第5話 ジャックとダイヤ

 メイド見習いのアンリエッタに振り回される日々が二週間ほど続いた。いろいろとおかしい。ジャクリーヌが気づいたのは、最近のあらましをマリーに話していたときだった。

「いくらなんでもギャンブルとして張り合いがなさすぎる!」

「……ダメだこりゃ」

「考えてもみろ。わたしは全財産、侯爵は命。それぞれこの世でもっとも大切なものを賭けているんだ。それなのに、侯爵は毎日のんびり過ごしているし、わたしに至ってはメイドのお守りだ! これのどこがギャンブルだ!」

 テーブルに乗せた拳がぶるぶると震え、指の腱も立っている。二週間、アンリエッタの相手ばかりしてきたために、以前は毎日のように通っていたギャンブルもすっかりご無沙汰だった。禁断症状である。

「たまにはいいんじゃないか、ギャンブルから離れるってのも」

「いいや。ギャンブルをしていないわたしなど卵のないプディングといっしょだ」

「ばあ様が聞いたらどう思うか」

「か、関係ないだろ」

 露骨にジャクリーヌの声がしなびる。

「メイドの相手だって懐かしいんじゃないのか?」

「昔のことを引っ張り出すな!」

 そんな反応が面白くて、マリーはひっひっひと肩を震わせた。

「そういえば私、ジャクリーヌ様の過去のことをほとんど存じ上げていません」

 テーブルの陰から小さなカチューシャがぬっと飛び出した。

「うわっ、アンリエッタ! いきなり出てくるな!」

「お、アンリエッタ。買い物ご苦労さん」

「マリーさんもご機嫌麗しゅう。それで、ジャクリーヌ様の過去のことなのですが」

「とりあえず七年前のことなんだが――」

「やめろやめろ」

 にたついた語り口も、体を乗り出したジャクリーヌの手によってふさがれる。アンリエッタは少し残念そうだった。

「ひひひ、まぁそういうこった。あんまり触れてやるなよ」

「はぁ、わかりました」

「わかったなら帰るぞ!」

「あ、待ってください! マリーさん、失礼しますっ」

 しかめっ面を作りながら、ジャクリーヌはアンリエッタの手を引いた。

「おー、またなー……って、ジャック! 金払え!」

「ツケだツケ」

「ギャンブルの負けは絶対に払う癖にコーヒー代はツケるのかよ!」

 という叫びもむなしく、ジャケットとメイド服は雑踏に紛れ込んでいった。ジャクリーヌの歩調は荒い。身長差のせいでアンリエッタは自然と小走りになった。

「あ、あの、ジャクリーヌ様」

「なんだ」

「も、もう少しゆっくり歩いていただきたいのですが……」

「あぁ、す、すまん」

 あわてて立ち止まる。アンリエッタの息はすっかり切れて、何度も唾を飲み込む。幸い雲が空を覆っていて、それほど暑くはない。

「どこかで休憩するか? あそこでココも売っているが……」

 あたりをざっと見渡せば、商人もカフェもティーハウスもいくらでも目に入る。

「あっ……」

 もうひとつ、苦々しいものが視界の端にあった。ジャクリーヌが五年前まで間借りしていたアパルトマン。

「いえ……すこし休めば大丈夫ですから。すいません」

「そうか……わかった……」

 できることなら早くここから立ち去りたかったが、息が切れているアンリエッタをすぐに連れ去るわけにもいかない。頬の裏がますます苦くなってくるのだが、ちょうど視界を遮るように一台のカブリオレが止まった。一頭立ての二人乗り二輪馬車である。御者は真新しいジャケットを羽織った青年。その隣にはドレスで着飾った女性。

「ジャック様ではありませんこと」

「イザベル……また真昼間から男か」

「淑女のたしなみですわ」

 ジャクリーヌのギャンブル仲間のひとり、トルイユ家四女、イザベル・トルイユだった。おおかた馬を扱える若い金持ちに馬車を買わせて、市街周遊とでもしゃれこんでいるのだろう。

「そちらが噂に聞くメイドですのね」

「アンリエッタ・オーベルと申します。トルイユ様」

 編み籠をひじに提げたまま、頭を下げるアンリエッタ。

「いつの間にそこまで噂が広がったんだよ……」

「そちらの小娘にかまけてお会いくださならいものだから、イザベルは寂しゅうございます。次にお会いできる日を今か今かと心待ちにしておりますのに」

「その猫なで声をわたしに使うな。近いうちにまた邪魔するから」

「今すぐでなければイザベルは嫌でございます」

「また急な……」

 御者の青年もこうやってたぶらかされたのだろう。

 絶好の機会ではある。長らく離れていたギャンブルへの熱、そしてすぐにでもここから離れたいという衝動。このあたりの機微をイザベルに見抜かれているのではないだろうかというほどの適切さ。実際イザベルはそういった眼力をギャンブルにも生かしている。

 ただ、連れ人もいるわけで、そちらのほうをちらりと見た。呼吸は整っているようだ。

「わたしは屋敷を離れても構わないな、アンリエッタ?」

「はい。特に決められてはいないはずです」

「それじゃあイザベル。アンリエッタを返したらすぐに行く」

「私でしたらひとりで戻れます。このところ私のことでご迷惑もおかけしていますし、ジャクリーヌ様はトルイユ様とご一緒なさってください」

「いや、それは……」

「小娘ながらよくできたメイドではありませんか。そうと決まればさっそく向かいますわよ、ジャック様!」

「あ、ああ……」

 馬車から颯爽と飛び降りたイザベルがジャクリーヌの腕に抱きつき、引っ張るようにして歩き出す。アンリエッタは満面の笑みを浮かべて見送った。

「いってらっしゃいませ、ジャクリーヌ様」

「楡の木陰亭にいるからな!」

「ちょ、ちょっとイザベル! 僕との約束はどうするんだい!」

「急用でしてよ。あなたはお帰りくださいまし」

「そんな、ひどい!」

 約束を反故にされた青年に同情を覚えつつも、久しく離れていたギャンブルにジャクリーヌの鼓動は逸っていく。楡の木陰亭に足を踏み入れると最高潮に達した。

 店内はろうそくの光だけで昼間だというのに薄暗く、コーヒーの香りがうっすらと覆う。入口付近はカフェらしくスタンドが並び、奥にはギャンブルのためのテーブルが備え付けられている。すでに興じている客も何人かいて、服装を見るにみな富裕層だ。鉄の歯車亭に比べると客層は上流に偏っている。金持ち向けのギャンブルカフェといった趣だ。

「ジャック様、お久しぶりでございます」

「いつ振りかしら。嬉しいですわ」

「久しぶり。忙しくて来れなかったんだよ」

 すぐさま数人の貴婦人や貴族の娘たちがジャクリーヌを取り囲んだ。愛想よく受け答えをしつつも、さきほど別れ際のアンリエッタを思い浮かべてしまう。満面の笑みを浮かべていたが、どこか違和感を覚えるアンリエッタを。

「ちょうど人数も揃っていることですし、はじめましょう。プリブランでいいですわね」

「構わないよ」

 イザベル、ジャクリーヌに続いて三人の女性が席に着いた。合計、五人。

「私からはじめますわ」

 イザベルが五人のプレイヤーに三枚ずつトランプを配る。残った山札はテーブルの中央に置き、上の一枚だけを表にした。ハートの六だった。

 プリブランはジョーカーを除いた五十二枚のトランプで行われる。ポーカーの源流になったといわれる伊太利のプリメロ、仏蘭西のブルラン、英吉利のブラグといったゲームをごた混ぜにしたようなルールだ。

 簡潔に言えば、三枚ずつ配られた手札と場に開けられた一枚の場札で役を作る、四枚ポーカーである。ディーラーがカードを配り、その左隣のプレイヤーから順番に、場代だけを出す降りか、チップを提示する賭けかを選択する。ひとりを残して他が降りた場合はそのひとりが、最後のふたりが既定のチップを提示した場合はより強い役を作った者が、勝者となりチップを総取りする。勝者が決まればディーラーは左隣に移り、カードを配るところからまたはじめる。この一連の流れを、プレイヤーたちが飽きるまで続ける。

「最近はすっかり侯爵家にご執心ですのね。ご老人のお相手はお得意ですものね」

「やめてくれよ、イザベルまで。さっきさんざんマリーに言われたところだ」

「たまの息抜きもいいものですわ」

「マリーだけはずっと変わらないからな」

 一週目でふたりが降り、掛け金はひとりチップ四枚。チップ一枚は二十ブラウ、約一万円になる。イザベルはチップ五枚をだし、ジャクリーヌが六枚に上げる。

「すっかり侯爵気分ですわね。家長になれば、俗世にはそうそう降りてこられませんわよ」

 もうひとりの参加者が降り、ジャクリーヌとイザベルの一騎打ちになる。イザベルがチップ六枚を出したのを見て、さらに十二枚のチップが出される。一騎打ちになった後、どちらかが二倍のチップを出せば手札を開示しての勝負となる。

「別に侯爵家を継ぐつもりはないさ。プントの六」

「あら、そうですの。プリミエラ」

 プントは役なし。プリミエラは三枚の手札と一枚の場札すべてのスートが異なる。もちろんプリミエラのほうが役として強い。

「では、侯爵ではなくひとりの大地主になると」

「そういえば、それも決めていない」

「……はぁ?」

 チップを出しながら、イザベルは気の抜けた返事をした。

「決めてないんだよ、何も。土地をもらったらどうしようかとか、その前にわたしが破産したらどうしようかとか、そういうこと、一切」

「あなたらしいですわね。いろいろと考えているようで考えていない。考えていることといえばは目の前の問題と関係のないことばかり。芯というものがないのですわ」

「生まれの違いってやつだよ。結局わたしは人の上に立つような人間じゃない。プリミエラ」

「関係ありませんわよ。その気になるかならないか、ですわ。プリミエラのクイーン」

 役が同じ場合、より数字の大きいカードを持っているほうが勝者となる。

「だから、ギャンブルにはまるんだろうな。参加してさえいれば、金を払うだけで勝手に進んでいくんだ。考えるのも考えないのも自由。それも芯がないのかもな」

「ですが私には、ジャック様がギャンブルや投資をする理由がほかに何かあるのではないかと、思えてなりません」

「そんなことは――」

 外から水がはじける音と、通行人の軽快な悲鳴が聞こえてきた。昼前から淀んでいた雲がとうとう雨に変わったらしい。

「浪費をするのにも、案外強固な意志が必要なのですわ。五百万ブラウをたった三年で蒸発させてしまうなど、ただの放蕩人にはそうできるマネではございません」

 倍額を出そうと掴みかけた大量のチップを、ジャクリーヌは下ろした。代わりにイザベルと同額を出す。彼女に釘を刺されたような気がして、高い賭け金が躊躇われた。かと思えばイザベルがあっさりと倍額をだし、ふたりの手札が出そろう。チップは当然のようにイザベルのもとに渡った。

 五人の卓であったはずが、すっかりジャクリーヌとイザベルだけの勝負になっていた。一方的に流れる大量のチップに、三人は追いつけなかった。

「五年、ですわね。もういいのではないですか」

「昔のことはもういいだろう」

「いいえ、今のことです」

 屋根を打つ雨が一層強くなってきた。イザベルがチップをかき集める音も覆い隠してしまうほどに。

「お金を使えるのは今だけですわ。お金が効力を発揮するのは未来だけですの」

「……なんで、今日に限ってどいつもこいつもそういう話をするんだよ」

「薔薇礼々の地を継ぐのです。改めてご自身の今後を考え直すのには、これ以上ない機会だと思いませんこと」

「わたしなんてギャンブルしかしてこなかったんだぞ」

「ジャック様なら大丈夫ですわよ。その服装、ご自身で選ばれたのでしょう。よりにもよってもっとも人目を惹くものについて、もっとも常識から離れたご決断をされたのです。ご決断はジャック様の得意領分ですのよ」

 ディーラーになったイザベルがカードを配る。ジャクリーヌにも三枚の手札。めくられた場札は、ダイヤのJ。

「あら、ジャック様」

 ダイヤは貨幣。J、ジャック、つまりジャクリーヌ。洒落はよせ。普段ならそう答えるところだが、なぜか今日に限っては、その場札が何か特別な意味を持っているように思えた。

「ジャック様。あなたの番ですわ」

 そう告げられても、ジャクリーヌはしばし伏せたままの己の手札を見つめた。何か、何か細い糸が掴めそうな気がした。掴んで、手繰り寄せられる気がした。

 不荒緑に来る前のこと、不荒緑に来てからのこと、鉄の歯車亭、マリー、イザベル、年金拠出人、侯爵、アンリエッタ。自分の人生が楡の木陰亭にたどり着くことなどどうして予想できただろうか。誰にだってわかるはずはない。神ではないのだから。

 だったら、今後のこと、未来のことはどうやって考えればいいのだろう。

 イザベルは言った。いろいろと考えているようで、目の前のことは考えていない、決断はできるのに、と。マリーは言っていた。一目見ていろいろ考えてるだろ、たまには直観に従わないといけないこともあるんだよ、と。

 それならば、考えなければいいではないか。ただ己の直観と欲望に身を任せる。

「イザベル。わたしはこのゲーム、ノールックでいく」

 プリブランには、手札を見ずに賭けてもいいというルールがある。手札が配られた際に宣言すれば、そのゲームから降りることはできず、手札を開示するタイミングも自分では選べないが、提示するチップは半額でいい。ブラフなどまったく関係ない、運にすべてを任せるという本当の意味のギャンブル。

「あら、面白いですわね。受けて立ちましてよ」

 手札を開示するタイミングが選べないということは、ゲームの主導権は完全に相手に移るということだ。相手の手札に強力な役がある場合、いたずらにチップだけを吊り上げられるということでもある。ジャクリーヌの手札が弱い役であった場合、ただ財産を吸われて終わってしまう。テーブルの上のチップはもはや数百枚。たった三枚のカードで、一千万円近くの金が動きかねない。

「そろそろ潮時ですわね」

「よくもまぁこれだけ釣り上げたな」

 イザベルがカードを開く。ダイヤの九、十、Q。これにダイヤのJを合わせると、同じスートで連続する数字からなる役、フルッソ・スプレマスとなる。数字の大小を別にすれば、このゲームで二番目に強い役だった。これに勝てる役はひとつしかない。

「まったく、こんなときにそんな手札かよ」

 ジャクリーヌは自分の手札を見るまでもなく、すっかりあきらめた様子で椅子から立ち上がった。

「今日はもう金がない。また後日だ」

「さようでございますか」

 ふたりとも、気落ちするわけでもなく店を後にしようとした、そのときだった。

「クノー様!」

 入口に目線を向ける。長いサンディブロンドを雨に濡らして、グレースが息を浅くしていた。なぜ、傘もなしに走ってきたのか、これほど取り乱しているのか、ジャクリーヌも駆け寄る。

 その拍子にジャクリーヌの手札が床に落ちたのだが、それを見たのはイザベルだけだった。イザベル以外の全員が、ジャクリーヌと濡れた珍客だけに意識を注いでいた。

「グレース、どうしたんだ、いきなり」

 グレースはすがるようにジャクリーヌを見つめる。

「え……アンリエッタ様が倒れました」

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