6.ふるさとへの旅

 そしてぼくは、荒熊教授と谷川さんの見送りを受け、清水港の外へ泳ぎだした。

 「気を付けてな……」

 「あわてず騒がず、てきぱきと、ね?」

 ぼくは、二人の見送りに、力強く礼を返した。

 「ありがとう、行ってきまーす!」

 荒熊教授と、『清水港大学・知的イルカ研究室』の仲間たちは、ぼくが天草灘に到着ししだい、寝台特急の一番安い席で出発する手筈てはずだった。

 ぼくは急がなかった。伝説は、三百年以上待ってくれたのだ。


 清水港の外には、広く底知れない駿河湾するがわんの、膨大ぼうだいな海水が渦巻いていた。

 駿河湾は、深い海底渓谷かいていけいこくを抱えた、恵みの海だった。

 海の底から、豊富な栄養を含んだ海水が駆け上がってくる。なので、たくさんの海の生き物が暮らすことができる。

 マダイ、クロダイ、サヨリ、カンパチ、ソウダガツオ、オオクチイワシ、クログチイワシ、セキトリイワシ、サンゴイワシ……ぼくは無我夢中で食べ歩き――いや、食べ泳いだ。


 駿河湾を出ると、黒潮くろしおの流れを感じた。

 このままどこまでもまっすぐ泳いでゆけば、御蔵島にたどり着ける。

 ぼくはちょっとだけ迷ったが、すぐに、教授との約束を思い出した。ぼくは、本州沿岸部を南下した。


 外海は、潮流のうねりと、幾億、幾兆の生命が発する、いとなみの音に満ちていた。

 その中に、ぼくの同族、ミナミハンドウイルカの群れが発する水中の声、クリックスがあった。

 ぼくは、母からもらった名前であいさつし、近寄った。

 若いオスの小集団だった。彼らは御蔵島を目指していた。


 <おれたちは、知らない海へ、運を試しに行く。そこには知らないメスが、おれたちを待っている。

 きみは、御蔵島の海を知っているか?>

 <青く、深く、透き通った、暖かく、流れの速い海だ。美味い魚やイカがたくさんいる。だがシャチには気をつけろ>

 <よく見ると、体中、傷だらけだな。シャチの噛み傷のあとだ。よく生き延びたな>

 <良い人間に助けられた。良い人間もいる。困った時は、運を試してみろ。

 きみたちは、天草灘を知っているか?>

 <天草灘から来た。メスは身内ばかり。オスは旅に出る。天草の海は、今も豊かだよ。おれたちの体を見ろ、元気だろ。

 天草灘へ行くのか?>

 <そうだ。母のふるさとだ。早く泳いでみたい>

 <気を付けろ。土佐沖で、オキゴンドウの群れの声を聞いた。こちらも群れなら恐るに足らんが、ひとり旅ではつらい。

 耳を澄ましていろよ>

 <ありがとう。良い旅を!>

 <良い旅を!>


 ぼくたちは共に別れを告げ、互いの旅に戻った。ぼくはさらに南へ……。


 紀伊半島沖で、漁船団の発動機の音を聞いた。

 ぼくは、海面にスパイホップして、周りを見渡した。清水港で見た船が混じっている。

 ぼくに声を掛けた漁師が操船していた。ぼくは、その漁船に並んで泳いで、呼び掛けてみた。

 「うわっ、イルカがしゃべった! ……なんと、あんちゃんやないか!」

 「あんちゃんじゃないよ、ユウキだよ?」

 「びっくりさすな! 何で熊野灘くまのなだにおるんや?」

 「母のふるさとへ、天草灘へ、里帰りの旅だよ」

 「ほー! イルカも里帰りするんかい! そらええこっちゃ」

 「もう、清水港には来ないの?」

 「あの後、清水漁協しみずぎょきょうからえらい怒られてな……次行くときは歩いて行くわ」

 漁師は、けらけらと笑い出した。

 荒熊教授とぼくは、清水漁協とは友好関係を結んでいる。日ごろから、漁場ぎょじょうの調査に協力しているからだ。

 知的イルカがもたらす海中の情報は、魚群探知機ぎょぐんたんちきよりも、はるかにきめ細かい。「こんな魚がいましたよ?」と、一匹くわえて持って帰ることだってできる。

 清水漁協は、知的イルカを味方につけたほうが得だと、日本で一番早く気が付いたのだ。


 ぼくはふと、ミス・ハルバードのことを思い出して、尋ねてみた。

 「ねえ、ミス・ハルバードは今、どうしてる?」

 「わしらと別れた。どうも、わしらとは合わん人やったわ。清水に残っとるんか、それすら分からん」

 「おっかない人だったね」

 漁師は大笑いした。

 「そうか。イルカでもあれはおっかないか……」


 熊野灘の漁師と別れ、ぼくは大阪湾に進入した。

 イルカ仲間の警告に従い、瀬戸内海ルートを選んだのだ。

 皆さんに断っておくが、ぼくは決して、臆病者なんかじゃない。ミナミハンドウイルカにとって、オキゴンドウは、難敵なんてきってほどじゃないが、正面衝突をためらわせる相手なのだ。

 いつの日か、知的イルカが隊列を組み、堂々と大洋を渡って行ける日が来るだろう。その日までの辛抱しんぼうだ。


 遠くから、一頭のクジラが近づいてきた。

 巨大な、鋼鉄製のクジラだった。海上自衛隊の潜水艦だ。

 神戸港こうべこう和田岬わだみさき造船所から、出航してきたのだろう。尾びれは斜め十字のぶっちがい……そうりゅう型だ。

 海上自衛隊の潜水艦は、瀬戸内海を潜航することを許されていない。水深が足りないからだ。だから彼らは、大阪湾経由けいゆで、まっしぐらに外海を目指す。

 そうりゅう型潜水艦は、黒々とした巨体を深く沈め、ぼくのすぐ横を泳ぎ去っていった。ぼくがたわむれに放ったホイッスルを固くね返して、さよならも言わずに。


 ぼくは、神戸港の奥まで入り、川崎重工かわさきじゅうこうの神戸造船所に立ち寄った。

 そこでは、JAMSTECジャムステック(海洋研究開発機構かいようけんきゅうかいはつきこう)の海洋探査船かいようたんさせんが、埠頭に横付けしていた。

 海洋探査船の、複雑な『船上構造物せんじょうこうぞうぶつ』には、軽金属製の足場が取り付けられ、青色のシートが張りめぐらされていた。整備の途中だろうか。

 甲板の上を歩いている人影に、見覚えがあった。ぼくはその人に呼び掛けた。

 「船長さーん!」

 その人は、力強い、どこまでも届く大声で返事し、笑顔で、太い手を振った。

 「おお、ユウキくんか! 元気にしとるか?」

 「清水港から、泳いできたよ!」

 「そりゃあ、いい!」

 ぼくは船長さんに、荒熊教授に連絡してくれるように頼んだ。ぼくは携帯を持っていない。連絡は全て、親切な人頼みだ。

 「ユウキくんは神戸の川重かわじゅうに到着、でいいな?……よし送信、と。できたぞ」

 「ありがとう!」


 「なあ、ユウキくんよ?」

 船長は、泳ぎ去ろうとしたぼくを、呼び止めた。

 「俺たちは、知的イルカの応援を、今はすることができない。俺はそれを、やましく思ってる」

 JAMSTECの人たちは、そのほとんどがぼくたちを応援してくれる……かげから。

 でも、大勢が見ている場所では、決して応援してくれない……と、荒熊教授は言う。ニセ科学の仲間だと思われるのが、怖いのだそうだ。

 仕方のないことだ。そのことで、ぼくたちは誰も恨まない。誰かを恨むなど、みみっちいことだ。

 ぼくたちは、自分たちの知恵と力で、『知的イルカ』は本当の科学だと、認めさせなければならないのだ。

 ぼくは、船長さんに返事した。

 「少しも悪く思うこと、ありません。ぼくたちはきっと、太陽の下を、堂々と泳いで見せます」

 「がんばれよ、元気でな!」

 「ありがとう、見ていてください!」

 ぼくは船長さんと別れ、和田岬灯台を横目に右折して、いよいよ、瀬戸内海へと入り込んだ。


 瀬戸内は、浅く、おだやかで、砂地の海底が長く続く、人間の海だった。

 様々な船が東西を行き交っていた。漁船、客船、カーフェリー、貨物船、コンテナ船、浚渫船しゅんせつせん、クレーン船、はしけを押すタグボート、ヨット、プレジャーボート、護衛艦……。

 ぼくは、西へ向かう船の舳先へさきが起こす波に乗った。こうすると、泳ぐ力がほとんど要らなくなる。サーフィンするのは、人間だけではないのさ。

 ぼくは、船から船へ、波から波へと巧みに乗り継いで、ずいぶん楽をさせてもらった。


 瀬戸内もまた、恵みの海だった。

 須磨海岸の防波堤で捕まえたメバルは、思わぬ拾い物。明石海峡あかしかいきょうのタコとタイは、渦潮うずしおの流れによってたくさんの食べ物を与えられ、豊かな身をしていた。

 海底の砂地は、ある小さな生き物たちの、寝床ねどこになっていた。それは、いかなごだった。

 関西地域の、春の名物料理である『くぎ煮』で有名な、いかなご。彼らは、夏の間は砂地に潜り、夏眠かみんしているのだ。

 いかなごたちは、まだ幼かった。ぼくが興味を持って近寄ると、あわてて砂地の奥深く潜り込んでしまう。

 ふふふ、安心して。ぼくはきみたちを、食べたりしないよ……?

 ぼくは、小さないかなごたちに別れを告げ、さらに南へと向かった。


 ぼくは、道草を食っていたわけではない。

 ミナミハンドウイルカは、時速11キロの巡航速度じゅんこうそくどで泳ぐことができる。人間のマラソンランナーより遅いが、何日でも、何週間でも、休むことなく泳ぎ続けられる。

 荒熊教授を長く待たせるつもりはなかった。それでも、十数日掛かりの旅になった。

 ぼくは、瀬戸内海を出て、豊後水道ぶんごすいどうから日向灘ひゅうがなだへと下った。大隅海峡おおすみかいきょうをくぐると、九州最南端である、佐多岬さたみさきが見えてきた。


 ぼくは、鹿児島県の錦江湾きんこうわんに入った。

 かごしま水族館に立ち寄れば、水族館の職員さんに、連絡してもらえると思ったからだ。

 海に接して建てられた水族館から、若いカップルが歩み出てきた。上機嫌そうだ。ぼくが二人に声を掛けたのは、単なる気まぐれだった。

 「わっ! イルカがしゃべった!」

 「わたし知っとるわー。きみ、知的イルカのユウキくんじゃろ?」

 なんと、女の子はぼくのファンだという。ぼくは気安くお願いした。

 「ぼくの代わりに、電話を掛けてくれませんか?」

 「よかよー。そうじゃ、うちらの自撮じどりに、入ってくれる?」

 「いいですよ」

 ぼくたちは、運河うんが沿いに、地面と水際みずぎわが近い所を見つけた。そこで、並んで携帯で写真を撮った。

 少女とイルカと、少年の笑顔がくっついた写真が撮れた。

 「ふふ……きれいに撮れたばい、写真も教授にメールしてあげるけんね」

 「ありがとう! 教授も喜びますよ」


 ぼくは親切なカップルと別れ、桜島の噴煙を横目に、錦江湾の外へ向かった。

 途中、たくさんのミナミハンドウイルカと出会い、あいさつを交わした。

 <母親のふるさとを見に来た。天草灘は、どんなところだろうか?>

 <暖かくて、魚がいっぱいいて、波のおだやかなところだよ。のんびりするがいいさ>

 大柄なハンドウイルカが泳いでいるのも見かけた。錦江湾は、イルカの海だった。


 ここから先は、天草灘までまっしぐらである。





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