episode2 無敵の主役を励ますホットココア

第2話

 午後五時半の駅前は、仕事を終えたサラリーマンやOLたちで賑わっていた。

 三日前までは、果澄かすみも彼らの一員だったが、今は違う。オフィス街の雑踏ざっとうから離れるうちに、西日の斜光を透かせた街路樹からは、せみの鳴き声が聞こえてくる。車道に沿って閑静かんせいな歩道を進むと、二階建ての店舗が連なった区画に到着した。

 ――『ここの並びのお店は、みんな一階が店舗で二階が住居だから』

 先日、十三年ぶりに再会した人物から聞かされた情報を思い出す。眼前に拡がる建物群は、一階のデザインに差異さいはあれど、クリーム色の外壁がいへきと二階の造りは皆同じだ。各店舗の真上に位置するバルコニーで、朝顔やクレマチスが咲いている。

 仇敵きゅうてきとも呼べる人物は、あのときから果澄を自分のテリトリーに引き込む気でいたのだろうか。仏頂面をこしらえた果澄は、一列に並んだ店舗の前を、一軒ずつ通り過ぎる。パン屋、花屋、ケーキ屋、美容院――そして、目的地に到着した。

 木製扉にまった青い窓ガラスには、くだいた貝殻をチョーク代わりに引いたような筆致ひっちで『波打ち際』と書かれている。海への入り口のような扉には、一時休業の張り紙が出たままだ。果澄が日傘をたたんでいると、横合いから「果澄!」と呼び声が聞こえた。

 振り向くと、茶髪の男が走ってくる。眉間みけんしわを深めた果澄は、三日前までは婚約者だった男の名を呼んだ。

達也たつや……」

「えっと、こんな所で会うなんて奇遇きぐうだな?」

「今日は、ちゃんとスーツを着てるのね」

「え? ああ、だって仕事帰りだから……」

 達也は、青い顔に引きり笑いを浮かべている。先日は寝癖ねぐせが目立った頭髪も、今日は整えられていた。改めて向き合うと美男びなんだが、果澄は二度とだまされない。こちらも対抗して笑みを作ると、仁王立におうだちで腕組みをした。

「私を、待ち伏せしてたわけじゃないでしょうね?」

「し、してないよ! スマホは果澄に着信拒否されたし、家に押しかけても迷惑だろうし、それならせめて、果澄と最後に会った喫茶店に行けば、また会えるかもしれないなぁーって考えて、仕事帰りに寄ったりなんて、俺は全然してないって!」

「それを待ち伏せって言うのよ!」

 笑みを消して吠えると、達也も引き攣り笑いを引っ込めて「ごめん!」と叫んで手を合わせた。それから「でも、俺にチャンスをくれないか?」とささいて、捨てられた仔犬こいぬのようにつぶらな瞳で、果澄をじっと見下ろしてくる。

「果澄と別れてから、果澄が仕事の昼休みに行ってたカフェも、退勤後に通ってた本屋にも行ったけど、会えなかったからさ……また会えて、すげえ嬉しいんだよ」

 ――そんな、調子のいいことを言われても。そう悪態あくたいきたいのに、不覚ふかくにも心がぐらついた。ほだされたすきをつくように、達也が甘い声で畳みかけてくる。

「果澄は、いつも美味うまめしを作って待ってくれて、俺にくしてくれたじゃん。俺の本命は果澄だって、言っただろ? 本気じゃない女に、婚約指輪をおくったりしないって」

 ――そうかもしれない。だから、果澄も信じたのだ。だが、結果として裏切られた純情が、ズタズタに傷つけられたプライドが、ここで達也になびく自分を許せない。もう心の揺らぎを見せないように、無理やり低い声を作って、うそぶいた。

「……私と会えないのは、当然でしょ。仕事を辞めたら、そのカフェと本屋がある駅には、これからも出掛ける予定はないんだから」

「これからも、って……果澄、復職ふくしょくしないのか? まさか、しばらく無職?」

 さらっと告げられた台詞せりふが、怒りの導火線どうかせんに火をつけた。ただでさえ婚約解消の一件でいたんでいた堪忍袋かんにんぶくろが切れて、開き直った果澄は気炎きえんく。

「してないわよっ、しばらく無職よ! 悪い!?」

 元職場の同僚たちの顔が、電光石火で脳裏を駆け巡る。どのつら下げて帰ってきたのかと、そしられるならまだマシだ。れ物に触るような扱いを受けて、自業自得の針のむしろで過ごす未来は、火を見るよりも明らかだ。だが、復職しない理由は別にあることを、果澄は苦々しい気持ちで認めている。

「元職場には、戻らないって決めてるの」

「……俺の所為、だよな」

「別に、達也の所為じゃない」

 否定すると、達也は驚き顔になった。顔をそむけた果澄は、早々に会話を切り上げる。

「次に待ち伏せしたら、警察を呼ぶから。……今のアパートも引っ越すけど、新しい住所は教えないからね」

 もの言いたげな目をした達也は、しゅんと肩を落として去っていった。悄然しょうぜんと歩く後ろ姿を見送るうちに、果澄の胸が痛んできた。きつく言い過ぎたかもしれない。いや、交際中に何股を掛けていたのかすら不明な男に、情けは無用なのだろうか。煩悶はんもんしていると、頭上からソプラノの声が舞い降りた。

「果澄って、情に厚いよね。一度でもふところに入れた人のことを、無下むげにできないでしょ」

「なっ……鮎川あゆかわさん!」

翠子みどりこ、でしょ? そろそろ慣れてほしいな」

 目的地の二階のバルコニーに、一人の妊婦が立っていた。団子に結った茶髪の後れ毛が、夕方の甘い風に靡いている。占い師のような物言いは、果澄の初恋を壊した中学生時代の再現のようで、心の古傷がうずいたが、鮎川翠子はどこ吹く風で、バルコニーの柵に婀娜あだっぽくしなだれかかり、それでいて無垢むくに小首をかしげてきた。

甲斐かい達也と、よりを戻すの?」

「も、戻さないわよ。そんなことより……翠子。仕事の話を聞かせて」

 翠子から連絡を受けたのは、今朝のことだ。達也と別れてから、日々の自炊じすいと掃除を放棄ほうきして、ピンク色のカーテンを閉め切った部屋にこもっていた果澄は、スマホのメッセージアプリを確認するまで、翠子に連絡先を交換させられたことを忘れていた。

 ――『今日、予定は空いてる? あたしの家で、今後の仕事の話をしたいんだ』

 果澄には、予定も拒否権もなかった。翠子は果澄の雇用主こようぬしであり、喫茶店の休業が続く限り、果澄の立場は無職で独身のアラサーだ。

 それに――果澄の頭の中では、翠子に言われた『あたしにしなよ』という台詞が、あの日のライムジュースでまわる氷のように渦巻うずまいて、まともに思考が働かなかった。頬の赤さを夕日の所為にしていると、翠子は屈託くったくなく笑ってきた。

「うん。でも、仕事の話は、また今度にしよっか」

「……えっ?」

 耳を疑った。唖然とする果澄に、翠子は「代わりに今日は、お茶しない? そっちに行くね」と言って、バルコニーを後にした。窓の向こうに消える後ろ姿は、お伽噺とぎばなしのプリンセスのようにはなやかだ。やがて目の前の扉が開き、身重みおもの同級生が現れた。

「お待たせ。今日は、来てくれてありがとね」

「それより、仕事の話は? なんでやめるのよ?」

「んー、あたしに必要だった休業期間が、果澄にも必要かなって思ったから?」

「それって……」

 ――果澄を、いたわってくれている? 意外な優しさに驚いていると、翠子に「さ、入って」と促された。からん、からんとベルが鳴り、果澄を迎え入れた夕暮れ時の喫茶店は、テーブル席を照らすだいだいの斜光と、厨房にわだかまる薄紫色の影の境目さかいめがおぼろげで、三日前にも感じた安らぎが満ちていた。エアコンを点けた翠子に「ホットココアでいい?」と訊かれたから、果澄はきょとんとしてしまった。

「夏なのに……ホット?」

「うん。暑い夏にはアイスココアのイメージがあるかもしれないけど、あたしはホットのほうがおすすめ。熱々のココアって、なんだか特別って感じがしない?」

 厨房と店内を仕切るスイングドアを通った翠子は、果澄に「座って」と言って笑いかけた。思いのほか疲れていた果澄は、陽光を赤々と反射するペンダントライトが並んだカウンター席に腰を下ろす。甘いソプラノが、耳朶じだを打った。

「ココアって、手抜きでも作れるけど、美味しく作ろうとしたら、手間が掛かるでしょ? お湯でくだけよりも、温めた牛乳とバターで溶いたほうが、深い味わいになるもんね。牛乳を温めると表面にまくもできるから、して取り除くひと手間も掛かるし」

 泡立て機で生クリームを手早く仕上げた翠子は、続いて小鍋にココアパウダーと少量の牛乳を入れて火に掛けた。ゴムベラで丁寧にってから牛乳をぎ足して、砂糖とバターも加えている。魔法のような手際てぎわの良さに見入ってから、アンニュイな気分に任せて「手間を掛けさせて、悪かったわね」と、我ながらうんざりするほど可愛げがない台詞を吐くと、翠子は「そういう意味で言ったんじゃないよ?」と軽やかに言った。

「手間を掛けた一杯を飲むときって、幸せで、わくわくして、今のあたしは最強だなって、無敵むてきの気分にならない? お姫様になったみたい……って表現は、なんか違う気がするけど。うーん、どう言えばぴったりかな」

 お姫様、という台詞から、先ほど二階のバルコニーを見上げたときに、翠子のことをプリンセスのように感じたことを思い出す。ただ、確かに本人が言うように、中学生時代から教室の中心に立っていて、凛とした笑みが眩しくて、自分の意思をハキハキと躊躇ちゅうちょなく口にできた翠子は、プリンセスというよりも――。

「主役?」

「そう、主役!」

 翠子の表情が、今日の茜空よりも明るくなる。夕闇に沈む喫茶店に、星空のようなきらめきがともった気がして、薄雲のように揺蕩たゆた憂鬱ゆううつが吹き払われた。厨房から手を伸ばした翠子が、バーテンダーのようにカップを配膳はいぜんしたから、果澄は目をしばたいた。

「これ、ちょっと盛り過ぎじゃない?」

「疲れてるときには、糖分が欲しくなるでしょ?」

 カップに注がれたココアの水面は、山盛りの生クリームで見えないうえに、カラフルなチョコスプレーとマシュマロまでトッピングされている。欲しいものを全て手に入れる欲張りな主役に相応ふさわしい、翠子ならではのココアだった。店主に視線で催促さいそくされた果澄は、呆れつつも苦笑がこぼれて、スプーンで生クリームとココアをすくった。

「いただきます」

 力強い糖分が、疲れた心にみ渡る。なんだか肩の力が抜けたとき、果澄の隣に翠子が座った。ココアではなく冷たい水を飲みながら、「ねえ、果澄」と訊いてくる。

「甲斐達也のこと、なんで責めなかったの? さっき外で、無職って言われてたでしょ」

「……盗み聞きしてたくせに、何を言ってるの? 文句なら、伝えたわよ」

「ううん、伝えてないよ。言ってやればよかったのに、なんで言わなかったの? ――『私が仕事を辞めたのは、あんたの所為だ』って」

「それは、筋違すじちがいよ」

 果澄は、ココアのカップをソーサーに置いた。

「仕事を辞めたきっかけは達也でも、寿ことぶき退社は私の意思よ。結果に納得できないからって、責任転嫁をするような、プライドのない人間にはなりたくない。……何よ、悪い?」

 瞠目どうもくしていた翠子は、「全然」と答えると、満足そうに微笑んだ。

「果澄のそういうところ、あたし好きだな」

 さらりと『好き』と言われてどぎまぎしたが、翠子はしたり顔で「他の追随ついずいを許さないほど不器用だけど、誰よりも誠実で真面目なところ、本当に尊敬してる」と述べたので、一瞬のときめきは蒸発した。反論が口をいて出かけたが、やはり今日は、文句を言う気力もかなかった。

「……私が本当に主役なら、今、こんなにみじめな気分になってない」

 本当は――達也の浮気を、ずっと前から察していた。二人分の夕食を作って待つ日々が、達也の『急な残業』という理由で激減して、達也のためにそろえた食器や、お菓子作りの調理器具を、使わない日々に慣れたのに、疑惑ぎわくに傷ついた自分の存在を認めずに、達也の本心を確かめることから逃げていた。今の果澄の姿は、かがやかしい主役には程遠い。

「こんなふうになる前に、達也と話し合えばよかった」

「今からでも、話し合えば? それで果澄の気が済むなら」

「そんなこと、できるわけないでしょ」

 悲鳴のような声が出てしまった。真の主役に相応しい美女をにらみつけて、しかし睨み続けることはできなくて、ココアに視線を落とした果澄は、一世一代の弱音を吐く。

「私は……翠子みたいには、生きられないんだから。誰かと、本音でぶつかり合うなんて……怖くて、できない」

 すると、翠子は心底不思議そうな顔をした。再会した三日前に、果澄のことを『謎の女の子』だと言い切ったときのように、続いた言葉にも迷いはない。

「それは、違うんじゃない?」

「? どうして?」

「だって果澄、あたしの前では、ずっと本音で喋ってるじゃん。中三の学園祭で、レモンスカッシュを断ったときも。三日前に、あたしと勝負をしたときも。今だって。全部、嘘じゃなくて本当の言葉でしょ?」

 果澄は、目を見開いた。赤い斜光が、宝石のように輝いて見える。

 ――翠子の、言う通りだ。言われて初めて、自覚した。でも、どうして翠子には言えたのだろう? 達也の件で、心が弱っていたから? だが、大嫌いなはずの相手には、おのれの弱みなんて、死んでも見せたくないはずだ。では、翠子に大嫌いだと伝えようと、十三年前から意気込んでいたから? 混乱する果澄の隣で、ふわりと笑った翠子は、水のグラスを持ち上げて、果澄のココアのカップに、コツンとぶつけた。

「果澄は、誰かと本音でぶつかり合う力を持ってる、無敵の主役だよ」

 ささやかな乾杯の残響ざんきょうが、目頭めがしらに不意打ちの熱を連れてくる。慌てた果澄は、まぶたの辺りに力を込めて、ココアに口をつけた。生クリームとマシュマロを溶かした熱と、濃厚のうこうな味わいに甘やかされて、アルコールは摂取せっしゅしていないのに、酩酊感めいていかんでくらくらする。

「泣いてもいいんだよ?」

「絶対に、泣かないっ」

 そう言い返してから、ばつが悪くなり、ぼそりと小声で付け足した。

「……。今日は、ごめん。ありがとう」

「こちらこそ」

 快活かいかつに答えた翠子の声を聞きながら、果澄はココアを見下ろして考える。

 達也にはさらけ出せなかった本心を、どうして翠子には曝け出せたのか。その謎に向き合うことに精一杯で、今日も大嫌いと伝えるどころではなかった。とにかく、帰宅したら荒れた部屋を掃除しようと決めて、ひとまず思考を放棄ほうきした。

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