7.わだつみのいろこの宮

 天草灘は、東九州多島海ひがしきゅうしゅうたとうかいへの大門だ。

 広大な入り口の奥に、多くの半島、諸島しょとうわんを抱え込み、入り組ませている。


 その最も奥にあるのは、干潟ひがたをはい回る珍魚ムツゴロウで有名な、有明海ありあけかい

 有明海への入り口をやくしているのが、島原半島しまばらはんとうだ。

 島原半島には、雲仙普賢岳うんぜんふげんだけという火山がそびえている。

 雲仙普賢岳のふもとには、豊かな天草の海が広がっている。

 波はいつもおだやか。対馬暖流つしまだんりゅうが流れ込んでおり、常に暖かい。食べ物に不自由することはない。イルカたちの楽園だ。

 天草灘は、雄大かつ繊細せんさいな、風光明媚ふうこうめいびの地なのだ。

 だがこの地には、悲しい歴史が秘められてもいた……。


 ぼくは天草灘の中央部にある、通詞島つうじしまにたどり着いた。

 天草漁協あまくさぎょきょうは、イルカウォッチングを観光の目玉にしている。通詞島はその名所だ。

 島の沖合いには、橘湾たちばなわん早崎瀬戸はやさきせとという、二つの豊かな漁場が、大昔から存在している。対岸に見える島原半島には原城はらじょうの跡地がある。

 通詞島を拠点にすれば、ぼくの親戚しんせき探しと伝承でんしょう探索たんさくを、効率よく行えるだろうというのが、荒熊教授の考えだった。


 ぼくは海面からスパイホップした。今日はいい日和だ。調査もはかどるだろう。

 通詞島の目印めじるしは、島の東端とうたん西端せいたんにそびえ立つ、大きな発電用風車だ。

 二つの大風車は潮風に吹かれ、くるくると気持ちよさそうに回っていた。

 のよいことに、荒熊教授は、通詞島の海岸でぼくを待っていた。ぼくは教授のもとへ急いだ。

 ぼくの呼びかける声は、うれしさで弾んだ。

 「教授ー、やっと着きましたー!」

 「ユウキ、調査は中止だ」


 ぼくは、教授の言葉が、よく分からなかった。

 「なぜ? どうしてですか!」

 「学長がくちょうからきつく止められた。大恥をかく前に、無かったことにしろと」

 たたずむ教授は、ぼんやりした影のようだった。

 「もし何も出てこなかったら『残念でした。また今度』ではすまないんだよ。私たちは世間の笑い者になる。知的イルカの研究も、信用を失う」

 「でも、母がぼくに教えてくれた昔話は……」

 「島原と天草の農民はね、貧窮ひんきゅうのどん底におとしいれられたから、反乱を起こしたんだよ? 財宝なんて、あるわけがない。

 当時、ヨーロッパ全体で金の産出量が、年間4トンだったそうだ。日本の貧農ひんのうがどうやって、6キロの金塊を手に入れられるんだ?」

 教授の声は、真っ暗闇くらやみに向かって、ぶつぶつつぶやいているようだった。

 「私も悪かった。もっと早く、お前を夢から覚ましてやるべきだった」

 「夢じゃありません!」

 ぼくは叫んだ。

 「ぼくはイルカの伝承を信じます! ぼくひとりでも、探しに行きます!」

 ぼくは教授に背を向け、沖へと泳ぎ出した。ぼくの心の中を、黒い渦巻きが荒れ狂っていた。


 一艘いっそうのボートが、ぼくの行く手をさえぎった。

 「待ちなさい、あなた、ユウキですね?」

 操船していた人間の、金色の髪がきらめいた。

 「ミス・ハルバード? どうしてここに」

 「鹿児島のカップルが、あなたの写真、SNSで公開しました、全世界に」

 ぼくには、さっぱり分からなかった。陸の世界には、ぼくの知らないことが、まだまだありそうだ。


 「ユウキ、あなた、なぜ天草灘に来ましたか?」

 ぼくは、事情を打ち明けた。

 今は亡き母がぼくに教えてくれた、イルカの言葉、イルカの歌、イルカの昔話のことを。

 この天草の海のどこかに、母の昔話が伝えてきた何かが、今も隠されているはずだということを。

 「……ぼくは、母の昔話が本当のことだと確かめるために、天草灘を訪ねて来ました。でも、それだけじゃありません。

 ぼくは、お母さんのふるさとの海を、泳いでみたかったんです」

 ミス・ハルバードは、静かにぼくの話を聴いていた。

 「わたし、イルカの伝承、信じます。あなた、種族の誇り、捨てないで。

 わたし、あなたのこと、誤解してました。ごめんなさーい。これから、応援しまーす」

 ぼくの心の中でのたうっていた黒い渦は、どこかへ吹き飛んでしまった!


 ぼくはとても簡単に、母の姉妹たちと出会うことができた。

 彼女たちは、天草の海の真ん中を、のびのびと泳いでいたからだ。

 母の姉妹たちは、母の旅の不幸な終わりを悲しんだ。でも、おいっ子にあたるぼくが、元気に成長して帰郷したことを喜んでくれた。

ぼくは、母の姉妹たちの紹介で、天草の海で最年長の、おお祖母ばあさんイルカに会って話を聞いた。

 <わたしが子供のころ、お祖母さんが昔話をしてくれたものさ……。

 わたしはお祖母さんに尋ねたよ。“わだつみのいろこの宮は、今もあるの?”お祖母さんはわたしを連れてってくれた……>

 ぼくは、そっと、大お祖母さんイルカにお願いした。

 <ぼくを、わだつみのいろこの宮に、連れていってくれませんか?>

 <わたしは年寄り。もう深くは潜れない。

 大丈夫さ、ひとりでお行き。わだつみのいろこの宮は、早崎瀬戸の、島原側にあるよ>


 早崎瀬戸は、島原半島と天草下島あまくさしたしまにはさまれた海峡だ。

 潮のにともない、強い潮流が生じる。その強さは有明海を底までさらけ出し、干潟に変えるほどだ。

 ぼくは、早崎瀬戸に潜った。

 最深部は150メートルもあるが、ミナミハンドウイルカにとっては遊び場に等しい。

 ぼくは、凸凹でこぼこした岩場が続く海底を探った。とげだらけの石ころみたいな魚のアラカブが、ぼくに食べられると勘違かんちがいして逃げまどった。

 ぼくのクリックス音は、海底洞窟かいていどうくつの開口部を発見した。おそらく遠い昔、雲仙普賢岳の噴火によって作られたものだろう。

 ぼくは、海底洞窟に進入した。洞窟の内壁はなめらかだった。溶岩の噴出跡だろう。ミス・ハルバードが頭に巻き付けてくれた水中ライトとビデオカメラが、不思議な光景をとらえていた。

 ぼくは、わずかな水流を感じた。クリックスの反射が変だ。これは、海水じゃない。真水ではないのか?

 そして、洞窟のいちばん奥で、ぼくは見つけた。黄金の十字架を。


 洞窟の終点は、岩棚いわだなになっていた。

 そこに、人間の掌にすっぽり納まるほどの小さな十字架が、何百、いや何千個も積み重ねられていたのだ。

 まばゆい黄金色の物も、鈍い赤銅色しゃくどういろの物もあった。どれひとつとして、びてはいなかった。

 光り輝く十字架の小山の周りには、珊瑚さんごのかけらや色とりどりの貝殻かいがらが、縁飾ふちかざりのように並べられていた。

 とても綺麗きれいだった。


 ぼくは海面に浮上した。そして、ミス・ハルバードに小さな贈り物をした。

 まばゆい、黄金の十字架を、ひとつ。

 夏の陽光は、黄金の十字架を、けた太陽のように輝かせていた。無限の輝きが、底から底から、湧き上がってくるようだった。

 「ミス・ハルバード。これは、ぼくからあなたへの、心からのお礼です」

 「ありがとう、ユウキ。この十字架、わたしの一生の、宝物にしまーす」

 ミス・ハルバードは、身に着けていたネックレスの鎖を、黄金の十字架に通し、首に掛けた。

 彼女の金色の髪の毛は、天草の潮風に揺れ、黄金の十字架に何度も、じゃれついているようだった。





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