スイート・ライムジュース

一初ゆずこ

スイート・ライムジュース

 再会のあかつきには、大嫌いだと伝える予定だった。

果澄かすみ?」

 ビルが林立りんりつする駅前で、甘いソプラノがエコーする。呼び止められた乙井果澄おといかすみは、日傘の青い影の中で、苦い予感を胸に立ち止まった。声のぬしは、鮎川翠子あゆかわみどりこに違いなかった。

 とうとう、この日をむかえてしまった。夢にまで見たほどだ。十三年前の翠子の、不遜ふそん不躾ぶしつけな振る舞いは、それほどに忘れ難いのだ。果澄は、伸ばした髪と桃色のロングスカートをひるがえして、いさんで振り向いたが――相手を一目ひとめ見るなり唖然あぜんとして、鬱憤うっぷんを晴らす機会をのがしてしまった。

「やっぱり。果澄だ」

 十三年ぶりに出会った翠子は、茶髪をざっくりと一つに束ねていて、たけの長い瑠璃るり色のワンピース姿で――大きくふくらんだお腹から、果澄は目が離せなかった。


     *


「中学生に戻ったみたいじゃない? 昔のクラスメイトとこんなふうに、昼間から歩いてたら」

 翠子は上機嫌で、鼻歌でも歌い出しそうだ。身重みおもの同級生の斜め後ろを歩いた果澄は、「そうかもね」と気のない返事で対応した。駅から少し離れた歩道は、街路樹の緑が瑞々みずみずしく、せみがそこかしこで鳴いている。

「あれ、機嫌悪い? なんで?」

「なんでって……」

 さして仲良くもない相手と、昼間から一緒に歩いているからだ。そう言ってやりたい衝動にられたが、相手が中学生の頃のようにキラキラと楽しげに振り向くので、口にするのははばかられた。髪を耳にかけて居心地の悪さを誤魔化すと、翠子が不思議そうに訊ねてきた。

「急いでるとか? そういえば、今日は仕事じゃないの?」

「仕事は、先週めた。用事はあるけど、時間はまだ大丈夫」

 渋々しぶしぶ答えたつもりだが、気分が少しだけ高揚こうようした。果澄が左手をかかげると、達也たつやから与えられたかがやきは、降り注ぐ夏の日差しを反射して、往来おうらいに虹色のシャワーを投げかけた。翠子が「へえ」と声を上げて、目をみはった。

「結婚したんだ」

「ううん、まだ婚約中」

 本来なら、今日が結婚式場の下見の予定だったのだ。半年前から望んでいた予定だった。だが、達也は仕事が途轍とてつもなく忙しいらしく、予定は未定のままだった。ごうやした果澄が仕事を辞めると、泡を食った達也も有休を取って、重い腰を上げてくれたが、結局は翠子と出会う数分前に『ごめん、仕事が入った。埋め合わせはするから』と弱り切った声の電話が入った。土壇場どたんばで約束を反故ほごにされることには慣れているが、今回ばかりは納得できないので、これから少しだけ時間を作るという達也と落ち合い、今後を話し合うつもりだ。

「ふうん。仕事、辞めたんだ」

 神妙しんみょううなずく翠子の瞳で、意味深な光が揺れた気がする。恋人に結婚を急かす果澄にあきれたのだろうか。ばつが悪くなったので、殊更ことさらぶっきらぼうに言った。

「三時に彼と待ち合わせてるから、用事は早めに済ませて。一生のお願いって何?」

「了解。それは、あとで話すよ。果澄の彼氏、私も見たいな」

「見てどうするのよ」

「どういう男か知りたいじゃん。果澄を射止いとめたのはどんな人かなって」

「やめてよ。絶対に会わせないから」

「うん、懐かしいね。二十八歳になっても、やっぱり果澄だ」

 悪びれずに言われてしまい、果澄の胸にいきどおりがいてきた。

 出鼻でばなくじかれた所為せいで一緒に歩く羽目はめになっているが、果澄は鮎川翠子のことが大嫌いだ。初めての恋が十五歳なら、初めての失恋も十五歳で、これほど嫌いな人間の存在を認めたのもまた十五歳だ。真昼の海色をした制服のスカートが、誰より似合っていた翠子は、昨夜観たドラマの話でもするような気軽さで、あるとき果澄に言ったのだ。

 ――『果澄の好きな人、あたし知ってるよ』

 心臓がでんぐり返りをしたかと思うほど、その指摘が果澄に与えた衝撃は大きかった。学校社会という水槽すいそうで、きらびやかに泳ぎ回る翠子に、いきなり名前で呼ばれたことも驚きだった。しかも翠子は、スナック菓子の限定味が口に合わなかったときの顔で、果澄の初恋を一刀両断したのだった。

 ――『あいつはやめときなよ。ろくでなしだよ。果澄って趣味が悪いよ』

 極めつけに、果澄の初恋相手と翠子は、その翌日から付き合い出した。スピード破局はきょくで一日しか続かなかったとの噂だが、真偽しんぎがどうであれ、果澄にとって散々な初恋だった事実には変わりがない。やっぱり帰ると言いかけたとき、翠子が足を止めた。

「到着。ここに来てほしかったの」

 連れてこられた場所は、小さな喫茶店だろうか。木製扉にまった青い窓ガラスには、くだいた貝殻をチョーク代わりに引いたような筆致ひっちで『波打ち際』と書かれている。海への入り口のような扉が、今は閉ざされていることを、張り紙の文章が教えてくれた。

まことに勝手ながら、七月末まで休業いたします……」

「そ。パートナーがいなくなったからね」

「え?」

 怪訝けげんに思った果澄へ、翠子はうやうやしく一礼して「我が家兼仕事場へ、ようこそ。あ、ここの並びのお店は、みんな一階が店舗で二階が住居だから」と妙に詳しく解説した。不要な情報を無視した果澄は、配慮するのも馬鹿馬鹿しくなり、率直に訊いた。

「パートナーがいなくなったって、どういうこと?」

「まあまあ、立ち話もなんだから、入ってよ」

 扉を開けた翠子にうながされて、果澄は喫茶店に足を踏み入れた。からん、からん、とベルが鳴り、光沢のある焦げ茶色の丸テーブルと、緑青色の布張りにびょうほどこされた椅子と、午後の教室を思わせるほのかに甘い輻射ふくしゃの匂いが、果澄たちを出迎えた。カウンター席とペンダントライトの向こう側に、リキュールや調味料が行儀よく並んでいる。壁の黒板にはドリンクメニューの他に、オムライスやカレーといったフードメニューの絵も描かれていた。二人きりの喫茶店は静かだが、波打ち際の海蛍うみほたるのように日差しがきらめく空間には、不思議なぬくもりが満ちていて、居心地は存外ぞんがいによかった。

「パートナーがいたときは、夜にショットバーもやってたけど、あたし一人じゃ手が回らないし。そっちはもうやめるつもり」

「……ここ、鮎川さんのお店なんだ」

 素直に感心した果澄がつぶやくと、翠子が可笑おかしそうに噴き出した。

「翠子って呼んでよ。中学時代もそう言ったのに、果澄は変わらないね」

「全ての人が、あなたほど気安いって思わないで」

 やっと反撃ができたとえつに入るも束の間、翠子はいっそう愉快げに笑い出した。

「果澄だって、もうすぐ乙井果澄じゃなくなる予定でしょ? いつか変わっちゃうかもしれない名前よりも、永遠に変わらない名前で呼んでよ」

 一本取られた果澄は、もう一度反論すべく口を開け閉めしたが、不承不承ふしょうぶしょう「翠子」と呼んだ。承知しなければ、質問に答えてくれない気がしたからだ。

「一生のお願いって何? ネズミこうとかだったら怒るからね」

「やだなあ、そんなわけないじゃん。さ、座って」

 能天気に笑った翠子は、テーブル席を勧めてきた。ぶすったれた果澄が従うと、椅子はふかふかで座り心地がよかった。その間に翠子が、グラスに注いだ水を百点満点の営業スマイルで運んできて、果澄の向かいの椅子にゆっくりと座った。腹の膨らみをひと撫でする仕草から、翠子は妊婦なのだという現実を、果澄はようやく実感した。

「単刀直入に、一生のお願いをしたいけど、その前に」

 翠子は、真剣な面持ちになった。

「果澄は、結婚しても地元にいる? 遠くに引っ越したりしない?」

「引っ越しても、市内の予定だけど」

 伝わってくる熱意にされ、たじたじと果澄は答える。続けざまに「仕事はどうするの?」と訊かれたので、少しばかりムッとした。

「決めてない。いずれは扶養ふようの範囲内で働けたら、とは思ってるけど」

 こちらの身の振り方が、翠子に何の関係があるのだ。そう文句をつける前に「よかったぁ!」と両手を合わせて喜ばれたので、果澄はぽかんとしてしまった。

「果澄。一生のお願いです」

「な、何」

「あたしの喫茶店を、手伝ってください!」

 しばらくの間、果澄は絶句した。やがて我に返り「待った!」と慌てて絶叫した。

「ここで働けってことっ? 鮎川さんとは再会したばかりなのに、どうして急にそうなるの!」

「鮎川じゃなくて翠子。一人だと厳しいから、新しいパートナーが欲しいわけ。そして、あたしは思ったの。その相手は、果澄しかいないって!」

「み、翠子なら、私より頼りになる友達が、いくらでもいるじゃない!」

 中学生時代の翠子は、果澄にとってはデリカシーが壊滅的に欠けた少女だが、強烈な個性と明るさが、人を惹きつけることは認めている。翠子はクラスメイトたちから愛されていて、人望も人脈も思いのままのはずなのだ。

「友達なら、確かにたくさんいる。でも、あたしは果澄がいい」

 翠子は、嫣然えんぜんと笑った。性格だけでなく顔立ちも派手な美女が笑うと、パワーがある。くやしいが、果澄は黙らされた。

「どうしてあたしが、果澄のことをこんなに覚えてると思う? 果澄は、あたしにとって謎の女の子だからだよ」

けなしてるの?」

「極上の誉め言葉。昔ってみんな、多かれ少なかれギスギスしてたでしょ? 腹の探り合いばっかりで。そういうのって、結構見えちゃうよね。A子はB子と仲がいいけど、裏ではけなし合ってるなーとか」

 意外にも真面目な方向へ話が及び、どきりとした。悩みとは無縁に見える翠子だが、果澄が考えているよりは、人を見る目が鋭いのかもしれない。

「だけど、果澄は違った。あの頃のあたしには、果澄のことだけは分からなかった。あたしのことを嫌いって思ってるのは分かるけど、どうすれば好きになってもらえるのかは分からない。果澄は、あたしにとって唯一思い通りにならない子で、謎めいた子だったわけ。だから!」

 翠子は、ずいと身を乗り出してきた。

「強烈に惹かれたの。男子とも付き合ったし、結婚もしたし、今まさに身ごもってるけど、あれほど誰かに執着したのは初めて。あたしの人生で果澄だけなの」

 頬が猛烈もうれつ火照ほてっていき、果澄は目が回りかけた。達也にプロポーズされたときでさえ、ここまで動揺しなかった。『嫌い』という感情を見透かされた後ろめたさが湧く間もない。しかし、言葉が甘美かんびに過ぎた分、続いた台詞せりふの苦々しさが、残念なくらいに引き立っていた。

「果澄ほど向こう見ずな頑固者がんこもので、他人におもねるということを一切しない損な人って、見たことない。天然記念物級よ。だけど、がんとしてゆずらないものをちゃんと持ってる人がいてくれたら、お店をしっかり回していけると思うから……」

「帰る」

「え、どうして?」

「あなたのそういう、自分には誰かをけなす権利があると思い込んでいそうな、自信満々で傲慢ごうまんな態度に、傷ついてきたからに決まってるでしょ!」

「そんなことない。意固地いこじな果澄だからこそ、あたしのパートナーに相応ふさわしいの!」

「それでなぐさめてるつもり? やっぱり私をけなしてるでしょ!」

「こんなにめちぎってるのに。とにかく、この出会いは運命よ。あたしと喫茶店を経営して!」

因縁いんねんの間違いだわ。喫茶店なら、旦那さんとやればいいじゃない」

 果澄は、バッグを手に席を立った。座ったままの翠子を残して、扉を目指す。

「旦那とは、別れたばかり。パートナーはいなくなったって言ったでしょ? 前は小海こうみ翠子だったけど、鮎川翠子に戻っちゃった」

 ぴたりと、果澄は足を止めた。こちらを見上げた翠子は、肩をすくめて笑っていた。

「ショットバーは、旦那ひとりで回してたんだけど、そこで浮気されちゃった。許してもよかったけど、許さない選択をしてみました。慰謝料いしゃりょう代わりに、このお店をもらったってわけ」

「他の選択は、できなかったの?」

 つらい思いをしたはずなのに、なぜ翠子は強く笑えるのだろう。動揺どうようかすれた果澄の声は、がらんどうの寒々しい喫茶店に、どうしてか温かく染み込んだ。この場所は翠子が作ったのだと、不意にすとんとに落ちた。調度品を整えて、黒板の絵も工夫をらして、居心地のいい空間をきずき上げたのは翠子だ。人の輪の中で生きてきたから、居場所に思いやりをり込めたのだ。

「さあね。結婚するくらいには好きだったけど、紙切れ一枚で他人に戻れる存在だしね」

 翠子はあっけらかんと言ってから「だけど、お店とこの子は大事にしたい。好きな人とお店を構えることも、一緒に子どもを育てることも、夢だったから」と付け足して、命が宿っている腹を、もう一度愛おしそうに撫でた。

「……冗談じゃない」

 どくづく声が、少し震えた。一人のままでは、夢が叶ったことにはならない。お腹だって、これからもっと大きくなる。ずるい、と唇を引き結んで思った。翠子のことが嫌いなのに、手助けしたいという気持ちを無理やり引き出される未来が見える。だが、たとえ一時いっとき憎めない気にさせられても、翠子の奔放ほんぽうさに果澄はうんざりするだろう。そんなループを生む存在が、仕方なさそうにあわく笑って、果澄の答えを待っている。壁掛け時計が、二時四十分を示していた。達也との待ち合わせまで、時間がない。

「……翠子。らちが明かないから、勝負で決めよう。私は、三時に彼氏と待ち合わせてる場所を、今からここに変更する」

 翠子の目が、見開かれた。好奇心に駆られた猫に似た双眸そうぼうが、こちらを試すように細められる。

「彼氏と会わせてくれる気になったの?」

「達也は関係ない。翠子、彼氏がここに来るまでの制限時間二十分で、私が注文したものを美味しく提供できたら、喫茶店の話、引き受ける。……扶養の範囲内でならね」

「その勝負、乗った!」

 浮かれた声の翠子は、もう勝利を確信しているようだ。果澄は、大いにたじろいだ。

「ま、まだ引き受けたわけじゃないからね」

「分かってるって。ご注文は何になさいますか、お客様。休業中だから、材料がないものは提供できないけどね」

 翠子は、果澄にメニューを差し出した。受け取った果澄は、椅子に座り直し、内容に視線を走らせる。ランチメニューは見なかった。タイムリミットが短い以上、調理に時間が掛かるものを頼むのはフェアではない。悩むうちに、ドリンクメニューの絵に目が留まった。しゅわしゅわと泡立つ炭酸水に、ライムの輪切りが添えてある。ほんのりグリーンがかった飲み物は、刺激が舌に痛そうで、いかにも甘味が少なそうだ。注文を決めた果澄は、顔を上げた。

「ライムジュースで。一応訊くけど、市販のジュースを注いで終わりじゃないよね?」

「まさか。ちょっと待ってて。ライムなら用意があるから」

 考える素振りを見せた翠子は、小さく笑ってから厨房へ向かった。意味ありげな笑みが気になったが、果澄はその間に急いで達也にメールを打った。ここまでの道順を送り終えて息をつくと、生成きなりのエプロンを身に着けた翠子は、カウンター奥の冷蔵庫から、緑色のびんを取り出したところだった。マイペースにジュースを用意する姿には、音楽の授業で聞いた歌声のような伸びやかさがあり、ここで果澄も過ごすようになれば、波打ち際に足首をひたすような涼やかさに、毎日触れられるのかもしれない。不覚ふかくにも悪くない気がして、慌ててかぶりを振った。

 そもそも果澄は大の甘党で、炭酸飲料や酸っぱいものは好きではない。だからこそライムジュースを選んだのだ。嫌いな飲み物のほうが、罪悪感が少しでも軽く、そしてケチをつけやすい。打算ださんを忘れないくせに、勝負の正当さにもこだわる果澄を指して、翠子は損な人だと言ったのだろうか。あながち外れではない気がして、自己嫌悪におちいっていると、翠子が銀色のお盆を手に戻ってきた。

「お待たせいたしました。ライムジュースです」

 果澄は、目をしばたいた。翠子がテーブルに置いたグラスの色は、淡いグリーンではなかったからだ。じゅくした林檎りんご色の海には、大きな氷が沈んでいて、モネの庭に咲く睡蓮すいれんのように、輪切りのライムが揺蕩たゆたっている。炭酸の泡は、一つも浮かんでこなかった。

「これ、ライムジュース?」

 想定していたものと、全く違うものが出てきた。翠子は、果澄の反応が嬉しいようで、向かいの席に座って「飲んでみて」と催促さいそくした。果澄は、そろりと一口飲んで、驚いた。

「甘い」

「果澄、炭酸は好きじゃないでしょ。酸っぱいのも」

 びっくりした果澄が顔を上げると、翠子は得意げに種明かしをしてくれた。

「中三の学園祭の打ち上げで、みんなに飲み物を配ったのを覚えてない? 果澄にレモンスカッシュを渡そうとしたら、断られた。炭酸も酸っぱいものも苦手だから、って」

「覚えてくれてたの?」

「もちろん。だから、ジュースをソーダで割るのはやめて紅茶にして、ライムも香りづけをメインに使って、シロップで甘くしたの。どう?」

 太陽のようにまぶしい笑みを向けられて、やっぱりずるい、と果澄は思う。グラスに口をつけると、ライムの爽やかな香りが鼻を抜けた。甘いライムジュースは、まるで翠子そのものだ。強い酸味と苦味は、くせがあって苦手なのに、それでも甘さにきつけられてしまう。果澄は、唇をとがらせた。

「メニューと違うものを出すなんて、反則はんそくじゃない。ジュースから遠くなってるし」

「嫌々飲まれるより、笑顔で飲んでほしいじゃん。そういうお店だよ、ここは」

「……不本意だけど、勝負は私の負け。約束だから、手伝ってあげる」

「本当に?」

 ぱっと翠子の顔が明るくなる。清々しい笑みを見ていると、今まで手放せなかったわだかまりが、泡となって消えた気がして、果澄も一緒に微笑んだ。まさに、そのときだった。

 からん、からん――グラスでまわる氷がかなでたようなベルが鳴り、『波打ち際』の扉が開いた。三時になったのだ。振り返った果澄は、午後の日差しを引き連れて現れた男の姿を目撃した。よれたポロシャツにジーンズ姿。休日にだらけているときの格好だ。

「果澄、急に待ち合わせ場所を変えるなんて、どうしたんだよ。道に迷っただろ」

 走ってきたのだろうか、どことなく焦った顔で訴える達也の茶髪には寝癖ねぐせがあり、果澄は違和感を覚えた。それは、甘いライムジュースに混じる、果皮かひの苦味に似た違和感だ。舌に残る爽快感が、悪い夢をますように、やがてその正体に思い至る。

「達也、その格好で仕事に行ったの? 普段はスーツなのに」

「え、ああ、ほら、元々は有休だったし。いいんだよ、今日は」

 達也は、あたふたと言い訳した。言い訳だと即座そくざわかるほどに、見ないふりを続けてきた違和感から、果澄はもう目をらせない。甘い後味の波が引いて、苦い後味の波が押し寄せたとき、横合いから声が掛かった。

甲斐かい達也、だよね。果澄の彼氏、こいつなの?」

 ぎょっとしたのは、果澄だけでなく達也もだったに違いない。目を真ん丸に見開いている。翠子は呆れ顔で、口角こうかくかすかに上げていた。

「あたしの友達のミサと、今も付き合ってるよね。三股を掛けられてるかもって聞いてるけど、今は何股? それとも、 結婚を目前にして、あっちこっちで修羅場中?」

 さすが、人望も人脈も思いのままの翠子だった。言葉のジャブは炭酸水より刺激的で、シロップ抜きで暴力的だ。達也の顔が、青くなる。対して果澄は、赤く変わったと自覚した。沸点ふってんに達した怒りが、内腑ないふから熱くきこぼれ、激情にき動かされるように立ち上がり、達也に詰め寄る。

「だから、結婚式場、決めようとしなかったの? 私は、遊び?」

「いや、違うんだ。お、俺の本命は果澄だからっ。ほら、お前も俺がいなきゃ困るだろ?」

「ふざけないで! 婚約解消よ!」

 今日を最後に外してしまう婚約指輪をメリケンサック代わりにして、果澄が渾身こんしんの左ストレートをお見舞いすると、口先だけの男は情けない断末魔だんまつまを響かせて、冗談のように引っくり返った。轟音ごうおんと共に潮騒しおさいのような笑い声が、テーブル席で炸裂さくれつした。

「そんなろくでなし、やめて正解だよ。中三の時だって、ちゃんと警告したのに聞かないから、あたしが果澄から取り上げたんだよ?」

 不意にひやりとして、果澄は呆然ぼうぜんと、椅子に座ったままの翠子を見下ろした。

 それでは、果澄の初恋が無残に終わったのは。いや、そんなことよりも、向こう見ずな寿ことぶき退社までしておいて、婚約を白紙に戻してしまった。誰にもおもねらない損な人生が、勢いよく転がって行き着いた先、これから通うことになる『波打ち際』で、つやっぽく笑った翠子の、あの頃と同じ声がする。

「果澄って趣味が悪いよ」

 溶けた氷が、グラスの底へ、甘いライムジュースの底へちていく。かろんと涼しく鳴る音が、とどめの一言と重なった。

「あたしにしなよ」

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