第4話 見習いメイドと全粒粉

「まず手始めに、ふたりで買い出しに行ってもらえるかな」

 契約に了承した手前、侯爵の願いを無下にすることもできず、渋々ジャクリーヌはアンリエッタとともに街へと繰り出した。

「それではクノー様。私はここでお待ちしております。いってらっしゃいませ」

「ど、どうも」

 街の中心部から少し離れたところで屋敷守の駆る馬車を降り、粗く舗装された道をしばらく歩く。ここからでも、川沿いに立ち並んだ工場や吐き出される煙がよく見えた。

「私、街に行くのがはじめてで、すごく楽しみです!」

「そうなのか。じゃあ今まで屋敷の食糧はどうしてたんだ?」

「グレースさんにお願いしています。そうすれば、大口の買い物でも受け取れるので」

 グレース・クレール。屋敷守の名前である。

「じゃあアンリエッタはずっと屋敷のなかで仕事をしていたってことか」

「お恥ずかしながら」

 言いつつもすっかり表情は緩みっぱなしで足取りも軽やかなアンリエッタだ。

「もう十歳だろ? 一回くらい街に行かなかったのか?」

「実は、その……」

 急にアンリエッタの顔が曇った。

「何か悪いことでも聞いたか?」

「いえ、そうではありません。私がこちらに来て、半年ほどしかたっていないものでして」

「ってことは、侯爵家にいろいろあったくらいか」

「私の親戚が侯爵様のもとで働いていたので、そのツテでこちらにお世話になることになったんです」

 とはいえ十歳は、メイドとして働くにはいくらか早すぎる。人には言いにくい事情が裏にあったとしても不思議ではない。

「そうか。アンリエッタもいろいろあったんだな」

「そんなことは……あははは……」

 気まずそうな彼女を見て、これ以上この話題を続けることはやめた。

「よし。今日は買い出しだけだし、ささっと終わらせて早く帰るか」

「わかりました。……はぁ」

 ひとつ、小さな体が大きなため息をついた。

「まだ何かあるのか?」

「は、初めての街だと思うとちょっと緊張しちゃって」

 察するところのある生い立ちや些細なことでも緊張してしまう幼い純朴さがいじらしくなって、ジャクリーヌはあえてぶっきらぼうに答える。

「いまから緊張してたら、身がもたないぞ」

 中心街を囲む城壁を一歩くぐれば、一段と人々や建築物の密度が上がる。足元には雑草一本たりとも生えない。

「すごい人……」

 鉄の歯車亭も並ぶ中央通りである。昼前ともなると、食糧を買いに来た主婦から、出会いを求めて歩き回っている若者から、声を嗄らしている商人までがごった返しだ。アンリエッタを先導しながら、人と人の間をすり抜けていく。

「このあたりだとあの暁の夕焼け亭が一番いい肉を売っている。かさばるから帰りに寄ろう。さてパン屋だが……」

 侯爵様のお口に合うようなパンを売る店などこのあたりにあっただろうか、と首を捻る。近世、製粉技術はまだまだ未熟でパンのほとんどは全粒粉から作られており、真っ白なパンなど貴族しか口にできない高級品だった。ジャクリーヌだって、ギャンブルの費用を捻出するためにごわごわな黒パンをピクルスの漬け汁にひたして飲み下しているくらいだ。そんな貴重品をあっさり客人に出してしまう侯爵家なのだから、パンは慎重に選ばなければならない。

 と、後ろについてきているはずの気配がない。

「おい、アンリエッタ? どこに――」

 幸い彼女はメイド服だ。白黒はこの人ごみでもすぐに見つかる。

「アンリエッタ。そこで何して――」

「ココー! ココー! ココはいらんかねー! パリジャンの味がするよー!」

 アンリエッタが足を止めて見入っていたのは、ジュース売りの移動商人だった。兵士と肉屋と大道芸人を足して三で割ったような服装で、頭には大きな皮帽子、腰には巨大な鈴のついたエプロン、真っ赤な上衣と声を荒らげなくとも非常に目立つ。彼をもっとも特徴づけているのは背負った大きな金属の筒である。この筒のなかにココという飲み物を詰め、売り歩いているのだ。

「ジャクリーヌ様、これ、飲んでみたいです」

「仕方ないな……」

「本当ですか、ありがとございます!」

 ジャクリーヌも時折飲んでいるものだ、毒ではない。高い買い物でもないし、アンリエッタがこれほど喜んでくれるのなら悪い気はしない。

「商人、ひとつ貰おう」

「へいっ。あ、ジャクリーヌ様じゃないですか。いつもありがとうございます」

「一ブラウだ。釣りは取っておいてくれ」

「恐れ入りますです」

 行商人は硬貨をポケットに突っ込むと、両手を後ろに回し、背中の筒から伸びた蛇口を起用に捻った。ほのかに白い液体が錫製のコップを満たす。

「ほら」

「あぁ、こんなのはじめてです……」

 錫製のコップを大層大事そうに両手で包みながら、ゆっくりと口につける。

「んん……? おぉ、さっぱり、してますね……」

 感動と拍子抜けの間を彷徨うように、微妙に眉が上下した。

 このココという飲み物、甘草で甘みをつけた水にレモン果汁を加えたものである。ほのかな甘みと酸味があり夏にはちょうどいい。パリ市街でも大人気になった飲み物なのだが、冷蔵庫がないため口当たりはぬるく、高級料理に慣れるとどうしても薄味に感じてしまう。

 それでも物珍しさから、アンリエッタはすぐに飲み干した。コップを商人に返しまた歩を進める。離れてしまわないようジャクリーヌのほうからアンリエッタの手を握った。やはり、冷たかった。

「あ、ジャクリーヌ様。あっちのほうからいい匂いがします」

「あれはウーブリーっていう焼き菓子だ。どうせ昨晩の残り物だから腹壊すぞ」

「ジャクリーヌ様、あそこの絵、勝手に動いてます!」

「透視画だ。複数の絵を重ねてる。手品みたいなもんだな。あんまり見てると見物料をたかられるぞ」

「ジャクリーヌ様、物知りなんですね」

「なんだかんだでこっちに来て七年だからな」

「そういえば、ジャクリーヌ様も田舎から出てきたと聞きました」

「ん、まぁな」

 あまり詮索されないよう短く返した。ちょうど折よくカフェの呼び込みが声をかけてくる。鉄の歯車亭が休みのときによく利用する店だった。

「クノー様じゃないですか! うちで一杯どうですか!」

「悪い、今日は用事があるんだ。また寄らせてもらう」

「どうぞご贔屓に」

 今度は車輪が石畳を削る音とともに、頭上から声が届く。

「ジャック様! こんどご一緒くださいまし!」

「そのうちな」

 離れていく馬車に手を振った。

「ジャクリーヌ様、人気者ですね……」

「物珍しいだけだよ。男装してる女なんていないしな」

「ふーん、そうですか」

「なんだよ」

「別にーなんでもないですー。――あ」

 するっとアンリエッタの手が抜けて、彼女の歩いていく先にはパン屋があった。朝方焼かれたばかりのブロウワールが軒先の棚に何本も積み上げられている。

「ジャクリーヌ様、パンが売ってますよ!」

「わかってるわかってる」

「いらっしゃい、メイドのお嬢ちゃん。見ない顔だね。おや、クノー様じゃないですか。とうとうお雇いになったんで?」

「いや、野暮用だよ」

 エプロンを腰に巻き、ところどころ炭で汚れている大男が出てきた。

「でもジャクリーヌ様、このブロウワール、焦げてませんか?」

 アンリエッタの指差すパンの山は、確かに黒っぽい。ブロウワール自体はフランスパンに似て表面が固く、細長い。が、全粒粉で作られているため色はフランスパンよりもはるかに濃く、白いパンしか知らない人間が見ると、焦げていると勘違いしても仕方がない。

「おう、お嬢ちゃん。うちのブロウワールを知らないのは悪いことじゃねぇが、人の仕事にケチつけようとはいい度胸だ」

 店主としては心外である。丹精込めて作った魂の商品を、不良品だと侮辱されているのだ。

「いえ、でも、これ、焦げ……」

「ああぁ?」

「あー、なんでもないなんでもない! 店主、これを一本もらおう!」

 状況を呑み込めないアンリエッタと、噴火する直前の店主との間にすかさず割り込み、ジャクリーヌは硬貨を二枚店先に置いてパンを一本、引き抜いた。幼いメイドは左脇に抱え込むようにして、屋敷守のところまで走って逃げた。生粋の職人は怒らせると怖い。

「おかえりなさいませ」

 肩で息をするジャクリーヌに対しても、グレースは相変わらず慇懃に頭を下げた。

「グ、グレース。聞くのを忘れたんだが、侯爵家ではどの店のパンを食べてるんだ?」

「琥珀のお宿亭です。普段は私が伺っております」

「やっぱり……」

 街では知らぬ者のいない、王族御用達の超高級パン店だ。価格帯は巷の店の十倍ほど。そんな店のパンしか知らないのであれば、全粒粉の黒パンなど焦げているとしか思えないだろう。

「あの、私、何かやっちゃいましたか……?」

「いや、うん、これは事故だ……」

「クノー様。よろしければ琥珀のお宿亭には私が参りましょうか?」

「そうしてくれ。アンリエッタ、屋敷にスパイスとか野菜はどれくらいある?」

「えっと、スパイスは大方揃っていたはずですが……」

「野菜類は乾燥玉ねぎくらいしか残っていません」

 戸惑うアンリエッタに、グレースが付け加えた。

「そうか。じゃあわたしはパン以外を見繕ってくるよ。アンリエッタ、もう一度行くぞ」

「は、はい!」

 せっかくだから全粒粉のブロウワールによく合うシチューの材料を買って帰ろう。ちょっとした勉強だ。無事に屋敷に戻ったのは、さらに二時間ほどしてのことだった。

 ようやく落ち着いて侯爵と話したとき、彼は愉快そうに車いすの肘掛けを引っ掻いた。

「随分苦労をかけたみたいだな」

「メイドの相手をしてほしいと仰ったときになんとなく予想はついていましたが……。まさかここまでとは」

 アンリエッタの年齢やひとつひとつの所作を考えれば、メイドとしての経験が浅いことは明らかだった。

「はじめは、わたしとメイドを一緒にすることであなたに危害を加えるのを防ぐのだとばかり思っていましたが、それならわたしをこの屋敷に近づけなければいいわけですし、そもそもそのような狡いことを侯爵がするわけがない」

「いろいろな事情も重なったことだ。彼女にメイドとしての所作を教えられるものがこの屋敷にはもういない。君なら、庶民暮らしの時期もあったのだし、巷の風俗にも私よりは詳しいだろう」

「はは、メイドの教育係にはちょうどいいでしょうね……」

 乾いた笑しかでないほど疲れ切って、椅子に深くもたれた。子供の相手は疲れるものだが、ギャンブルの疲れよりはいくらか健全な気がした。こうやって健全に疲れたのはいつぶりだろうか。少し懐かしい。

「ジャクリーヌ様、シチューができました!」

 夜、アンリエッタが無事にシチューを作り上げたものの、肉は堅いし味も水っぽい。まだまだ修行が必要らしかった。

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