プロのインキュバス

「あなたが身罷みまかって以来、下天では、あなたが局外者アウトサイダーたれと播種はしゅした結果を御存じでしょうや?

 オーガスト・ダーレス翁がミスカトニック・ヴァレー神話を四元素に結びつけCthulhuチュールー神話と銘打たれたものは美事に芽吹き、百花繚乱の春をきたらしめました。陰陽インヤン、善悪割り切れるようなものではない、それこそ千の貌のごとき目まぐるしい多面性を持って。 

 わたしはっています。不定形なる無限の可塑原形質生物shoggothショゴスが滑稽で胡乱うろん女家庭教師ガヴァネスになったかと思えば、口の端にも出すべきではない旧支配者たちと外つ宙で肉置ししおき豊かなりし美麗なる少女らが駆る鬼械魔造武者とが激闘を繰り広げたり、或いはYog-Sothothヨグ=ソトホート女陰ほとと、魔羅まら化生けしょうしたるQuetzalcoatlケツァルコアトルが冗談まがいも甚だしいながら組んず解れつし合う史上最大の血戦に地軸が歪む、そんな世界を。

 わたしはそのような世界から参ったのです。

 特徴を誇張し強調された結果、変形歪曲されたデフォルメを、人と化した魔神を、あるいは十六歳を自称する可愛いアーメンガード・スタッブズのように喜びの天国、女体化された魔書を。

 本来はおぞましい怪奇幻想小説の雰囲気作りとして添えられた神話生物どもはいまや完全に変質、変容メタモルフォーセスしてしまった。とんちきトール・テールな二頭身のどもに。

 これがわらわずにおられましょうや。かずにおられましょうや。

 ヤグサハ! 

 言祝ことほぎましょう。ヤグサハ! ヤグサハ!

 青白いお顔をなさって。せっかくのかんばせが。

 愉快ですよ。だって痛快ではありませぬか。あらあら。いかがなされましたの?

 売文家に身を落とすことのないようにですって。下天ではみながみな売文家とでも云うのでありましょうや。

 たとえるなら、胡蝶がどろりと夢見しさなぎに再び戻りましょうや。

 否です。

 否。

 欺瞞なるもの、現世うつしよの偽膜、Ulhzthhotfof-rarthウルツェホトフ=ラースに誓って」

 面妖不可思議たる言語を発した、幾度となく邂逅したイロオジョンの貌は果たしてどうだったか。眼前の女性は何者なのだ。コーセラ・イロオジョンとは誰だ。  

 Ulhzthhotfof-rarthとはなんなのだ。

 メネスが哭いた。違う。声を上げ嗤っているのだ。可愛い牡猫のメネスはなにかに変容してしまった。

 アンモニア吸収式冷房装置を作動していないのにビッカースタフは異様な冷気に襲われ、にやにや嗤い続けるメネスを掻きいだいて破風の窓を見やった。

 いつの間にか霧が色濃く立っている。

 深い霧の向こう、ざわついた影が空を二つに分けている。いずれか一つは欺瞞ぎまんなる偽りの太陽であるが、遮光された妖霧の奥で窄んだ陽光の匂う花弁を旋回しながらゆるゆると開かすのはどちらも同様なのだ。まさしくその猜疑心の結実したる写し鏡のごとき結晶群こそがUlhzthhotfof-rarthの姿であった。

 旋回する舌状花弁がビッカースタフのプロヴィデンスをざくざく切り裂いている。

 結晶群は真っ赤な苦痛を伴った血の雨となり、やがて嵐となって窓を穿たんとばかりに激しく刺厭刺厭ざあざあと降り始め。気づけば、

 床にも窓外とは異なる朱の血だまりが出来ていた。

 喉をしゃっくりあげながらイロオジョンが嗚咽おえつしている。

 血が滴る。嗚咽のたび、慕雫慕雫ぼだぼだと。

 満月に引き寄せられ満ちてゆく潮のように水嵩みずかさを増していく。赤く、赤く。

 狂想なるイロオジョンの眼窩から溢れでた血涙の量は人一人がおおよそ有しえる体液以上のもので、このまま手をこまねいてはやがては哀れなビッカースタフは溺れ死ぬことだろう。

「愉快でありましょうや?

 後継者アウトサイダーにより物語は連環を繰り返し、滅びと再生のうちに変容してしまった。なればこそ、Ulhzthhotfof-rarthごとき神性が生じるのも必定。模倣子ミームに犯された私はそのことを喜ばしく、しかし悲しくもあるのです。

 売文家によってこそあなたの物語は広まり更なる売文家を産む。

 ヤグサハ。

 Ulhzthhotfof-rarthによって隔てられたあの世界に……、『プロのインキュバス』を語るあなたはいないもの」

 溺れそうになりつつもビッカースタフは考える。イロオジョンの告白の意味を。

 彼女はビッカースタフが生み、気づけば大いなる波濤となったミスカトニック・ヴァレー神話の広がりに喜びを覚えつつ、ではあるがその企図せぬ変容に憂いて涙しているのではあるまいか?

「何が云いたい。何を求めている」

「Cthulhu神話を思うのではなく、シオン……紫苑は、そんな人間がいるということを知ってほしかった」

「私自身?」

「願わくば永久とこしえの夢見より覚めたのち、Ulhzthhotfof-rarthより戯画された世界にまことの恐怖を返していただきたいのです。其の名状しがたいまでの筆致によって」


一八九〇年。八月二十日。


生まれてより不遇のうちに身罷った私がまことの恐怖を齎せる。そう云うのか。

「面長のかんばせ、

 時にローレンス・アップルトン。エリザベス・バークレイ。唯一のロマンス書きであったパーシー・シンプル。『占星術』について論説するアイザック・ビッカースタフ。あるいはメドゥサのジェレミー・ビショップ、スコットランド人の面影がよぎるアレクサンダー・ファーガソン・ブレア。公正なるものエル・インパルシアル。セルフ・パロディのジョン・J・ジョーンズ、風刺詩のハンフリー・リトルウィット。アーチボルド・メイネリング、アルバート・フレドリック・ウィリー、宗教と神について語ったマイケル・オルモンド・オライリーやヘンリー・パジェトニロウ、エリザベス朝時代を模したリチャード・ローリー、『哀歌』のエイムズ・ドランス・ローリー。ダモンに言及するエドワード・ソフトリィ、『生体解剖者』たるゾイルス、『這い寄る混沌』を招いたルイス・テオバルド・ジュニア、怪奇幻想詩のウォード・フィリップス。

 きっとまだ知らぬ筆名をお持ちなのでしょう。

 怪奇恐怖の祭司、あるいは未知なる外宇宙の観測者。千の筆名をもつもの。

 ヤグサハ! 我らがハワード・フィリップス・ラヴクラフト!!」

 激しいめまいの伴う茫漠とした記憶喪失ののち、我に返った彼のまえでイロオジョンがふたたび口を開くことはなく、朽ちていた。

 痩躯を痛めつける冷気も首まで浸っていた血沼も消失したのち、彼の足元には人の形状をした精髄をなす塩だけが遺されていたのだ。

 両腕の拘束からもがき逃れた拍子にメネスが飛びつくと、かつてイロオジョンであった塩の身体は砕け、薄紫に発光したる薔薇色の心臓が転がり落ち、脈を数度数える間にこれもまた崩れはててしまった。

 精髄をなす塩をてのひらですくい上げて一舐めしてみる。

 全きの塩であったが、口にした途端、彼にとっての夕映えの都の防御殻であった破風の窓が消え去り、代わりに、感受性の豊かなものであれば踏み出すのを躊躇し譫妄状態に陥ってしまう魔的な図像が暗示めかす途方もなく伸びたきざはしが現出した。

 この階段をひたすら上ればUlhzthhotfof-rarthの偽膜を、夢見の門を抜け、下天へと、すなわち未来世に至れるに違いない。

 夢見し時は過ぎたり。もはや蒙は啓かれた。

「お供してくれるかな、メネス」

 再び抱きかかえられたメネスが無言のうちにざりざりと舌で舐りかえしてくる。

 それにしても。

 千の筆名をもつもの、とは。なんと仰々しいことか。

 それならば名など取り払い、無名の新人Rookie of Namelessとなりて恐怖のきざはしを掛けてやろう。

 恐るべき冷笑せしめたる舌鋒鋭きプロのインキュバスとして。

 

 一切は笑い、一切は塵、一切は無。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

筆名 甲斐ミサキ @kaimisaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ