筆名

甲斐ミサキ

アイザック・ビッカースタフ

 一九一四年より、これまで三十三万通余りのおびただしい書簡のやり取りにおいて成果があったとすれば、ビッカースタフにとってはコーセラCourseraイロオジョンerosionが第一であろう。蒙をひらかされた彼女とはドナルド・アルバート・ウォンドレイやフランク・ベルナップ・ロング、従弟のフィリップス・ギャムエル、サミュエル・ラヴマンらの強い推薦を受けて文通をやりとりし始めた。

 いっけん白紙に思えるが塩化コバルト六水和物ろくすいわぶつによる、あぶり出しによって淡いなる黄昏の宇宙そらを想起させんとす、どこか幾何学的な印象深い譫妄せんもうのなか藍色に浮かび上がりようやく読むことがあたう手の込み入った便せんに綴られた、寝苦しい夜ごと招来するふとどきな邪淫するがごとき妖魔インキュバスによる魂魄こんぱくの窮極的なる堕落や、実り豊かあれかしと闊達な真夏のプロヴィデンスに降り注ぐ燦燦さんさんとした曙光に秘められた、いやしくまことしやかに囁かれたる気だるげな老いをもたらす隠者の記憶喪失アムネジアについてなどの十四行詩ソネットなどより、かなりの年長者であるまいかと推察していたが、実際に会ってみれば花冠の似合いそうな黒闇闇ブルネットの猫っ毛、薔薇色に輝くおもてを伏せがちにビッカースタフへ向ける線の細さが印象的なうら若い、黄色味のある皮膚の肌理きめ細やかな東洋人の面影がある淑女であった。ふと、たもとを分かって久しいソニアの顔が束の間浮かび心騒いだが、同時にニューヨーク、ブルックリンでの情緒の欠片もあらぬ苦々しい喧騒が映画フィルムのように思い出され、すぐに脳内から追いやった。

 ああ、ああ、野心家たる一時の情炎、ソニア・ハフト・デイヴィス。

 かつての世、束の間の妻どの! またいつかの世でひょっこりと出会うこともあるだろうさ。

 かつてエドワード・ソフトリィやローレンス・アップルトン、そしてパーシー・シンプルを名乗っていたときのような、恋愛詩を茶化すような風刺を書くこともロマンス小説を書くことも、おのが自身、恋愛について血道をあげることも今はないだろう。なにせ熱量の対象は万神殿パンテオンに跳梁跋扈する異形の神々に向いているのだから。

 愛猫メネスの写真を同封したおり、の書簡の返信には『虹色の水煙をあげる銀水盤の噴水庭園。象牙造りの彫像の列。夕映えの都にて』とメモ書きされた写真が封入されていて、どのような手業であったか、それこそビッカースタフの海馬体を形成するたんぱく質ガーディンを外科手術で切り取って己の脳みそに移植でも果たしたものか、其の情景たるや、夢見るものランドルフ・カーターでもあるビッカースタフも訪ねたことのある、自分の根城を去ってまでして地球の大いなるものどもが棲みついてしまったまさしく夕映えの都そのもの。イロオジョンがおのが出自はヴィヴェルニアン・クファンジャルヌ大帝の御代に精髄をなす塩の結晶にやつしたハルピュイアの詩人にまで遡れると吹聴してみせていたのを、ビッカースタフには稚気のいたりに聞こえたのだけれど、ふうむ、時間はあるのだ。鍛え上げればケイレム・クラブに迎えられるかもしれん。すなわち選良たる我らが集いに。牡猫のメネスにヤクの肉片を与えつつ窓際の曙光に目を細める。やれ面白くなってきたぞと。

「恋愛小説家から怪奇文学作家へと転向しようと苦しんでいた猫っ毛シオンsion(シオンとはわたしの付けた愛称で彼女のお国の言葉で紫苑という夏から初秋にかけて周囲に薄紫の舌状花が一重に並び、中央は黄色の筒状花の花を咲かせる。わたしたちであればギリシア語源のAsterが親しいでしょう。)は若書きの勢いではなく熟考を重ねた推敲を好むところで、結果、ややもすると扁平で理屈っぽく妄執じみたくどい文章になってしまうところが恥ずかしながら、ご明察の通り、過去世のわたしと重ねられるのです」とビッカースタフは二〇〇七年に年初の挨拶を兼ねた書簡をサミュエル・ラヴマンに送っている。ビッカースタフと共にチームを組んで文章添削の仕事をしていたF・B・ロングは「ズィーリア・ビショップ女史の『墳丘の怪』やアドルフ・デ・カストロ氏の『電気処刑器』、早熟なロバート・ヘイワード・バーロウ君の『すべての海が』のように添削や改稿、合作をしてあげたらどうだね、未来世に我らが集いたりうるアーカムハウスに一千万ドルの雨あれかし」とそそのかされたビッカースタフは猫っ毛シオンに習作を書かせてみることにした。シオンはミスカトニック・ヴァレー神話にたいそう入れ込んでいるようで、Medium巫女が決して結ばれぬ片思いを成就させんとAzathothアザトース開闢かいびゃく以来の宇宙丸ごと生贄に捧げてしまう話であるとか、第二次世界大戦後に愛妻の元へ蝙蝠に似た思考を盗むものAtho-vallanathアト=バラナと成って還る男の話などの習作を送って寄越した。ビッカースタフは「貴君の筆走りはおおよそ未知なる恐怖をてらってみせているのだろうが商業的なメランコリックに偏りすぎる傾向がみられ、まことに僭越なる指摘で至極恐縮ではあるものの文体はわたしの作風の模倣パスティーシュに徹するきらいがあるようです」とラヴマンへの便りに書いたとおりの指摘をシオンにも施し、そしてF・B・ロングの提案を思い出しては、「一度、貴君の草案を読みたいものです。添削と改稿のたる私の手慰みに。もちろん貴君が必要とするなれば」と書簡にしたためた。

 書簡はすぐに返ってき、そこには、

『恋する男。乙女の心を射止めんとす。己の相貌が蟾蜍ひきがえるに似ていると指摘されるが好意的な感触。とある月夜、見知らぬ怪しげな店を発見。そこには蟾蜍に成ることの出来る丸薬が売っておりその効能は間違いなかった。男は会合で丸薬を飲んでみせたが蟾蜍には変化せず。次第に身体に変調を来たす。乾燥が苦しく、目の前にあるなんにでも食したる欲望止まらず。実は己が飲んだ丸薬の正体は時間遡行薬なのだった』

 シオンは恋愛を怪奇で転調させるのが好みらしく、いかにも彼女らしい草案で、「これを滑稽かつグロテスクに、出来るならば美文体で仕上げるつもりです」と熱心に言葉を紡いでいる。彼女が改めて草稿を送ってくるや、ビッカースタフはこれを元に時間遡行と遺伝子に関するカニバリズムで恐怖を煽る水妖譚、四千百二十語のサイエンスフィクションホラー、『Tne Humidity湿気』を仕上げてルイス・テオバルド・ジュニア及びコーセラ・イロオジョン名義の合作とした。そして「この物語は七十五パーセントが私の手になるものです。熟語、学究的、仄めかし、端的にいえば事実上無意味な集積物でありますが」とF・B・ロングに原稿を送り、商業誌での値を付けてもらうことにした。

「東洋の地理的風土や煩悶する怪物への変容に諧謔味かいぎゃくみがあるのは君らしくない、ということは彼女の草稿を活かしたのだろ。辛口にあえて、君に難癖つけたがるアメージング・ストーリーズのヒューゴー・ガーンズバック氏にならうとすれば、いかにもな作り話と拒絶するか、一字〇,二十五セントで計四ドル二十五セントというところかな。彼女の取り分は一ドル二十五セントで。そうそう、『宇宙からの色』が二十五ドルだったのを覚えているかい」

 忘れるわけがない。

 僅かな報酬も三度にわたる催促の後のことになったからこそアメージング・ストーリーズには二度と送るものかと誓ったのだ。溝鼠野郎ドブネズミヒューゴーめ。副編集長のC・A・ブラントから原稿の依頼があったとき、束の間検討してみたものの寄稿することはついぞなかった。溝鼠野郎ヒューゴーめ!

 ビッカースタフはロングとのやりとりを、いくぶん雄々しくなり溝鼠の肉片を噛みしだくメネスの姿を見物しに寄ったイロオジョンに伝えると、一九二四年初頭に執筆したおのがエッセイ『プロのインキュバス』を持ち出して、

「アマチュア作家たちは商業的大衆小説パルプ・フィクションをお手本だと鵜呑みにして無闇に模倣に走っているため、「アマチュア・ジャーナリズム」には優れた小説が存在しないのだ。貴君もパルプの世界に毒されて売文家に身を落とすことがないよう」忠告したが、イロオジョンは反芻はんすうしたのち、固くすぼんだ口唇を開いた。間を置かぬ歯擦音。

 つあは。

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