煙と胡瓜
多架橋衛
第1話 ピクルスとコーヒー
工場から吐き出される煙が不荒緑の街にも流れてくるようになった。灰色の煙である。おかげで煤がさんざん道に積もっているらしく、朝一番に歩くと足跡がつく。馬車が通るとほこりが舞い上がりなおひどい。これでは糞尿地獄の仏蘭西も笑えない。もとはといえば工場が乱立するようになったのも、さんざん仏蘭西を目の敵にしてきた英吉利のせいなのだが、島国の人間が考えていることなど田舎者にはわからないのだろう。
こんな空気、吸っているだけで気が滅入りそうだ。徹夜明けのうえ、泥水のように濃くしたコーヒーで無理やり覚醒させた脳みそは悲鳴を上げている。一方で腹もすく。寝るか、食べるか、実際はほとんど迷わなかった。早朝でも開いている行きつけのカフェがある。
足は自然と、鉄の歯車亭に向かった。体調がどうあれ体が空いた朝はそこを訪れるというのが、彼女、ジャクリーヌの日課であった。そしてどんなときでもジャケットとスラックス、この時代では宴の席でしか女性はしない男装が彼女の流儀だった。
「ピクルス二本!」
店主の返事も待たず奥のテーブルにもたれる。もうもうと立ち込める煙草の煙をあおぎながら、壁に張り出されている投資話に目を凝らした。紅茶の買い付け、生糸の買い付け、紡績会社、縫製会社――。どれもこれもリスクばかり頭に浮かぶ。買い付けは当たれば大きいが、船が嵐か海賊にでも遭えば終わる。悪徳会社も増えてきて、茶葉に砂を混ぜて不当に嵩を増やすだけならまだいい、金を持ち逃げする輩も後を絶たない。紡績や縫製だって昨今の産業発展を後追いしているにすぎず、自ら先見性のない経営者であると吹聴しているに等しい。
徹夜の疲労と、吐き気を催す煙草の悪臭と、ろくでもない投資話の数々に眩暈すら覚える。肩で揃えた髪を掻き、すっかり視力の衰えてきた目を揉んでいると、
「よう、ジャック。今日も負けたか」
看板娘のマリーが、ピクルスの皿片手に薄ら笑いを浮かべていた。打ちのめされているジャクリーヌがよほど面白いらしい。それでもジャクリーヌのことを女性形のジャッキーでなく男性形のジャックと呼ぶあたりに親しみと労りが見え隠れする。
「うるさい。早くそれをよこせ」
「はいはいおまちどおさま」
ジャクリーヌは勝手知ったる手つきで皿をひったくるると、串に刺さったピクルスをかじった。甘塩っぱい水気が脳みそに沁みわたっていく。胸焼けも視界もいくらかすかっとした。同時に、皿に盛られたもう一本のピクルスも目に入る。もともとはみずみずしく歯ごたえもあったはずの胡瓜がふにゃふにゃに饐えているのを見ていると、どうもいまの自分自身と重なってくるようで、慌てて平らげた。
「今朝はやけに荒れてるじゃないか」
「お前、店の仕事は」
「いいんだよ。どうせこんな時間に来るなんて、あんたみたいな徹夜明けか、熱心な投資家くらいだ。どっちもギャンブルジャンキーなんだから適当にあしらっておけばいい」
「確かに」
ツボに入ったらしくふたりはけっけっけと短く肩を揺らした。
近世ヨーロッパにおけるカフェは広く市民にも開かれていたが、店ごとに特徴的な客層を持っていた。たとえば、思想家や学者が集まる店もあれば、文士や文化人が集まる店、芸術家が多く訪れる店などもあった。
この鉄の歯車亭は、金の匂いに敏感な人間が集まる店だった。折しも東インド会社以来の株式投資が貿易以外の事業にも拡大し、株式会社という概念が社会的に認められ始めた時期である。国の法整備がまだ不十分で配当や賠償をめぐる諍いも絶えないが、そういった法外的な面に魅せられる金持ちやインテリは少なくない。彼らの需要をすくい上げ、コーヒーや軽食のほかに投資話の情報を提供するのが鉄の歯車亭の経営戦略であった。
ただ当然の帰結として、投資のスリルに目覚めた金持ちが向かう場所は、ギャンブルなのであった。こういったある種の治安の悪さが金持ちではなくインテリ層と結びつくと、仏蘭西での革命を生んだりもするのだが、それはもう過去の話である。
「イザベルに大負けしたんだよ」
「なんだまたか。相変わらず懲りないな、あんたも」
イザベルというのはトルイユ家の四女である。名門貴族の出ではあるのだが、四女という比較的自由な立ち位置を生かして、ジャクリーヌとよくギャンブルに興じていた。鉄の歯車亭にも時折訪れる。
「問題はそのあとだよ。『こんなに勝ってしまったのではあまりの稼ぎにお父様から疑いの目を向けられざるを得ませんので、本日の勝ち分は特赦してさしあげますわ』だと」
名門貴族らしい傍若無人な気遣いを声真似しながらも、ジャクリーヌは震える握り拳をこらえはらわたが煮えくり返っている。
「あんた、それ負け分をちゃらにしてもらったってことか! こりゃいいや!」
ひときわ大きくマリーが声を上げた。腹を抱えテーブルを打ち据える。
負け分の特赦などギャンブラーとしての名折れ、生き恥である。ジャクリーヌとイザベルの親交が深いからいいようなものの、相手を間違えれば決闘沙汰、流血沙汰も免れない。イザベルは名門貴族でも、ジャクリーヌは一般的な感性を持っている。
「だから、いつかやり返してやるんだよ」
「やめとけやめとけ。あんたはもともとギャンブルに向いてないんだよ」
「ば、馬鹿にするなよ。わたしだってな――」
歯を食いしばりながら、ふたたび壁一面の投資話に目を向けた。ここから成功するものを選び出す。大量の配当金を得る。稼ぎを見せびらかして、まずマリーからぎゃふんと言わせる。
考えろ、考えるんだ。これだけ投資話があって成功するものがないわけないのだ。見知った貴族の名前で紡績工場を設立するという張り紙が目に入った。信頼できそうだ、が、時節柄どうだろう。紡績工場は倫敦にいくらでも存在している。いまから島国を出し抜くのも難しい。やはり紡績、縫製関係はなし。貿易関係もリスクが大きい。となると――。
あった。
農場経営。差出人はどう見ても田舎の貧乏所帯である。直感では成功する確率はゼロだ。田舎から出てきた人間が都会で成功するには、よほど都会の研究をしているか、溢れる才能や尖った魅力を持っているかの場合に限られる。といっても、見込みがあれば目敏い貴族や投資家が唾をつけるはずなので、こんな場末のカフェに単名で張り紙を出すはずがない。
だが、待て、と一息入れる。
産業の波が押し寄せるなか農地は減りつつある。ピクルスばかり食べさせられているのも、新鮮な野菜が手に入らず、遠方から加工したものを輸入するしかなくなったせいだ。かの倫敦でも街の人間はみな働きに出され、まともな食文化が崩壊しつつあると聞く。
農地はこれから貴重になる。人間、野菜を食べなければ死んでしまうではないか。
いける。農場経営はいける。
「これだ!」
農場投資の張り紙を、勢いよく引きはがした。
「それ昨晩立ち消えになったばかりだったんだ。ちょうど掃除しようと思ってたからはがしてくれて助かるよ」
さんざん考え抜いた答えがはずれ、いや、すでに存在していなかったことに、しばし呆然となる。マリーは笑いをこらえながら、張り紙をひったくった。
「ほらな、ジャック。あんたには投資もギャンブルも向いてないんだよ」
「なんでこんな……」
「あんた、いろいろと無駄なことばっかり考えて、大事なところは考えてないからだ」
「それがわかったら苦労しないだろ」
「だったら、もっと直観に従ってみてもいいんじゃないか」
「直観……直観……」
確かにそうだ。張り紙を見た瞬間、直感ではだめだと勘付いていた。昨晩だって、イザベルの手の傾向をいろいろと考えていたら、見事に裏をかかれて大損をこいたのだった。
自分には投資もギャンブルも向いていないのだろうか。
だがそれをわかったところで、何をすればいいのかよくわからない。この街で独り立ちしてからというもの、投資話の品定めかギャンブルしかしてこなかった。いまさら、それらが向いていないからって自分に何があるのだろう。
頭を抱えるしかない。うなだれるといったほうが正しい。テーブルに突っ伏して、瞳はただ串が転がった皿を見つめるだけで。
「あーわかったわかった、そんなに落ち込むなって」
「だけど……」
「ほらよ」
見かねたのか、顔をしかめながらマリーが取り出したのは一枚の紙切れ。投資話の張り紙ではなく、紙の質感からして新聞の切り抜きだった。
「なんだ、これ」
「いいから読んでみろって」
渋々、紙切れをつまみ上げる。ジャクリーヌは目を疑った。
求ム 年金拠出人
過日ノ惨事ニ血族ヲ失ヒ、
産業勃興ニ依リ家業失墜。
家長羸弱ニシテ後継無ク、
余生ノ保障ト引キ換ヘニ、
代々有スル土地ヲ相続ス。
年金額応相談 面接来ラレタシ。
薔薇礼々侯爵フランク・D・ロゼウェルト
「薔薇礼々侯爵って、あの薔薇礼々侯爵家か……? 山を十個も二十個も持ってるとかいう」
「その侯爵家。ていうか知らなかったのか? 恥かく覚悟で切り抜きを見せたのに」
「新聞なんてとってないんだよ」
「そういえばそうだった。まぁ、ともかく本当に薔薇礼々侯爵家だよ」
薔薇礼々侯爵ロゼウェルト家といえば、この国に古くから根付く土着神のような貴族だ。叙された領地は辺境ではあるが広大で、良質な農作物と莫大な収入を生んだ。もっとも最近は産業発展の煽りを受け農業は衰退、資産を少しずつ切り崩しているという噂もある。それでも、資産の多寡は想像するまでもない。
その侯爵家が、とんでもない広告を出している。
「後継ぎがいないから、年金の面倒を見てくれたら資産を相続するってことだよな」
「読んだとおりに解釈すればな」
ここでいう年金とは、現代の年金とはいくらか意味が異なる。
この時代の年金という言葉にはいくつかの意味があった。現代の年金にもっとも近いものは、給料からいくらかの額を積み立て、引退後に利息を加えて受け取るもので、退職年金や恩給などに当たる。他方、国債や土地などの資産から定期的に入ってくる収入という意味で使われる年金、これは配当や金利に当たる。
そしてこれらから派生した、終身年金というシステムがこの時代にはあった。これは個人間の契約のうえに成り立つもので、労働や土地、家督といったものを担保にして一定期間ごとに決まった額をやり取りするものである。たとえば、世話になった家政婦に対し労働の対価として家政婦の引退後から死ぬまで年金を贈り続けたり、相続人を持たない老人が資産を相続する代わりに年金を要求したり、といったものだった。
侯爵の場合は、土地を担保に年金を受給したいという申し出だ。
「何か裏があるってことか……?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。何しろ高貴な人間の考えることだ。平民には理解も及ばない。普通に考えれば、わざわざ家業が失墜したなんて世間体を気にして公表しない」
「だが……うまくいけばとんでもなく得だ」
突き詰めればこの終身年金、まったくのギャンブルである。土地を相続する代わりに余生の保障、つまり侯爵が生きている限り年金を払わなければならない。侯爵が短命であればそれだけ安く土地が手に入り、長生きすれば高い買い物になる。最悪の場合、年金拠出人のほうが先に死ぬということもありうる。
寿命など読めない。だからこそギャンブルジャンキーの血が騒ぐのだ。
「ろくな話を聞かないけどな」
「歯切れが悪いな」
「この話はかなり前から出てるんだ。あんたの耳に入ってないのが奇跡ってくらいにな。それだけたくさんの投資家やら金持ちやらが侯爵に会いに行ったみたいだが、ことごとく断られている。それに、古くからの家系だ。国だっていろいろ介入してる。それに対しても侯爵はだんまりと来た」
衰退しているとはいえ広大な領地である。侯爵家が途絶えると、広大な領地を治める者がいなくなってしまう。侯爵自身にも果たさなければいけない責任はある。にもかかわらず新聞に年金拠出人を求めるという広告を出しているのだ。見る者が見ればふざけているとしか思えない。
「確かに変だな。そう簡単に済む問題じゃない」
「聞いた話じゃ屋敷もさびれたっていうし、侯爵も家族を失ったショックでどこかおかしくなったんじゃないかって」
「それでこんな広告を出すか?」
「まぁそれはそうだが……。いや、それにしても、だ。侯爵家ともあろうに、民間に年金をせびるってのは何か事情があるはずだ。下手に巻き込まれたらあんたが苦労する」
なんだかんだ心配してくれるマリーがいじらしくもあり、瞳が青いな、と、改めて思った。
「大丈夫だよ。老人の相手は得意だ」
「だといいけど」
「ほれ、代金だ。恩に着るよ」
ピクルスのおかげか、侯爵の広告のおかげか、はたまた気温が上がって空気が多少澄んできたおかげかはわからないが、ジャクリーヌは軽い足取りで店を出た。
まずは自宅で貴族年鑑を開いた。侯爵家のプロフィールを確認するためだった。御年七十二歳。家系図は十歳のエレオノール嬢までびっしりと書いてあったが、発行が九か月前となっていたのでそれ以降に何かあったのだろう。
今度は公証人役場に赴いて、ここ数か月の死亡届を調べた。確かに半年前、家長であるフランク・D・ロゼウェルトを除いた侯爵家全員の死亡が届けられている。執事長をはじめ仕えていた者もほとんど死亡している。侯爵家の出自を祝う船旅で取り返しのつかないことになってしまったらしい。一国が誇る大貴族も、終わりはあっけないものだった。残された老侯に同情も覚えつつ、こんな状況では先も長くないだろうという直観も働く。
マリーにいわれた通り、直観に従ってみることにした。
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