episode2 無敵の主役を励ますホットココア
第2話
午後五時半の駅前は、仕事を終えたサラリーマンやOLたちで賑わっていた。
三日前までは、
――『ここの並びのお店は、みんな一階が店舗で二階が住居だから』
先日、十三年ぶりに再会した人物から聞かされた情報を思い出す。眼前に拡がる建物群は、一階のデザインに
木製扉に
振り向くと、茶髪の男が走ってくる。
「
「えっと、こんな所で会うなんて
「今日は、ちゃんとスーツを着てるのね」
「え? ああ、だって仕事帰りだから……」
達也は、青い顔に引き
「私を、待ち伏せしてたわけじゃないでしょうね?」
「し、してないよ! スマホは果澄に着信拒否されたし、家に押しかけても迷惑だろうし、それならせめて、果澄と最後に会った喫茶店に行けば、また会えるかもしれないなぁーって考えて、仕事帰りに寄ったりなんて、俺は全然してないって!」
「それを待ち伏せって言うのよ!」
笑みを消して吠えると、達也も引き攣り笑いを引っ込めて「ごめん!」と叫んで手を合わせた。それから「でも、俺にチャンスをくれないか?」と
「果澄と別れてから、果澄が仕事の昼休みに行ってたカフェも、退勤後に通ってた本屋にも行ったけど、会えなかったからさ……また会えて、すげえ嬉しいんだよ」
――そんな、調子のいいことを言われても。そう
「果澄は、いつも
――そうかもしれない。だから、果澄も信じたのだ。だが、結果として裏切られた純情が、ズタズタに傷つけられたプライドが、ここで達也に
「……私と会えないのは、当然でしょ。仕事を辞めたら、そのカフェと本屋がある駅には、これからも出掛ける予定はないんだから」
「これからも、って……果澄、
さらっと告げられた
「してないわよっ、しばらく無職よ! 悪い!?」
元職場の同僚たちの顔が、電光石火で脳裏を駆け巡る。どの
「元職場には、戻らないって決めてるの」
「……俺の所為、だよな」
「別に、達也の所為じゃない」
否定すると、達也は驚き顔になった。顔を
「次に待ち伏せしたら、警察を呼ぶから。……今のアパートも引っ越すけど、新しい住所は教えないからね」
もの言いたげな目をした達也は、しゅんと肩を落として去っていった。
「果澄って、情に厚いよね。一度でも
「なっ……
「
目的地の二階のバルコニーに、一人の妊婦が立っていた。団子に結った茶髪の後れ毛が、夕方の甘い風に靡いている。占い師のような物言いは、果澄の初恋を壊した中学生時代の再現のようで、心の古傷が
「
「も、戻さないわよ。そんなことより……翠子。仕事の話を聞かせて」
翠子から連絡を受けたのは、今朝のことだ。達也と別れてから、日々の
――『今日、予定は空いてる? あたしの家で、今後の仕事の話をしたいんだ』
果澄には、予定も拒否権もなかった。翠子は果澄の
それに――果澄の頭の中では、翠子に言われた『あたしにしなよ』という台詞が、あの日のライムジュースで
「うん。でも、仕事の話は、また今度にしよっか」
「……えっ?」
耳を疑った。唖然とする果澄に、翠子は「代わりに今日は、お茶しない? そっちに行くね」と言って、バルコニーを後にした。窓の向こうに消える後ろ姿は、お
「お待たせ。今日は、来てくれてありがとね」
「それより、仕事の話は? なんでやめるのよ?」
「んー、あたしに必要だった休業期間が、果澄にも必要かなって思ったから?」
「それって……」
――果澄を、
「夏なのに……ホット?」
「うん。暑い夏にはアイスココアのイメージがあるかもしれないけど、あたしはホットのほうがおすすめ。熱々のココアって、なんだか特別って感じがしない?」
厨房と店内を仕切るスイングドアを通った翠子は、果澄に「座って」と言って笑いかけた。思いのほか疲れていた果澄は、陽光を赤々と反射するペンダントライトが並んだカウンター席に腰を下ろす。甘いソプラノが、
「ココアって、手抜きでも作れるけど、美味しく作ろうとしたら、手間が掛かるでしょ? お湯で
泡立て機で生クリームを手早く仕上げた翠子は、続いて小鍋にココアパウダーと少量の牛乳を入れて火に掛けた。ゴムベラで丁寧に
「手間を掛けた一杯を飲むときって、幸せで、わくわくして、今のあたしは最強だなって、
お姫様、という台詞から、先ほど二階のバルコニーを見上げたときに、翠子のことをプリンセスのように感じたことを思い出す。ただ、確かに本人が言うように、中学生時代から教室の中心に立っていて、凛とした笑みが眩しくて、自分の意思をハキハキと
「主役?」
「そう、主役!」
翠子の表情が、今日の茜空よりも明るくなる。夕闇に沈む喫茶店に、星空のような
「これ、ちょっと盛り過ぎじゃない?」
「疲れてるときには、糖分が欲しくなるでしょ?」
カップに注がれたココアの水面は、山盛りの生クリームで見えないうえに、カラフルなチョコスプレーとマシュマロまでトッピングされている。欲しいものを全て手に入れる欲張りな主役に
「いただきます」
力強い糖分が、疲れた心に
「甲斐達也のこと、なんで責めなかったの? さっき外で、無職って言われてたでしょ」
「……盗み聞きしてたくせに、何を言ってるの? 文句なら、伝えたわよ」
「ううん、伝えてないよ。言ってやればよかったのに、なんで言わなかったの? ――『私が仕事を辞めたのは、あんたの所為だ』って」
「それは、
果澄は、ココアのカップをソーサーに置いた。
「仕事を辞めたきっかけは達也でも、
「果澄のそういうところ、あたし好きだな」
さらりと『好き』と言われてどぎまぎしたが、翠子はしたり顔で「他の
「……私が本当に主役なら、今、こんなに
本当は――達也の浮気を、ずっと前から察していた。二人分の夕食を作って待つ日々が、達也の『急な残業』という理由で激減して、達也のために
「こんなふうになる前に、達也と話し合えばよかった」
「今からでも、話し合えば? それで果澄の気が済むなら」
「そんなこと、できるわけないでしょ」
悲鳴のような声が出てしまった。真の主役に相応しい美女を
「私は……翠子みたいには、生きられないんだから。誰かと、本音でぶつかり合うなんて……怖くて、できない」
すると、翠子は心底不思議そうな顔をした。再会した三日前に、果澄のことを『謎の女の子』だと言い切ったときのように、続いた言葉にも迷いはない。
「それは、違うんじゃない?」
「? どうして?」
「だって果澄、あたしの前では、ずっと本音で喋ってるじゃん。中三の学園祭で、レモンスカッシュを断ったときも。三日前に、あたしと勝負をしたときも。今だって。全部、嘘じゃなくて本当の言葉でしょ?」
果澄は、目を見開いた。赤い斜光が、宝石のように輝いて見える。
――翠子の、言う通りだ。言われて初めて、自覚した。でも、どうして翠子には言えたのだろう? 達也の件で、心が弱っていたから? だが、大嫌いなはずの相手には、
「果澄は、誰かと本音でぶつかり合う力を持ってる、無敵の主役だよ」
ささやかな乾杯の
「泣いてもいいんだよ?」
「絶対に、泣かないっ」
そう言い返してから、ばつが悪くなり、ぼそりと小声で付け足した。
「……。今日は、ごめん。ありがとう」
「こちらこそ」
達也には
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