第3話 サンドイッチと年金拠出人
近世の車いすは、現代のような四輪でもなければ、後輪を手で回せるつくりでもなかった。文字通り椅子に車輪がついているだけで、他人に押してもらわなければ動くこともかなわない。
「情けない姿を見せて申し訳ない。何年も脚が悪くてね。外に出ることもめっきりなくなった」
「お会いできて光栄です、侯爵」
「私も光栄だ。君の噂は聞いている。田舎から出てきてクノー家に養子入りし、遺産を受け継いだのが……」
「三年前です」
「そうだった。以来、放蕩生活らしいな。その男装には意味があるのかね」
「この格好のほうが、賭場やカフェに入りやすいんです」
「確かにその通りだ」
旗色が悪い。身辺調査を受けている気分だ。日々の放蕩生活を諌められると逃げようがない。不良の烙印を押されているのは明らかだった。
「まぁいい。せっかくここまでお越しいただいたのだ。こちらのもてなしくらいは楽しんでいってほしい」
「い、いただきます……」
完全に侯爵のペースに飲み込まれている。たった二言三言で行動すらも規定されている。おとなしくテーブルに向かい、紅茶と軽食の歓待を受けるよりなかった。
紅茶はやはり上等なものだ。本場英国の純粋無雑な香りがする。屋敷守の淹れてくれたものを軽々と上回ってきた。
それよりもジャクリーヌが目を惹かれたのは軽食のほうだった。一口大に切りそろえられたサンドイッチ。純白のパンに挟まっているのは一ミリあるかどうかという厚さの、薄い緑色。
胡瓜のサンドイッチである。
ジャクリーヌは躊躇わず口に放り込んだ。小麦の香ばしさ、バターの芳醇さ、何より胡瓜独特の青臭さと瑞々しさが鼻に抜けていく。バターが添えられているとはいえ味の薄い胡瓜が主役の淡白な料理である。が、それが美味い。酢と砂糖と塩でくたくたになったピクルスではない、自然のままの野菜の味がここにあるのだ。美味くないわけがない。
「気に入っていただけたかな」
「えぇ、とても」
屋敷守で経験した幸運など忘れて、素直にこの青臭さを満喫する。侯爵もメイドも、この反応には気をよくしたようだった。
先ほどと一変してすっかり打ち解けた雰囲気になったが、胡瓜のサンドイッチに秘密がある。
産業が発達すれば農地が減り、新鮮な野菜は貴重になる。新鮮な野菜を手に入れられるのは、金か、農地や温室を持つ富裕層に限られた。なかでも胡瓜は欧州の気候では育ちにくく、一層貴重であった。貴重な胡瓜を供するのは一種のステータスとなった。
食材としての性質もあげられる。胡瓜は水分が多く、サンドイッチにするとパンを濡らしてしまう。裏を返せば、パンが乾いている胡瓜のサンドイッチは作りたてであり、客人のために作ったのだという心意気を示すにはうってつけだ。胡瓜を薄くスライスすることで腕のいい料理人を使っていることも言外に伝えられる。
こういったことから、胡瓜のサンドイッチは歓待の料理として重宝された。
日々ピクルスに飽き飽きしていたジャクリーヌはこれ以上ないもてなしに気をよくし、数切れのサンドイッチをあっという間に平らげてしまった。
「さて、そろそろ本題に入らせてもらおうか」
「……はい」
左手をナプキンで拭い、紅茶で喉を湿らせる。
「そこの窓からも見えるだろう。ほんの一部ではあるが薔薇礼々の平原だ」
視線を外へ向けると、藪や湖のはるか向こうに小高い丘がある。ほのかに黄色く色づいた丘だった。
「……荒れてますね」
ジャクリーヌは目を細めた。初夏にもなっていないというのに、丘は黄色いのだ。
「わかるかね」
侯爵は客人の反応を見て、わずかに声を上ずらせた。
「この季節なら、もっと青々としていいはずです」
「その通りだ。もとはあの一帯も小麦畑だった。本来なら、まだ実りがはじまる時期だ」
「それが、あんなに黄色く……」
「何年か前まで抱えていた農家たちはみな工場に勤めるようになってしまった。そのほうが稼げる、農業の時代はもう終わった、などと言ってな。今ではあの地を耕すどころか、手入れすることすらままならない。残ったのは、伸び放題の雑草が夏の暑さにやられてできた、枯草の丘だ」
「それでも……侯爵家ともなれば国からの年金がいくらかあるのではないですか」
「人を雇うのは君が想像する以上に金がかかるのだ。それだけではない。一族はひとりを除いて死に絶えた。仕えている者も、このメイドと屋敷守のふたりだけとなってしまった。薔薇礼々侯爵家に未来はない。ただでさえ仏蘭西での動乱を受けて王政が揺らいでいるのだ。貴族に年金をやる余裕など国にはないさ。せめてもの情けのつもりか、いくらか色を付けて土地を買収したいという話は来た。工場を建てたいらしいな」
「ずっとこの国の食糧を支えてきたっていうのに……」
「国などそういうものだ。英吉利の繁栄を見たか? 追従したくない国などない」
「……ですが、侯爵は買収には応じていない」
「意地だよ。時代は変わりつつある。旧来の制度にしがみついているのは私が最後かもしれない。だが君が言ってくれたように、国を支えてきた自負は私にも、この一族も持っている。すぐさま工場を建てるような輩に売るつもりはない。もっとも、最終的には所有者の自由だが」
「そこまで言っていいのですか」
驚きの声を上げたのはアンリエッタだった。侯爵のすぐ隣で、大きな瞳を丸くしている。侯爵は彼女には何も言わず、首肯だけを返した。
「はい……そうですね」
侯爵の意図は伝わったようで、メイドもはにかむように唇を噛んでうなずいた。
「あの……?」
「こちらの話だ。彼女の了承も取り付けた。君に支払能力があるのなら、ぜひ年金拠出人として迎え入れたい」
「ほ、本当ですか? でも、どうして……」
選ばれた喜びよりも、戸惑いのほうが大きかった。最初の会話で旗色の悪さを感じていたのに、どこでどう変わったのだろうか。
「窓からの風景を見たとき、国の役人も、土地につられたそこらの投資家もみな一様に、いい土地だ、広大で雄大な土地だ、工場を建てれば莫大な収益が望める、そうやって誉めそやすことしかしなかった。薔薇礼々が荒れ果てていると気づいたのは君だけだった」
「たったそれだけで」
「充分だ。そこに目が行くような人間が、すぐさま工場を建てるとは思わない。それに先も長くないのでね。君で妥協するのがいいところだろう。それに縁もある。君の出身は薔薇礼々なのだろう?」
「あの丘から、北東にいくらか行ったところですが」
「北東は特に実りのよかった地だ。だからわかったのだろうな」
「毎年夏には金色の畑の中で過ごしていました」
「君は適任だよ」
「あの、私からもよろしくお願いします!」
念を押すように、アンリエッタも勢いよく頭を下げた。虚を突かれたが、ジャクリーヌは肯定的な返事をした。
「さて、ここから契約内容について話そう。こちらが望む額は、日に一千ブラウ」
この国の通貨であるブラウは、ブロウワールというフランスパンに似たパンが基準になっている。一ブラウで、成人男性が一日に食べる量のパンが購入できる。現代の価値に換算すると、およそ五百円といったところか。
つまり一千ブラウとは五十万円。日に五十万。月に千五百万。
一年で四十万ブラウ、およそ二億円。
「安くはないですね」
勘定が頭を巡って唾を飲んだ。侯爵家の最盛期を考えるとこれでも破格に安い。だがジャクリーヌにとっては安くない。考えれば考えるほど、ギャンブラーの血が熱くなる。
「やめるのならそれでも構わないが」
「いえ。ベット額を考えるのは職業病なので。久しぶりに大金のかかったお話ですから」
「なるほど。十年分なら払えない額ではあるまい。クノー家の遺産がその程度だったはずだ」
「お言葉ですが侯爵。投資とギャンブルでほぼ十分の一にしてしまいました。もって一年です」
「それは真か」
侯爵は怒るどころか、声を弾ませて笑い出した。
「クノー家が百年を費やし血のにじむ思いで築いた五百万ブラウを、たった三年で蒸発させる女性がいるとは」
「この時勢、ろくな事業家も企業もありませんので」
「まったくだ。やはり農業は死なんよ」
それからも、細かい決まりごとが確認された。支払方法、支払先、支払いの期限、万が一ジャクリーヌの資産が尽きた場合はどうするか。
「その時は申し訳ないが路頭に迷ってもらう。いいな」
「はい。それでこそです」
下手な情はない。侯爵もギャンブルを十二分に心得ているらしい。
「一年以内に一族の血が途絶えれば君の勝ち。君の財産が先に尽きれば、一族の余生がわずかばかり豊かになるだけで、いずれこの薔薇礼々も時代に飲み込まれる。それでいいな」
「異存はありません」
後日、公証人を迎えてジャクリーヌと侯爵との間に正式な契約書が交わされた。
「まったく、こんなに桁違いな年金契約ははじめて見ましたよ」
契約書を仕上げた公証人は、たった数時間で別人のようにやつれてしまった。そんな彼を送り届けたのは、屋敷守の駆る馬車だった。
「なぜ最初の日は乗せてくれなかったんですか」
後日ジャクリーヌが屋敷守に尋ねると、
「そのほうが屋敷の様子をご覧いただけますので」
料理から御者から外交から、そつなくこなす屋敷守を見るたびに、あの胡瓜サンドイッチも実は屋敷守の作なのではないかという直感を覚えた。が、深く考えることはやめた。
「侯爵。これでわたしは正式にあなたの年金拠出人となったわけですが、これから何をすればいいのですか? 毎日ここにきて、あなたの話し相手でしょうか」
「私には構わなくてよい。それよりもアンリエッタの相手をしてやってほしい」
「……はい? メイドの、ですか?」
ろうそくが灯る食堂を、アンリエッタがジャクリーヌめがけてとてとて駆け寄って来た。表情は真剣さと嬉しさが混じったようで、眉に力が入っている。上気しているのか呼吸も浅い。
「よ、よろしくお願いします、ジャクリーヌ様!」
はじめてアンリエッタは、ジャクリーヌのことをファーストネームで呼んだ。
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