プロのインキュバス
「あなたが
オーガスト・ダーレス翁がミスカトニック・ヴァレー神話を四元素に結びつけ
わたしは
わたしはそのような世界から参ったのです。
特徴を誇張し強調された結果、変形歪曲されたデフォルメを、人と化した魔神を、あるいは十六歳を自称する可愛いアーメンガード・スタッブズのように喜びの天国、女体化された魔書を。
本来はおぞましい怪奇幻想小説の雰囲気作りとして添えられた神話生物どもはいまや完全に
これが
ヤグサハ!
青白いお顔をなさって。せっかくのかんばせが。
愉快ですよ。だって痛快ではありませぬか。あらあら。いかがなされましたの?
売文家に身を落とすことのないようにですって。下天ではみながみな売文家とでも云うのでありましょうや。
たとえるなら、胡蝶がどろりと夢見し
否です。
否。
欺瞞なるもの、
面妖不可思議たる言語を発した、幾度となく邂逅したイロオジョンの貌は果たしてどうだったか。眼前の女性は何者なのだ。コーセラ・イロオジョンとは誰だ。
Ulhzthhotfof-rarthとはなんなのだ。
メネスが哭いた。違う。声を上げ嗤っているのだ。可愛い牡猫のメネスはなにかに変容してしまった。
アンモニア吸収式冷房装置を作動していないのにビッカースタフは異様な冷気に襲われ、にやにや嗤い続けるメネスを掻きいだいて破風の窓を見やった。
いつの間にか霧が色濃く立っている。
深い霧の向こう、ざわついた影が空を二つに分けている。いずれか一つは
旋回する舌状花弁がビッカースタフのプロヴィデンスをざくざく切り裂いている。
結晶群は真っ赤な苦痛を伴った血の雨となり、やがて嵐となって窓を穿たんとばかりに激しく
床にも窓外とは異なる朱の血だまりが出来ていた。
喉をしゃっくりあげながらイロオジョンが
血が滴る。嗚咽のたび、
満月に引き寄せられ満ちてゆく潮のように
狂想なるイロオジョンの眼窩から溢れでた血涙の量は人一人がおおよそ有しえる体液以上のもので、このまま手をこまねいてはやがては哀れなビッカースタフは溺れ死ぬことだろう。
「愉快でありましょうや?
売文家によってこそあなたの物語は広まり更なる売文家を産む。
ヤグサハ。
Ulhzthhotfof-rarthによって隔てられたあの世界に……、『プロのインキュバス』を語るあなたはいないもの」
溺れそうになりつつもビッカースタフは考える。イロオジョンの告白の意味を。
彼女はビッカースタフが生み、気づけば大いなる波濤となったミスカトニック・ヴァレー神話の広がりに喜びを覚えつつ、ではあるがその企図せぬ変容に憂いて涙しているのではあるまいか?
「何が云いたい。何を求めている」
「Cthulhu神話を思うのではなく、シオン……紫苑はあなたを思い、あなた自身のことを忘れない、そんな人間がいるということを知ってほしかった」
「私自身?」
「願わくば
一八九〇年。八月二十日。
生まれてより不遇のうちに身罷った私がまことの恐怖を齎せる。そう云うのか。
「面長のかんばせ、
時にローレンス・アップルトン。エリザベス・バークレイ。唯一のロマンス書きであったパーシー・シンプル。『占星術』について論説するアイザック・ビッカースタフ。あるいはメドゥサのジェレミー・ビショップ、スコットランド人の面影がよぎるアレクサンダー・ファーガソン・ブレア。公正なるものエル・インパルシアル。セルフ・パロディのジョン・J・ジョーンズ、風刺詩のハンフリー・リトルウィット。アーチボルド・メイネリング、アルバート・フレドリック・ウィリー、宗教と神について語ったマイケル・オルモンド・オライリーやヘンリー・パジェトニロウ、エリザベス朝時代を模したリチャード・ローリー、『哀歌』のエイムズ・ドランス・ローリー。ダモンに言及するエドワード・ソフトリィ、『生体解剖者』たるゾイルス、『這い寄る混沌』を招いたルイス・テオバルド・ジュニア、怪奇幻想詩のウォード・フィリップス。
きっとまだ知らぬ筆名をお持ちなのでしょう。
怪奇恐怖の祭司、あるいは未知なる外宇宙の観測者。千の筆名をもつもの。
ヤグサハ! 我らがハワード・フィリップス・ラヴクラフト!!」
激しいめまいの伴う茫漠とした記憶喪失ののち、我に返った彼のまえでイロオジョンがふたたび口を開くことはなく、朽ちていた。
痩躯を痛めつける冷気も首まで浸っていた血沼も消失したのち、彼の足元には人の形状をした精髄をなす塩だけが遺されていたのだ。
両腕の拘束からもがき逃れた拍子にメネスが飛びつくと、かつてイロオジョンであった塩の身体は砕け、薄紫に発光したる薔薇色の心臓が転がり落ち、脈を数度数える間にこれもまた崩れはててしまった。
精髄をなす塩をてのひらですくい上げて一舐めしてみる。
全きの塩であったが、口にした途端、彼にとっての夕映えの都の防御殻であった破風の窓が消え去り、代わりに、感受性の豊かなものであれば踏み出すのを躊躇し譫妄状態に陥ってしまう魔的な図像が暗示めかす途方もなく伸びたきざはしが現出した。
この階段をひたすら上ればUlhzthhotfof-rarthの偽膜を、夢見の門を抜け、下天へと、すなわち未来世に至れるに違いない。
夢見し時は過ぎたり。もはや蒙は啓かれた。
「お供してくれるかな、メネス」
再び抱きかかえられたメネスが無言のうちにざりざりと舌で舐りかえしてくる。
それにしても。
千の筆名をもつもの、とは。なんと仰々しいことか。
それならば名など取り払い、
恐るべき冷笑せしめたる舌鋒鋭きプロのインキュバスとして。
一切は笑い、一切は塵、一切は無。
(了)
筆名 甲斐ミサキ @kaimisaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます