スイート・ライムジュース 無敵の再会ごはん
一初ゆずこ
episode1 大嫌いなあなたが覚えていたスイート・ライムジュース
第1話
再会の
「
ビルが
とうとう、この日を
「やっぱり。果澄だ」
十三年ぶりに出会った翠子は、茶髪をざっくりと一つに束ねていて、
*
「中学生に戻ったみたいじゃない? 昔のクラスメイトとこんなふうに、昼間から歩いてたら」
翠子は上機嫌で、鼻歌でも歌い出しそうだ。
「あれ、機嫌悪い? なんで?」
「なんでって……」
さして仲良くもない相手と、昼間から一緒に歩いているからだ。そう言ってやりたい衝動に
「急いでるとか? そういえば、今日は仕事じゃないの?」
「仕事は、先週
「結婚したんだ」
「ううん、まだ婚約中」
本来なら、今日が結婚式場の下見の予定だったのだ。半年前から望んでいた予定だった。だが、達也は仕事が
「ふうん。仕事、辞めたんだ」
「三時に彼と待ち合わせてるから、用事は早めに済ませて。一生のお願いって何?」
「了解。それは、あとで話すよ。果澄の彼氏、私も見たいな」
「見てどうするのよ」
「どういう男か知りたいじゃん。果澄を
「やめてよ。絶対に会わせないから」
「うん、懐かしいね。二十八歳になっても、やっぱり果澄だ」
悪びれずに言われてしまい、果澄の胸に
――『果澄の好きな人、あたし知ってるよ』
心臓がでんぐり返りをしたかと思うほど、その指摘が果澄に与えた衝撃は大きかった。学校社会という
――『あいつはやめときなよ。ろくでなしだよ。果澄って趣味が悪いよ』
極めつけに、果澄の初恋相手と翠子は、その翌日から付き合い出した。スピード
「到着。ここに来てほしかったの」
連れてこられた場所は、小さな喫茶店だろうか。木製扉に
「
「そ。パートナーがいなくなったからね」
「え?」
「パートナーがいなくなったって、どういうこと?」
「まあまあ、立ち話もなんだから、入ってよ」
扉を開けた翠子に
「パートナーがいたときは、夜にショットバーもやってたけど、あたし一人じゃ手が回らないし。そっちはもうやめるつもり」
「……ここ、鮎川さんのお店なんだ」
素直に感心した果澄が
「翠子って呼んでよ。中学時代もそう言ったのに、果澄は変わらないね」
「全ての人が、あなたほど気安いって思わないで」
やっと反撃ができたと
「果澄だって、もうすぐ乙井果澄じゃなくなる予定でしょ? いつか変わっちゃうかもしれない名前よりも、永遠に変わらない名前で呼んでよ」
一本取られた果澄は、もう一度反論すべく口を開け閉めしたが、
「一生のお願いって何? ネズミ
「やだなあ、そんなわけないじゃん。さ、座って」
能天気に笑った翠子は、テーブル席を勧めてきた。ぶすったれた果澄が従うと、椅子はふかふかで座り心地がよかった。その間に翠子が、グラスに注いだ水を百点満点の営業スマイルで運んできて、果澄の向かいの椅子にゆっくりと座った。腹の膨らみをひと撫でする仕草から、翠子は妊婦なのだという現実を、果澄はようやく実感した。
「単刀直入に、一生のお願いをしたいけど、その前に」
翠子は、真剣な面持ちになった。
「果澄は、結婚しても地元にいる? 遠くに引っ越したりしない?」
「引っ越しても、市内の予定だけど」
伝わってくる熱意に
「決めてない。いずれは
こちらの身の振り方が、翠子に何の関係があるのだ。そう文句をつける前に「よかったぁ!」と両手を合わせて喜ばれたので、果澄はぽかんとしてしまった。
「果澄。一生のお願いです」
「な、何」
「あたしの喫茶店を、手伝ってください!」
しばらくの間、果澄は絶句した。やがて我に返り「待った!」と慌てて絶叫した。
「ここで働けってことっ? 鮎川さんとは再会したばかりなのに、どうして急にそうなるの!」
「鮎川じゃなくて翠子。一人だと厳しいから、新しいパートナーが欲しいわけ。そして、あたしは思ったの。その相手は、果澄しかいないって!」
「み、翠子なら、私より頼りになる友達が、いくらでもいるじゃない!」
中学生時代の翠子は、果澄にとってはデリカシーが壊滅的に欠けた少女だが、強烈な個性と明るさが、人を惹きつけることは認めている。翠子はクラスメイトたちから愛されていて、人望も人脈も思いのままのはずなのだ。
「友達なら、確かにたくさんいる。でも、あたしは果澄がいい」
翠子は、
「どうしてあたしが、果澄のことをこんなに覚えてると思う? 果澄は、あたしにとって謎の女の子だからだよ」
「
「極上の誉め言葉。昔ってみんな、多かれ少なかれギスギスしてたでしょ? 腹の探り合いばっかりで。そういうのって、結構見えちゃうよね。A子はB子と仲がいいけど、裏では
意外にも真面目な方向へ話が及び、どきりとした。悩みとは無縁に見える翠子だが、果澄が考えているよりは、人を見る目が鋭いのかもしれない。
「だけど、果澄は違った。あの頃のあたしには、果澄のことだけは分からなかった。あたしのことを嫌いって思ってるのは分かるけど、どうすれば好きになってもらえるのかは分からない。果澄は、あたしにとって唯一思い通りにならない子で、謎めいた子だったわけ。だから!」
翠子は、ずいと身を乗り出してきた。
「強烈に惹かれたの。男子とも付き合ったし、結婚もしたし、今まさに身ごもってるけど、あれほど誰かに執着したのは初めて。あたしの人生で果澄だけなの」
頬が
「果澄ほど向こう見ずな
「帰る」
「え、どうして?」
「あなたのそういう、自分には誰かを
「そんなことない。
「それで
「こんなに
「
果澄は、バッグを手に席を立った。座ったままの翠子を残して、扉を目指す。
「旦那とは、別れたばかり。パートナーはいなくなったって言ったでしょ? 前は
ぴたりと、果澄は足を止めた。こちらを見上げた翠子は、肩を
「ショットバーは、旦那ひとりで回してたんだけど、そこで浮気されちゃった。許してもよかったけど、許さない選択をしてみました。
「他の選択は、できなかったの?」
つらい思いをしたはずなのに、なぜ翠子は強く笑えるのだろう。
「さあね。結婚するくらいには好きだったけど、紙切れ一枚で他人に戻れる存在だしね」
翠子はあっけらかんと言ってから「だけど、お店とこの子は大事にしたい。好きな人とお店を構えることも、一緒に子どもを育てることも、夢だったから」と付け足して、命が宿っている腹を、もう一度愛おしそうに撫でた。
「……冗談じゃない」
「……翠子。
翠子の目が、見開かれた。好奇心に駆られた猫に似た
「彼氏と会わせてくれる気になったの?」
「達也は関係ない。翠子、彼氏がここに来るまでの制限時間二十分で、私が注文したものを美味しく提供できたら、喫茶店の話、引き受ける。……扶養の範囲内でならね」
「その勝負、乗った!」
浮かれた声の翠子は、もう勝利を確信しているようだ。果澄は、大いにたじろいだ。
「ま、まだ引き受けたわけじゃないからね」
「分かってるって。ご注文は何になさいますか、お客様。休業中だから、材料がないものは提供できないけどね」
翠子は、果澄にメニューを差し出した。受け取った果澄は、椅子に座り直し、内容に視線を走らせる。ランチメニューは見なかった。タイムリミットが短い以上、調理に時間が掛かるものを頼むのはフェアではない。悩むうちに、ドリンクメニューの絵に目が留まった。しゅわしゅわと泡立つ炭酸水に、ライムの輪切りが添えてある。ほんのりグリーンがかった飲み物は、刺激が舌に痛そうで、いかにも甘味が少なそうだ。注文を決めた果澄は、顔を上げた。
「ライムジュースで。一応訊くけど、市販のジュースを注いで終わりじゃないよね?」
「まさか。ちょっと待ってて。ライムなら用意があるから」
考える素振りを見せた翠子は、小さく笑ってから厨房へ向かった。意味ありげな笑みが気になったが、果澄はその間に急いで達也にメールを打った。ここまでの道順を送り終えて息をつくと、
そもそも果澄は大の甘党で、炭酸飲料や酸っぱいものは好きではない。だからこそライムジュースを選んだのだ。嫌いな飲み物のほうが、罪悪感が少しでも軽く、そしてケチをつけやすい。
「お待たせいたしました。ライムジュースです」
果澄は、目を
「これ、ライムジュース?」
想定していたものと、全く違うものが出てきた。翠子は、果澄の反応が嬉しいようで、向かいの席に座って「飲んでみて」と
「甘い」
「果澄、炭酸は好きじゃないでしょ。酸っぱいのも」
びっくりした果澄が顔を上げると、翠子は得意げに種明かしをしてくれた。
「中三の学園祭の打ち上げで、みんなに飲み物を配ったのを覚えてない? 果澄にレモンスカッシュを渡そうとしたら、断られた。炭酸も酸っぱいものも苦手だから、って」
「覚えてくれてたの?」
「もちろん。だから、ジュースをソーダで割るのはやめて紅茶にして、ライムも香りづけをメインに使って、シロップで甘くしたの。どう?」
太陽のように
「メニューと違うものを出すなんて、
「嫌々飲まれるより、笑顔で飲んでほしいじゃん。そういうお店だよ、ここは」
「……不本意だけど、勝負は私の負け。約束だから、手伝ってあげる」
「本当に?」
ぱっと翠子の顔が明るくなる。清々しい笑みを見ていると、今まで手放せなかった
からん、からん――グラスで
「果澄、急に待ち合わせ場所を変えるなんて、どうしたんだよ。道に迷っただろ」
走ってきたのだろうか、どことなく焦った顔で訴える達也の茶髪には
「達也、その格好で仕事に行ったの? 普段はスーツなのに」
「え、ああ、ほら、元々は有休だったし。いいんだよ、今日は」
達也は、あたふたと言い訳した。言い訳だと
「
ぎょっとしたのは、果澄だけでなく達也もだったに違いない。目を真ん丸に見開いている。翠子は呆れ顔で、
「あたしの友達のミサと、今も付き合ってるよね。三股を掛けられてるかもって聞いてるけど、今は何股? それとも、 結婚を目前にして、あっちこっちで修羅場中?」
さすが、人望も人脈も思いのままの翠子だった。言葉のジャブは炭酸水より刺激的で、シロップ抜きで暴力的だ。達也の顔が、青くなる。対して果澄は、赤く変わったと自覚した。
「だから、結婚式場、決めようとしなかったの? 私は、遊び?」
「いや、違うんだ。お、俺の本命は果澄だからっ。ほら、お前も俺がいなきゃ困るだろ?」
「ふざけないで! 婚約解消よ!」
今日を最後に外してしまう婚約指輪をメリケンサック代わりにして、果澄が
「そんなろくでなし、やめて正解だよ。中三の時だって、ちゃんと警告したのに聞かないから、あたしが果澄から取り上げたんだよ?」
不意にひやりとして、果澄は
それでは、果澄の初恋が無残に終わったのは。いや、そんなことよりも、向こう見ずな
「果澄って趣味が悪いよ」
溶けた氷が、グラスの底へ、甘いライムジュースの底へ
「あたしにしなよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます