最終話 煙と胡瓜

 馬車の車輪が泥を撥ね上げる。

「どうしてこんなことに」

「店の前でずっとクノー様を待ってらっしゃったんです。わたしはメイドですから、と仰って」

「わたしのせいで……」

 アンリエッタの熱い呼吸が胸に深く突き刺さる。

「いえ。アンリエッタ様のご判断ですから。……それに、お顔をよくご覧になってください」

 鞭をひとつ入れる。加速した勢いに任せて車体が揺れた。アンリエッタの顔を水がつたい、化粧が流れ落ちていく。その跡は、黄味がかったくすんだ色をしていた。

「黄疸じゃないか。それも重度の……」

「詳しくは、侯爵様よりお聞きしたほうがよろしいかと」

 やはり侯爵家が民間に年金をせびる裏には事情があったのだ。だが、こんなことは予想していなかった。

「落ち着いたかね」

「はい。ひとまず眠っています」

 屋敷に戻り、アンリエッタをベッドに寝かせる。ネグリジェで包まれただけの小さな胸元は不規則な呼吸に合わせてしきりに上下し、見ているだけで不安を掻き立てる。

 そこに、侯爵が入ってきた。自らの脚で歩いて。

「こ、侯爵……立って……? 足が悪かったのでは」

「ここではなんだ。別室で話そう。グレース、後は頼めるな」

「かしこまりました」

 軋まぬように扉をそっと開閉しながら隣室へ移ると、侯爵は突然、頭を深く下げた。

「ジャクリーヌ……いえ、クノー様。これまでのご無礼の数々、真に申し訳ございません」

「こ、侯爵、いきなり何を。頭を上げてくださいよ」

「それには及びませぬ。私は、侯爵ではないのです」

「……え?」

 ジャクリーヌはこの屋敷に来てからのことがすべて根本から崩れ去るような気がして、何も考えられなくなった。

「私の本当の名前はジルベール・オーベル。侯爵様にお仕えしていた執事長にございます」

「執事長……半年前に死んだって、公証人役場で……」

「話は半年前に遡ります――」

 一年で最も寒い日だった。同時に、一族が侯爵に叙された日でもあり、侯爵家にとっては大切な日だ。祝わないわけがない。先代の趣味が高じてここ数十年は船旅と祝賀を兼ねるのが恒例となっていた。それが悪かった。例年にない嵐が重なり船は沈没。真冬の海を泳ぎきれる者などいるはずがない。

 難を逃れた者は三人だけ。侯爵家の四女エレオノールが流感で体調をひどく崩した。看病を名乗り出たのが、執事長のオーベル、そして屋敷守のグレースだった。

「じゃあそのエレオノール嬢が、あのメイドってことに……」

「仰る通りでございます」

「待ってくれ……。つまり、執事長だったお前が侯爵になって、侯爵家の娘だったエレオノールがメイドのアンリエッタになった……。なんでそんな厄介なことを」

「家長をはじめ侯爵家のほとんどがお亡くなりになり、残ったのが齢十の娘ひとりとなると、この家はもちろん侯爵領を巡って混乱が起きかねません。もちろん、エレオノール様に危害が加わる可能性もあったことでしょう」

 そこで、侯爵であるフランク・D・ロゼウェルトは脚の不自由から船旅には参加していなかったということにした。脚の不自由と、高齢により家業を長男に継いでいたことから、侯爵はここ数年めっきり外出をしなくなった。また執事長も高齢を理由に屋敷内のことにかかりっきりであった。執事長が侯爵に成り代わったとしても、勘付く者は少ない。もし侯爵家の内情に詳しい者が来訪した場合も、グレースに対応を任せておけば問題はない。

「そんなに簡単にいくのか」

「知らない者には通用するのです。人というのは、いち個人よりも肩書に目がくらんでしまうものですから」

 侯爵家の生き残りであるエレオノールに関しては、執事長の遠い親戚であるアンリエッタを家庭の事情から呼びつけたということにした。侯爵家を名乗らないのは身の安全を考えてのことだった。

「けど……ア……え……アンリエッタはそのときにはもう病気だったんじゃないのか。あの黄疸のひどさはそう考えるしかない」

 逡巡した挙句、ジャクリーヌは呼びなれた名前を呼ぶことにした。

「もとよりお体が弱かったのです。そこに、家族を失った悲しみや孤独、エレオノール様には過酷すぎました。流感もどうにか治りかけていたというのに、気の病から長引き、もともと弱かった肝臓がまったく……」

 肝臓が不全に陥れば黄疸が出る。肌も荒れる。眼球にも色がつく。

「だからって、なんでメイドとして働かせていたんだ。そんなことをさせていたら、治る病気も治らなくなる」

「エレオノール様の病状はもはや治るものではありません。余命はもって一年だろう、と」

「一年しか生きられないんだったら、なおさら安静に――」

「それで、どうなるというのでしょう」

 ジャクリーヌの正論に、ジルベールは冷や水を浴びせた。いや、また別の、熱いものだった。

「どうせ死ぬと決まっている余生を静かに、平穏に、無為に過ごすくらいなら、せめて死ぬまでの間、エレオノール様が望むように過ごしていただきたかったのです。エレオノール様はメイドをお望みでした。お体が弱く、外の世界を知らないエレオノール様が知っていた唯一の職業がメイドだったのです」

 だがジルベールは脚の弱い侯爵に成り代わっているのだから、彼女を外に連れ出すこともできない。グレースには門番として客人を選別する役割がある。

「そのために、年金拠出人という建前で、エレオノール様のお望みを叶えられる人間を探したのです。若く、文化に理解があり、資金もある。クノー様はこれ以上ないお方でした」

「いいように使われたな……」

「申し開きもございません。ですが、あなた様と出会ってからのエレオノール様は、本当に毎日が楽しそうでした」

 ため息が漏れた。長く重いため息が、余計に体を重くした。頭をくしゃくしゃに掻き回して、ようやく言葉が見つかった。

「ギャンブルに勝ったんだな」

「はい」

 金と命を賭けたギャンブルだとばかり思っていた。自身と侯爵のギャンブルだと。

 実際は、命と人生を賭けたギャンブルだった。それもアンリエッタと病気のギャンブル。

 ジャクリーヌが張り合いを覚えなかったのもそのせいだったのだろう。はじめからジャクリーヌはこのギャンブルに参加などしていなかった。侯爵領などただの買い物だった。

 そして、アンリエッタは賭けに勝った。命が尽きる前に、ジャクリーヌと出会った。

 病気は負けたのだろうか? 否、アンリエッタの体を蝕み続けている。

 負けたのはジャクリーヌだった。ジルベールの計画にまんまと乗せられ、アンリエッタの人生に花を添えたのだから。

 ギャンブルに負けた者としての所作はわきまえているつもりだった。

「侯爵……いや、ジルベール。わたしはこれから何をすればいい」

「願わくば、最後までエレオノール様のおそばに」

「わかった」

 アンリエッタが目覚めたのは二日後の朝だった。

「おはようございます。ジャクリーヌ様」

 かすれてはいたが、穏やかな声だった。すべてを理解し受け入れた者だけが発する言葉だった。ジャクリーヌは努めて平時の振る舞いをした。

「おはよう、アンリエッタ。何か、やりたいことはあるか?」

「外に出たいです」

 車いすに乗せて押す。初夏の風が吹き抜ける、よく晴れた朝だった。手入れの行き届いた花壇には、細い蔓から伸びた黄色い花が咲いている。

「胡瓜の花が見頃だな」

「はい。実はあの日のサンドイッチ、グレースが作ったものだったんです」

「そんなことだろうと思ってたよ」

「わかってたんですか」

 あてもなく話しているうちにも、アンリエッタの声は少しずつ弱っていく。

「そういえば、聞けなかったジャクリーヌ様の昔のお話が聞きたいです」

「わかったわかった」

 この時代にはよくある話だった。

 両親は仏蘭西生まれ。革命を目の当たりにした両親のおかげで教育水準は高かった。幼くして地方の下級貴族に子供の家庭教師として雇われ、いくらかの日銭を稼いだ。ところが仏蘭西からの出奔に際して体を患っていた母親が急逝、父親も酒に溺れてやがて死んだ。

 労働者の増加に伴って欧州の教育水準が上がると、家庭教師をするのも難しくなる。雇い主の下級貴族が気を利かせて、不荒緑での働き口を見つけてくれた。そのときともに出てきたのが、下級貴族にメイドとして仕えていたフロレンスだった。ふたりは十七歳だった。

 初めはジャーナリスト、そのうち文筆家としても働いたが、女性としての職はどうしても限られ思うように稼げない。どうにか仕事を得ようと男装さえした。すると、社交界で話題に上るようになった。男のマネをしている田舎娘がいる、と。これが転機だった。

 ジャクリーヌは身銭を切って社交界に打って出た。社交界でのし上がるためには、金、家柄、容姿、素養、機転、その五つが必要だといわれる。顔はよかった。ラテン語も読み書きでき、貴族のもとで働いた経験からそれなりの素養もある。一方で、田舎生まれのために金と家柄はなかった。だが、この二つを手に入れる方法がないではなかった。

 次のは未亡人だった。子供のいない未亡人と結婚や養子縁組をすることで、資産と家督を継ぐ。若者は自らの容姿、素養、機転で老人を楽しませ、代わりに老人は家柄と金を気に入った若者に合法的に譲り渡す。現代の倫理観にはそぐわないが、近世の社交界では、才能のある若者が飛躍する手段のひとつとして認知されていた。

 ジャクリーヌはクノーという老婆に気に入られ、養子縁組をすることができた。十九歳になっていた。金にも家柄にも手が届こうかというときに、貧しい生活を支え合っていたフロレンスが帰らぬ人になった。あと一歩というところで、都会での暮らしに潰れた。

 二年が経ち、クノーの遺産を引き継いだジャクリーヌは、そこから三年間、ギャンブル漬けの生活を送る。

「ジャクリーヌ様のこと、納得できた気がします。できれば、不荒緑に来る前のことをもっとお聞きしたかったですけど。薔薇礼々にお住みでしたものね」

「別に、面白いことなんてないさ。虫は出るし、山と麦畑しかないし」

「麦畑……実りの季節にはさぞ綺麗だったのでしょう」

「まぁな」

 金色に揺れる麦の波を思い浮かべているのだろう。

 それが最後の会話だった。ジャクリーヌは車いすの持ち手を少しだけ強く握って、放した。胡瓜の花をつむと葉に薄く粉がふいている。おとといの雨から一日少しでこれほどの煙をかぶったらしい。煙と胡瓜が、自分の人生も、アンリエッタの人生も、荒れ果てた薔薇礼々の地をも物語っているようだった。

「クノー様」

 ジルベールが声をかけてきた。平坦な語調だった。

「ただ今をもちまして、薔薇礼々はあなた様のものとなりました。侯爵家の遺産もいずれ相続されましょう。では、エレオノール様をお連れいたします」

「待ってくれ」

 車いすを押そうとする元執事長を呼び止めた。

「ジルベール。わたしのもとで働かないか」

「私を、でございますか? 失礼ながら、もう満足に動ける体ではございません」

「わたしが欲しいのは執事としてのお前じゃない。お前のギャンブルの才能と、薔薇礼々への思いだ。二倍、いや、十倍出す。グレースもだ」

「薔薇礼々への思い、ですか」

 ジルベールは見事、アンリエッタを勝利に導いた。それだけではない。――国の台所を支えてきた自負、すぐさま工場を建てるような輩には渡したくない。それは侯爵家の思いを継いだものなのか、それともジルベール自身の思いでもあるのか。どちらにせよ彼は、際限なく訪れる国や資産家の産業化という餌を払い続けた。グレースもその思いに沿い続けた。そういった人間が、ひとりでも欲しい。

「わたしは決めた。薔薇礼々を、農作地として甦らせる」

 故郷で見た景色を甦らせるために。

 アンリエッタが綺麗だと願った景色を甦らせるために。

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