階に行くのは、今日が初めてだ。まだ明るい夕空の下で、ついに『波打ち際』にたどり着いた果澄は、緊張を誤魔化すように息を吸って、扉の前でスマホを操作した。メッセージアプリで『着きました』と他人行儀なメッセージを送ると、すぐに既読きどくのマークがつく。続いて、遠くで扉が開く音がして、店舗の右隣の歩道から、中学生時代の同級生である妊婦が「果澄、お疲れー」と言いながら歩いてきた。喫茶店の扉が開くと思っていた果澄は、予想外の登場にたまげてしまった。

「びっくりした……どこから出てきたのよ?」

「裏口だよ? 鮎川あゆかわ家の玄関。さ、どうぞ上がって。お店のバックヤードもねてる都合で、少し窮屈きゅうくつだけど」

 鮎川翠子は、茶髪を抜け感のある団子に結っていて、人懐こい仔犬のような笑みで、果澄を裏口へいざなった。簡素な扉から建物内に入ると、あまり広くないスペースには、事務机と椅子の他に、喫茶店で使う消耗品しょうもうひんなどを収納しているとおぼしき棚があったが、整理整頓が行き届いているからか、窮屈な印象は受けなかった。翠子は、とっておきの秘密基地を打ち明けるような顔で、室内の正面を手で示した。

「靴は、階段の手前で脱いでね」

 階段の手前には、上がりかまちしたような広めの段差があり、居住空間への入り口なのだと一目で分かった。指示に従って靴を脱ぎ、翠子の先導せんどうで階段を上がり始めたとき、コーヒーの香りが鼻孔びこうかすめた。真綿まわたで首を締められるような緊張感が、ぶり返してくる。二階が近づくにつれて、平凡なOLとして生きていた最近までの日常が、対照的に遠ざかっていく感覚があった。いよいよ後戻りはできないのだと、つばを呑み込みながら思う。ただ、やがて到着した二階には、カレーの香りがあわく拡がっていたから、生活感がないまぜになった温もりが、身体の強張りをやわらげてくれた。

「果澄は、ソファでくつろいでて。夕飯を温め直すから、ちょっと待ってね」

 昨日も耳にした甘いソプラノは、2LDKのキッチンに移動していた。白とライトベージュを基調としたリビングは、壁紙の一部が浅葱色で、木製のシェードをかぶったペンダントライトが、窓から差し込む夕日と共に、室内を柔らかく照らしている。瀟洒しょうしゃな家の主は、すでにエプロンを身につけていて、小鍋を火に掛けていた。

 果澄は「うん」と小声で答えると、ダイニングテーブルから離れたソファに座り、そわそわする気持ちをなだめるように、同級生の背中から目をらす。とたんに、本棚に鎮座したウサギのぬいぐるみと目が合った。三白眼さんぱくがんで果澄を睥睨へいげいしているウサギだけが、洗練せんれんされた部屋の中で浮いている。

「そのウサギ、果澄に似てるでしょ?  結婚したときに、実家から連れてきたんだ」

「どこが似てるのよ、目つきが悪いじゃない」

「そこが可愛いところなのに」

 小鍋をおたまで混ぜていた翠子が、気づけば果澄を振り向いていた。はじけるような笑みも、エプロンとサロペットパンツしでも判る腹部のふくらみも、ふわんと漂うカレーの香りも、まぎれもなく現実だ。反論をあきめた果澄は、嘆息たんそくした。

 どうして、大嫌いなはずの女の家で、夕飯を待っているのか――北欧柄ほくおうがらのクッションに背中をあずけながら、昼頃にメッセージアプリで交わしたやり取りを回想かいそうする。

 ――『果澄の都合がつくときに、うちに夕飯を食べに来て。仕事の件も、そのときに改めて相談させてほしいんだ。ちなみに、あたしは今日でも大丈夫だよ』

 自宅で袋麵ふくろめんのラーメンをでていた果澄は、『私も、今日で大丈夫』と返信した。本来であれば仕事の件は、ココアをご馳走ちそうになった昨日に済んでいるはずだったので、翠子をこれ以上待たせるわけにはいかなかった。

 ただ、正直なところ――昨日の夕方に、翠子と仕事の話をしないまま、帰路にいた道すがら、心のどこかでホッとしている自分がいた。『前職を離れて、喫茶店で働く』という、未知みちの進路を歩くことに、果澄はおくしていたのだろう。一度は決心しておきながら、足踏あしぶみをしていた己の弱さが、うとましくて仕方がなかった。

 かくして、今さらのプレッシャーを感じながら、道中どうちゅうで購入したフルーツゼリーの詰め合わせを手土産てみやげに、夕飯には少し早い五時前に、鮎川家を訪ねたのだが――キッチンに向かって「私も手伝う」と声を掛けても、翠子に笑顔で「お客さんは座ってて」と言われてしまい、もてなされてばかりの果澄は、いささか決まりが悪かった。

「お待たせ。こちらにどうぞ」

 お盆に料理をせた翠子の声で、我に返った。ソファから立ち上がり、せめて配膳を手伝おうとしたが、もう翠子は食卓に皿を並べていた。妊婦に任せきりの後ろめたさを抱えてダイニングテーブルに移動すると、ボタニカル柄の皿と向き合った果澄は、居心地の悪さを刹那せつな忘れて、湯気ゆげを立てる料理に見入った。

「綺麗なカレー……」

 だいだいあかりを照り返すトマト色は、窓から見える夕空と同じ輝きを宿していた。香りにはからさのとがりがなく、バターの優しい風味を伝えてくる。垂らされた生クリームの純白が、一口サイズに切り分けられた鶏肉とニンジンが顔を出すルーに、自由気ままな水飛沫みずしぶきえがいている。果澄の正面に座った翠子は、頬杖ほおづえをついてニコニコした。

「……鮎川さんの分は?」

「もう、翠子だってば。あたしの夕飯も、すぐに用意するよ。その前に、果澄からカレーの感想を聞きたいな」

「何よそれ」

 見つめられると緊張するが、翠子のように奔放ほんぽうな人間には、言葉でうったえても無意味だろう。果澄は「いただきます」と言ってスプーンを握り、一口食べてびっくりした。

「すごく美味おいしい」

「やった。この料理、うちの喫茶店のバターチキンカレーなんだ」

 そういえば、以前に『波打ち際』で見たメニューに、カレーの記載を見た気がする。熱い鶏肉の食感は、目を瞠るほどにホロホロだ。黒胡椒くろこしょうの風味の他に、さわやかな甘さをほのかに感じたので「ヨーグルトを使ってるの?」と訊いてみると、翠子は「分かる?」と答えて相好そうごうくずした。

「カレー粉とヨーグルトに一晩ひとばんつけた鶏肉を、いためた玉ねぎとにんにく、生姜、ホールトマトと一緒にじっくり煮込にこんで、バターと生クリームと調味料で味を整えて、出来上がり。果澄にめられると、すごく嬉しいな」

「事実を言っただけよ」

 可愛げのない照れ隠しを伝えても、翠子は嬉しそうな笑みをくずさない。「うちの料理を食べてもらえてよかった」と言われたので、意味に気づいた果澄は、問いを重ねた。

「夕飯をご馳走してくれたのは、私に喫茶店のごはんを食べてほしいから?」

「そ。従業員には、お店が提供してる味を知っていてほしいからね。お客さんから、料理の説明を求められる場面だってあるし。また今度、他の料理も食べてね」

「そういうところ、ちゃんとしてるんだ」

「あたしのこと、見直した?」

 席を立った翠子は、キッチンに戻っていく。沈黙で肯定せざるを得なかった果澄が目をらすと、ウサギのぬいぐるみがにらみをきかせている本棚に、ふと視線が吸い寄せられた。翠子の声が、横合いから飛んでくる。

「本棚、気になる?」

「別に」

 内心慌てた果澄は、スプーンを動かすことに専念した。本棚から書籍をごっそりと抜き取った痕跡こんせきには、気づかなかったふりをする。だが、消えた本という余白から、この家を出た『住人』の気配を感じたことは、翠子に気取けどられているようだ。

「喫茶店では、あたしも元旦那も、厨房ちゅうぼうに立ってたよ。でも、料理の腕は、あたしのほうが上だった。今にして思えば、相手はそういうところにも傷ついたのかもね」

「……あなただって、そんな話をわざわざしたら、自分が傷つくでしょ」

「全然? だって、果澄が受け止めてくれたから。今みたいに」

 意表いひょうかれて振り向くと、翠子は明るく笑っていた。痛ましさなんて微塵みじんも感じさせない強靭きょうじんさは、心のどこからいてくるのだろう。何も言えない果澄に、翠子は炊飯器を開けながら、のほほんと言った。

「そういえば、このバターチキンカレーをメニューに加えた決め手って、元旦那の反応だったな。喫茶店のメニューを決めるときに、たくさんの種類のカレーを作って試食したんだ。キーマカレーでしょ、シーフードカレーでしょ、もちろんオーソドックスなカレーも試したし、あとはカレーうどんも」

「うどんっ? それは、お店のカラーに沿わないんじゃないの?」

「元旦那からも、果澄と同じ理由で却下されちゃった。喫茶店のカレーうどんって、面白いと思うんだけどな。まあ、そのときにはナポリタンもメニューに加えるって決めてたから、麺類めんるいを増やすと大変じゃないかって言われて、確かにって納得したんだよね。でも、最終的にバターチキンカレーを選んだ理由は、別にあって」

 ラップを掛けた小皿を電子レンジに入れた翠子は、睫毛まつげせて、ふっと微笑んだ。

「元旦那、このカレーを食べたときが、一番幸せそうな顔をしたんだよね」

 遠い目をした横顔に、果澄は目をうばわれた。水平線のはる彼方かなたを見渡すような眼差しには、微かなうれいがあったのに、翠子が果澄と目を合わせて笑ったときには、かつての幸せの名残のような郷愁きょうしゅうは、真昼の星のように消えていた。

「カレーの話で思い出したけど、パスタメニューも決めるのに苦労したんだ。ナポリタン派のあたしと、カルボナーラ派の元旦那で、どっちをメニューに入れたいか主張し合って、なかなか決着がつかなくて。やっと決まったと思ったら、今度はオムライスの卵でケチャップライスをどう包むかで、また意見が割れちゃって。きっちり焼いて包むラグビーボール形と、半熟卵でドレープを作ってかぶせる形で、互いにそれぞれ作り合って、食べさせて……あたしもこだわりが強いけど、あの人も負けてなかったな。かなり大変だったけど、メニューが全て決まったときは、嬉しかったなぁ」

 料理をお盆に載せて、ダイニングテーブルまで戻ってきた翠子の声は、懐かしそうにはずんでいる。過去を振り返るソプラノに、果澄は相槌も打てずに聞き入った。

 ――翠子の元旦那は、どんな人物だったのだろう。浮気をして、翠子と別れて、喫茶店を残して消えたことしか、昨日までの果澄は知らなかった。だが今は、別れてもなお翠子に、こんなふうに過去を語らせる人物なのだと知ってしまった。夫婦で編み出したメニューなのに、今は一人で作っているバターチキンカレーを見つめていると、食卓に自分の夕食を並べた翠子が、さらりと穏やかな口調で言った。

「でも、あたし自慢のバターチキンカレーは、お店を再開してもしばらくは、提供を休止するかも。まだ迷ってるけどね」

「え?」

「休業中も家賃やちんは発生するから、今のメニューを見直したら、予定より一日でも早く喫茶店を再開したいんだ。接客はアルバイトに任せてきたけど、当面はあたしが厨房、果澄がウェイトレスでいこうと思ってるよ。接客、お願いできる?」

「それは大丈夫だけど、なんでメニューの見直しが必要なのよ?」

「今のままだと、お客さんに迷惑が掛かるから」

 お腹を労わるようにゆっくりと着席した翠子は、経営者の目をしていた。真剣さに気圧された果澄をよそに、破顔した翠子は「いただきます」と唱えてはしを握った。

「メニューの断捨離だんしゃりは寂しいけど、さすがに身重のあたしと、新人の果澄の二人でお店を回すとなると、料理の提供に遅れが出ると思うんだよね」

「それなら、他にも従業員をやとえばいいじゃない」

「いずれはね。そのためにも、まずは果澄と二人の経営体制に慣れなくちゃ」

「でも……って、翠子。どうして、私とあなたと、夕飯の献立こんだてが違うのよ?」

 翠子の夕飯は、ごはんと味噌汁、キノコと小松菜こまつなと豚肉のいためもの、冷奴ひややっこだ。きょとんとした翠子は、合点がてんがいった様子で「ああ」と答えた。

「あたしはカレーを昨日食べたし、つわりが落ち着いて食べ過ぎてたから、塩分控えめの献立にしたの。妊娠中は、摂取に注意が必要なスパイスがあったり、逆に摂取したほうがいい栄養素があったりして、食生活が変わったから」

「あ……」

 説明を聞いた果澄は、ひそかなショックを受けた。妊娠も、出産も、自分にとってはまだ他人事で、今の翠子に必要な配慮はいりょについては、手土産のゼリーを選ぶときに調べた程度だ。必要に迫られていなければ、知識を得ようとはしなかった。

 茫然ぼうぜんとしながらカレーをスプーンで掬っていると、味噌汁を飲んでいた翠子が、おもむろに顔を上げて「あ!」と叫んだ。びっくりした果澄が目を瞬くと、とびきり眩しい笑顔をかせて、果澄のスプーンを指さしてくる。

「当たり! おめでとう!」

「当たり? ……あっ」

 言葉の意味は、口に運ぼうとしていたスプーンを見下ろした瞬間に、理解した。優しい辛さのカレーの中に、星形のニンジンが紛れ込んでいる。翠子が『当たり』だと言ったニンジンは、やがて訪れる夕闇を照らす一番星のように、燦然さんぜんと輝いて見えた。

「お店のバターチキンカレーの鍋にも、星を少しだけ入れてるんだよ。当たりを引いたお客さんが笑ってくれると、あたしも嬉しくなるんだ」

 翠子は、得意げに胸を張っている。言葉通り嬉しそうな顔を見ていると、なんだか落ち込んでいるのが馬鹿らしくなり、果澄は苦笑しながら確認した。

「カレーに当たりを入れる提案をしたのは、旦那さんじゃなくて、翠子なんでしょ」

「そうだよ。なんで分かったの?」

 それくらい、簡単に分かる。翠子の元旦那のことは、まだまだ分からないことが多くても、果澄の新しい雇用主は、料理で人の気持ちを明るくすることが大好きなのだということなら、夫婦で築き上げてきたという『波打ち際』のメニューが教えてくれた。

 ――このカレーの星だって、果澄の皿に偶然入ったわけではなく、翠子が入れてくれたに決まっている。必然の『当たり』を咀嚼そしゃくすると、よく煮込まれたニンジンの素朴そぼくな甘みが、舌にじんわりと拡がった。自然と頬が緩んだが、このカレーが『波打ち際』から消えるということは、当然、この星も消えることになる。

「果澄には、うちのメニューを引き続き食べてほしいし、接客も覚えてもらうから、これからもうちに通ってもらえるかな。もちろん、交通費は出すから」

「え……お金のことは、今はいいわよ。ご馳走になってばかりだし」

「遠慮しないでよ、仕事の一環いっかんで来てもらってるんだからさ。果澄は、いつも電車で来てくれてるんだよね。毎回だと、負担じゃない?」

「別に、そこは負担じゃないけど……」

 否定したものの、実は少し図星だった。アパートから電車で数駅の距離はさほど気にならないが、駅から『波打ち際』までは距離があるので、炎天下えんてんかを歩き続けることに関しては、若干の苦労を感じている。

 果澄のとっさの誤魔化しは、やはり翠子に気取られているようだ。箸を止めた翠子は「うーん」とうなると、やがて名案を思いついたと言わんばかりに、ぱっと顔をほころばせて、軽く身を乗り出してきた。

「そうだ、果澄。ここに住む?」

「……は?」

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