3.9 二つの月が昇る空

 高層ビルの屋上から足を投げ出すようにして腰掛け、色とりどりのネオンの海を見下ろす。眼下の街並みを足早に行き交う人々は皆米粒のように小さくて、せっせと歩くのに夢中で見下ろされていることに気付きもしない。そんなわたしも、今までエウロパに見下ろされていたことに気付きもしなかった。見上げれば、二つの月はオッドアイの瞳のようだった。そのアシンメトリーな双眸は、まっすぐとわたしを見ていた。


 天上の世界と、地上の世界の狭間。


 そこがわたしの居場所だった。地上からは見えない程に高く、天上の世界には干渉することはできないくらい低い、中途半端な世界。わたしは結局、〈ゼウス〉にはなれない。きっと〈ガニメデ〉にすら及ばない。すべてを変える力も、すべてに立ち向かう勇気もなく、自分の無力さを土に埋めて、人を見下ろすことで心の安寧を掴み取ってきた。


 それこそがわたしを守る加護。


 わたしを蝕む呪詛。


 わたし自身。


 そう、テレポーターと非テレポーターの線引きはおかしいよと言いながら、何よりそれに縋ってきたのはわたしの方だった。線引きの向こうテレポーターの側に自分がいる――それが加護の拠り所にして、呪詛の元凶。月だけが昇る夜空を取り戻すなんて豪語しながら、妖しく光るエウロパの青白い光に酔いしれていたのは、他でもないこのわたし。


 でも、と思う。その線引きを取っ払い、自分を下界に蠢く人々と同質の存在だとみなそうとビルの淵から下界を見下ろすと、足が震えた。


 どうして。


 どうしてあの無力なる人々は、自分の無力さに打ちのめされない?


 ――真弓ちゃんさ、挫折、味わったことないでしょ。


 ふと、松村さんの言葉が脳裏を過った。わたしは雷に打たれたようにはっとして、ビルの屋上に仰向けに倒れ込んだ。エウロパと月とが、重なるまで秒読みの段階に入っていた。


 ようやく分かったよ、松村さん。


 わたしは〈ゼウス〉にはなれない。エウロパを送り返すことなどできない。これが挫折の味だ。苦くて、辛くて、重くて、吐きそうで、胃にもたれる。飲み込むのが泣きそうな程に辛い。こんなの聞いてないよ、松村さん。


 進学して、ひかるみたいな頭脳の持ち主に打ちのめされたはずなのに、わたしは自分にはテレポート能力があるなんてお門違いの加護を後ろ盾に、その事実を飲み込むことを拒否した。そうやって、わたしが歯の立たないバケモノたちを心の中で切り刻んで、勝手に勝利宣言をあげ続けてきた。


 あなたの言った通りだ。わたしはとんだ馬鹿者だ。


 南の空高くに昇るエウロパ目掛け、それより一回り大きい月の光が歩み寄っていく。二つの光の合間の空隙は少しずつ狭くなり、そして青白い光を飲み込むように、月は夜空の中心へと躍り出た。


 大地が唸った。


 わたしは思わず体を起こし、下界を見下ろした。蠢く虫のような小さな人々が喝采を上げていた。


 今を生きるのに精いっぱい?


 自分の無力さに打ちのめされてる?


 そんな風にはまるで見えなかった。ある者は足を止め、天上の舞台に釘付けになり、ある者は騒ぎ、躍り出す。赤信号を打ち破り、喝采は道路に流れ込んだ。その興奮は熱気となって上昇気流を生み出し、ビルの上から顔を覗かせるわたしの冷たい頬を撫でた。火傷するかと思った。


 その熱から逃げるように身を引き、再び天上へと目を向ける。わたしは重なりゆく二つの衛星に向かって手を伸ばした。掌の月と、夜空の二つの光輝とを、突き合わせる。開いた指の隙間から、まばゆいばかりの光が漏れ出した。完敗だ。そうだ、あの天上の舞台に手が届かないのはわたしだけじゃない。皆一緒なんだ。


 皆、等しく無力。世界を変えることなんて何もできない。〈ゼウス〉にはなれない。


 それでも皆、生きている。わたしより恵まれていない人は一杯いるはずなのに、それでも生きている。そしてこうやって集まって、ネオンの海の中で混ざり合い、喝采を上げ、上昇気流を作り出す。


 わたしはネオンの海に手を翳した。熱気がわたしの掌の月を焦がした。火傷しそうな程に痛いくせに、すべてを包み込むように温かい。


 無力なる人々の群れ。そこには熱があった。力があった。


「――壮観ですね」


 背後からその声が聞こえても、わたしは驚かなかった。振り返ると、思った通りの姿があった。


「来ると思ったよ、ヴィオラ」


 彼女はわたしの隣に腰かけ、同じように足をぶらつかせた。


「いい場所ですね。ここがあなたの秘密基地ですか」


「そう。心が落ち着くの。でも――」


「でも?」


 ヴィオラは眉をひそめる。


「人々を見下ろさないといけない」


 ヴィオラは眼下に目を配ってみせた。


「なるほど。確かに、蟻のようにちっぽけな人々。これは神にでもなったような気分になりますね」


「だから勘違いしちゃった。第二の〈ゼウス〉になれるんじゃないかって、〈ガニメデ〉の境地に達することができるんじゃないかって、本気でちょっと思っちゃった。MIスコア八十一。全テレポーターの九十五パーセンタイル。二十人に一人のテレポーターになったから尚更ね」


「あなたは紛れもなく、強力なテレポーターですよ。たとえ〈ゼウス〉や〈ガニメデ〉には及ばなくても、世界を一変させることはできなくでも、あなたの力は必ずや、世界をより良くするために貢献させられることができる。それだけの力がありながら、驕るなと言う方が、端から無理な話なんですよ。だからこそ、あなたには果たしてもらいたいのです。ノブリス・オブリージュを」


 忌々しいその単語をヴィオラが発したとき、わたしは自分が怖くなった。黒々とした感情がどこかから湧き出してくるのではないか――そんな嫌な予感がした。


 でも、その予感は外れた。わたしの心の海は不思議な程に穏やかで、荒れ狂う大波はどこにもない。どうやら、その刺々しく忌々しい言葉は、すとんとはまる場所をようやくわたしの中に見つけたようだった。


 ヴィオラに顔を向けると、彼女もまたわたしに向き直った。彼女の目はいつも広告で見るときのように優しいものだった。


「どうすればいいの、ヴィオラ。どうすれば無力な自分を受け入れられる? わたしは〈ガニメデ〉に及ばない程度には有能で、逆に言うと、それくらいしか無能でない。無力さに慣れてなくて、受け入れるやり方が分からない」


「何を言っているんですか、真弓さん」ヴィオラは白い歯を見せて笑った。


「あなたは自分の有能さを知った。無能さを知った。自らの驕りを知った。それだけで十分です。あなた方人間は私たちAIと違って、完全に客観的に物事を見ることなんてできない。いつも、何らかの視点で、何らかの角度で、何らかの色眼鏡を通してでしか、物事を認知することは出来ないんですよ。自分の無力さを受け入れる? そんな苦行を簡単に出来るものですか。誰にだって、それは一生をかけて取り組むべき難問なんですよ。だから自分の無力さを認めたくなくて、世界を歪んだ視点で認知して、時に齟齬が修正できなくなれば、世界を歪んだ形に直そうとする輩も現れるんです」


〈ガニメデ〉を撃ったライアンのことを思い出した。


「でも、あなたは自分の限界を知った。今のあなたとなら、共に未来を変えることができると私は確信しています」


 ヴィオラは手を差し出してきた。


「脇坂真弓さん。前言撤回は前言撤回です。もう一度誘わせていただきます。是非、テレポーター養成大学へ入学してください」


 わたしはヴィオラの差し出された腕を見て、顔を見て、それから再び唸る人々の群れに目をやった。


「今はまだ、答えられない」


 立ち上がり、天上で混ざり合う二つの光を見上げた。


「やっぱり、すべてを断ち切って、純然たるテレポーターとして生きていく覚悟は簡単にはできないよ。わたしには、〈ゼウス〉のような力もない。〈ガニメデ〉のような勇気もない。ただ、平均よりちょっと強いだけのちっぽけなテレポーターの一人。加護がなければ、怖くて怖くて、どこにも踏み出せない。――幻滅した? それがわたし、脇坂真弓の正体」


「いいえ。それがあなたです。私どもはあなたがそういう人間であると知った上で、あなたこそ、特待生に相応しい稀有な存在であると判断したのです」


「そう言われたところで、簡単に答えられる問題じゃない」


「それは私どもも承知しております。だからこそ、あなたには未来に真摯に向き合って、悩んで欲しいのです。その悩み抜いた選択の果てに、たとえあなたが異なる道に行ったとしても、あなたが素晴らしいと思える人生を送れるようになるのなら、私はそれでも構いませんよ」


 わたしはちょっとぞくっとして、思わずヴィオラの顔を見た。さっきも見た優しい目をしていた。


「よくも恥ずかしげもなくこんなことを言えるよ、ったく」


「AIである私は恥ずかしいと感じることがありませんから」


「そんな見た目をしていながら、そうやって都合のいい時だけ自分がAIだって言い張るの、ずるい」


 目を伏せて、しばし眼下の喝采に耳を傾ける。


「でも、入学案内を完全に断った訳じゃないから」


 そうぼそりとこぼすと、ヴィオラは口角を上げた。


「ほら、言った通り」


「何が?」


「あなたが無慈悲で自分勝手な人間である可能性は棄却されたって」


「勘弁してよ。だから〈ソフィスト〉は苦手なんだって」


 視界の端で、腕時計端末が光った。


「真弓、ひかるから電話」


〈テラ〉の声だ。ヴィオラに目を向けると、彼女はジェスチャーで出るよう言った。


「どうしたの、ひかる」


 空に向かって訊くと、スマート内耳からひかるの声が聞こえた。


「今さ、真弓、見てる? エウロパ蝕」


 天上を見上げると、間もなくエウロパは月の裏側に完全に隠れようとしていた。皆既エウロパ蝕までもう間もなくだ。


「見てるけど、なんで」


「実はさ、親と喧嘩しちゃって。世の中が〈ゼウス〉だらけになるなんて、母さんがふざけたこと言うからさ。それで家、飛び出しちゃった。今から会える? 駅の西口あたりにいるんだけど」


「嘘でしょ、めっちゃ近くじゃん」


 本当は数キロあったが、それくらいの距離なら一分程で飛んでいける。


「待っててひかる、今行くから」


 電話を切り、再びヴィオラに向き直る。


「行ってあげなさい。友達は大事にするものですよ」


「あんたがそれ言う?」わたしは盛大にため息を吐いた。


「もしわたしがあんたの誘いに乗ることになるのなら、ひかるとこうやって話せるのもあと一年半ってとこか」


 わたしは俯き、すぐ近くで点滅する赤い光に目をやった。


「そうとも限りませんよ」


 顔を上げると、ヴィオラは含み笑いを浮かべていた。


「あなたがお友達にカミングアウトするという方法もあります」


 わたしは唇を噛んだ。


「……本気で言ってるの、それ」


「本気ですよ」


「簡単に言わないでよ」


「簡単にしていくのが、呪縛を断ち切るのが、あなたたち後エウロパ世代の役目でしょう。皆分かっているんですよ、本当は。もう、戦うべき敵など、とうにいなくなっているなんてことは」


 わたしは何も答えられなかった。


「それでは真弓さん、またいつの日か、会える日を楽しみにしております」


 ヴィオラは一礼すると、後退りし、物陰の闇に溶け込むようにして見えなくなった。


 高層ビルの淵に立ち、沸き立つネオンの海と対面する。これが、わたしの――一人の人間、脇坂真弓の生きていく世界。わたしの居場所はこんな陰気臭いところじゃない。今こそ海に帰る時だ。


 わたしは生きるよ。兄さん。エウロパの昇る空の下で。


 そう掌の月に誓いを立てて、わたしはネオンの海に飛び込んだ。 

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Earth Ⅱ Europa 瀧本無知 @TakimotoMuchi

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