2.海の学校

 御蔵島の海で傷ついたぼくは、荒熊教授に引き取られた。

 教授はぼくを、『清水港大学海洋博物館しみずみなとだいがくかいようはくぶつかん』の巨大水槽すいそうで、育てることにした。清水港大学は、教授のつとめ先だった。


 ぼくの幼い体は、シャチの子によっていくつもの噛み傷が付けられていた。しかし、お医者さんたちの懸命な手当てのかいあって、ぼくの傷はえた。

 ぼくは、見る見るうちに健康を取り戻した。当時のぼくには、「お母さんがいなくなった」ということしか分からない。そして、新しい住みかである巨大水槽は、御蔵島の海に比べて、あまりにも狭かった。

 ぼくは退屈し、いらだち、水槽の中をぐるぐると回り始めた。


 そんな時、ぼくの前に現れたのが、イルカトレーナーの谷川たにがわさんだった。

 彼女はぼくに、いろんな芸を教え始めた。水面から頭だけを出すスパイホップ。ジャンプ。宙返り。プールの底に沈められたおもちゃを取ってこさせたり。

 谷川さんは、口にくわえた超音波の笛を吹き、ぼくに合図する。ぼくが上手に芸をやると、彼女はバケツの中からイワシを出して、ぼくに食べさせてくれる。

 「よし、いい子ね!」

 その言葉の意味は分からなかったが、ぼくは彼女のことを好きになった。


 谷川さんは、不思議な人だった。

 彼女は、ぼくに芸を教えるとき、奇妙な服を着る。ウェットスーツという、イルカの皮膚のような服だ。すると、半分人間で半分イルカのような姿に変わる。ぼくは、半分イルカになった谷川さんを見るたび、なぜかどきどきする。

 彼女は人間なのだろうか? それとも、イルカなのだろうか……?


 健康を取り戻したぼくは、どうしてだろう、再び手術を受けることになった。

 ぼくは、注射を受けた後、眠くなってきた。麻酔注射だった。

 それから起きたことは、後から荒熊教授に聞かされたことだ。

 ぼくの頭は、頭蓋骨ずがいこつまで切り開かれた。そして、ぼくの脳のいくつかの個所に、電極でんきょくが差し込まれた。微弱びじゃくな電流を、脳細胞に伝えるためのものだ。

 電極は、小さなバッテリーと回路基板かいろきばんにつながっていた。それらは厳重に防水処理され、頭蓋骨に固定された。

 そして傷口が縫い合わされ、手術は終わった。


 それが、大いなる始まりだったのだ。

 ぼくが、世界で初めての『知的イルカ』になるという、大いなる旅の。


 手術の後、ぼくは何回も睡眠すいみんをとった。

 それは、ただの睡眠ではなかった。

 イルカは陸の動物と異なり、寝ている間も泳ぎ続けなければならない。身の安全と、呼吸のために。

 そのためイルカは、右脳うのう左脳さのうを交代で眠らせる。脳を半分だけ眠らせ、起きているもう半分で、体の面倒めんどうを見る。

 世界中のイルカが、毎日やっていることだ。しかし……。


 ぼくの脳には、電極が差し込まれている。それが脳の半分の眠りを察知さっちすると、ぼくの頭蓋骨に固定された、あの回路基板が作動する。

 それは、『REM波レムはペースメーカー』と呼ばれていた。


 人間の脳が深い眠りに落ちるとき、特徴的とくちょうな脳波が発生する。REM波という。

 REM波は、『夢見る脳波』だ。

 REM波の発生中、人間は夢を見ている。夢は、何のために見ているのか?

 起きている間の活動で、脳にたっぷりめ込まれた記憶を、整理するためなのだ。整理整頓せいとんされた脳は、次の日も効率よく活動できる。


 ところがイルカの脳は、REM波を発生しない。

 地球上の哺乳類ほにゅうるいの中で、鯨類げいるい(イルカとクジラ)とハリモグラだけが、REM波を発生しない。

 なぜかは分からない。脳の使いかたが特殊なせいだろうか。そんなことはどうでもいい。

 肝心かんじんなことは、イルカの脳は整理不能ということだ!

 鯨類の脳は、他の哺乳類と比べて、すごく大きい。

 でもそれは、すごい知能につながらない。整理不能の脳が満杯まんぱいになる日を、少しでも遅らせるための、苦肉の策に過ぎないのだ。


 『REM波ペースメーカー』は、眠っている脳の半分に、人工的に作られたREM波を送り込む。

 進化の歴史において、鯨類と最もえんが近い動物は、今も生きている。それは、カバだ。荒熊教授は、カバのREM波を研究して、『仮想かそうイルカREM波』を作り出したのだ。

 『REM波ペースメーカー』は、眠っているぼくの脳の半分に、『仮想イルカREM波』を送り込む。その刺激は、ぼくの脳をREM睡眠へと誘導ゆうどうする。

 自然のイルカには、決してたどり着くことができない、夢の世界へ……。


 荒熊教授の研究は、イルカに夢を見せ、イルカの脳を整理し、イルカが思う存分に、巨大な脳を使いこなすことを可能にしたのだ。


 それから数年がたった。

 ぼくの脳は、人間のように賢くなり、ぼくは教授と自在に話すこともできるようになった。ぼくの体はすくすくと成長し、きたえられた立派な若者イルカに育っていた。

 荒熊教授の、素晴らしい『知的イルカ』研究は、きっと世界に認められることだろう。

 ぼくはそう思っていたのだが……。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る