第2話 屋敷守と侯爵邸

 代々屋敷守をしているという妙齢の女性が、

「侯爵様に確認してまいりますので、こちらでおくつろぎください」

 警戒していた割には常識的な対応を受けて、いささか肩透かしを食らった気分だった。

 とはいえかれこれ小一時間は待たされている。用意してくれた軽食のおかげで空腹には悩まなかったが、門の隣に構えてあるだけの平凡な屋敷守の住居である。暇つぶしの道具など期待できるはずもなく、さすがに手持無沙汰だった。

 すべては侯爵邸が広すぎるせいだ。広大な領地のいかばかりを使っているかはわからないが、屋敷守に門を通されて目にしたのは見渡す限りの森、森、森。そのなかを石畳に舗装された道が続くだけだった。仮に門から屋敷まで往復一時間だとしても、侯爵に会いに行く時間でいくつ投資話に目を通せるだろうか。ため息がこぼれる。あの屋敷守も急いでいる様子はなく時間の流れかたが街とは違いすぎた。英吉利からはじまった産業の波にこの屋敷だけが取り残されている。

 思えば、供されたビーフ・プディングは作り置きされたものだったが味は良かった。紅茶も混ざり物のない高級品で、香りから察するに英吉利の老舗から買い付けているらしい。食器類は仏蘭西の最高級陶磁器という気の抜けなさだ。一見の訪問客で、しかも主人の土地を狙っている男装の小娘という得体の知れない相手にこのもてなしである。

 屋敷守からして並大抵の神経ではない。侯爵に至ってはどれほどのものか。

 倫理観のかけ離れた相手に付け入るのは下手ではないとは思うが、昔を思い出すようでどうも居心地が悪い。いっそこのまま面会もせずに帰ってしまおうか。などと考えているうちに、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。

「本館までお連れするようにと仰せつかりました。ご案内いたします」

「は、はぁ……」

 だが屋敷守はあちら側の人間である。ジャクリーヌの不安などよそに、サンディブロンドの長髪を揺らしながら深々と腰を折った。

「先ほどはご馳走様でした」

「いえ、お口に合いませんで」

「あなたがすべて用意されたので?」

「プディングは恐縮ながら。このほどお客様が多くお見えになるので、日ごろから切らさないよう心がけております。茶葉は侯爵様よりいただいておりますが、この半年のこともありますので、どうしても古いものしかお出しできないご無礼をお許しください」

 生返事をするしかなかった。船の事故や家業の失墜について言っているのだろうが、あれほどのもてなしをしておきながら無礼を許せと言える屋敷守の強かさと神経に苦笑しか出ない。社交辞令程度に収めておいてよかった、と自分の幸運に感謝した。とはいえ長い道連れである。屋敷守はひょうひょうと先導してくれるが、この沈黙はどうも気まずい。

 息抜きに周囲を見回した。外から見るだけだった森も内側からだと、まっすぐに伸びたブナが整然と並び、足元の石畳も相まって、人の管理下にあることがよくわかる。ハイキングには絶好だ。とはいえ、枝や下草は徐々に伸び始めており、このところは手入れもままならないのだろう。

 しばらく歩くと、急に森が開ける。目を細めるとこれまた広大な庭園が飛び込んできた。一キロメートル四方はある。屋敷まで続くまっすぐな道の途中には、みずがめ座をモチーフにした噴水がたたずみ、噴水を中心に生垣や花壇が左右対称に配されている。ただこちらも、噴水は涸れ、生垣は枝が飛び出し、花壇も土が白い。これほど急速に貴族が没落するものなのかと肝を冷やしながら、ついに屋敷の入り口にたどり着いた。左右に棟が渡り、庭園と同様に均整がとれている。窓枠や屋根には複雑な装飾が施され、バロック様式だというのが分かった。

「お入りください。侯爵様には伝えておりますので、私はここで失礼いたします」

「どうも……」

 屋敷守を見送って扉に手をかける。両開きの片方を押すと、耳をつんざくほどに軋んだ。

「お待ちしておりました」

 開いた隙間に体をねじ込んだところで、思わず動きを止めた。迎え入れたのは幼い少女の声だった。十歳といったところだろうか。

「え、えっと……ここの人……?」

「はい。当家のメイドをしております、アンリエッタ・オーベルと申します。ジャクリーヌ・クノー様でいらっしゃいますね」

 幼いメイドはスカートを広げ頭を下げる。本人は真剣にやっているのだろうが、体が小さいためオーバーサイズ気味な服といい、ぺろんと垂れているおさげ髪といい、おままごとにしか見えず、どうもいじらしさで頬が緩みそうになった。

「お部屋にご案内いたしますので、ささ、どうぞ」

「あ、ちょ、ちょっと……」

 アンリエッタはちょこちょこと駆け寄ってきて、ジャクリーヌの腕を引っ張った。戦慄が走った。アンリエッタの手が驚くほど冷たい。初夏も目前だというのに氷のようだ。よくよく見れば、彼女の髪質は細く頼りない。頬紅は厚く、粉っぽい匂いが時折鼻にかかる。

「それではこちらでお待ちください」

 客間にひとり残されると、アンリエッタに対する違和感がより鮮明になるようで立ち尽くした。握られた左手はまだ冷たい。臭いもどことなく残っている。これだけ大きな屋敷で、しかも落ちぶれているとはいえ国を代表する侯爵家にあんなに小さなメイドがいていいのだろうか。からかわれている気にさえなる。まさか侯爵家に限ってそんなことはないだろうが、自分はこの地を狙ってきたのだ。あちらから見れば盗賊と変わらない。考えれば考えるほど警戒心が膨らんでくる。

 と、扉の向こうからメイドの声が飛び込んできた。

「あ、あの!」

 泣き叫んでいるようにも、困り果てているようにも聞こえる。

「ク、クノー様、いらっしゃいますよね……?」

「わたしはここにいるが」

 名前を呼ばれる理由が思い当たらず棒立ちになっていると、

「部屋の扉を開けていただきたいと……」

「……は?」

 思わぬ要求に変な声が出た。

「さっき開けられたじゃないか。自分で開けたらいいだろう」

「その、実は両手がふさがっていまして……」

「あんた、メイドなんだろう……?」

「す、すいません」

 本当に泣き出しそうだった。こんな不出来なメイドは見たことがない、と呆れながらも、幼い子供に意地悪をするわけにもいかず、仕方なく扉を開けた。

「本当に申し訳ございません!」

「いや、まぁ……」

 見るとアンリエッタはいっぱいに広げた両腕で、軽食やティーセットを乗せたトレイをどうにかこうにか持っていた。確かにこれでは扉に手をかけることはできない。

「先日トローリーが壊れてしまいまして」

 トローリーとは軽食などを乗せて運ぶためのテーブルワゴンである。ただ、それが壊れたからといって運び方はいくらでもあるだろう、不信感は募るばかりである。同時に、しきりに頭を下げながら、かいがいしく、ときには爪先立ちで手を伸ばして配膳をする姿はやはりおままごとである。このメイドを、本当にメイドとして扱うべきなのか、それとも子供のお遊びに付き合うつもりで接するべきなのか、頭が痛くなりそうだった。

「お前、本当にここのメイドなのか……?」

「えぇっ、そ、それはっ――」

 態度を決めるつもりでなんとなく聞いただけなのだが、アンリエッタは明らかに動揺し危うくソーサーも落としかけた。食器を守り抜いたあたりはメイドの意地ともとれるが、この動揺はますます怪しい。

「わたしのことをからかっているのか? それとも本当にメイドなのか、何歳だ?」

「え、えと、十歳、です……」

 詰め寄るとアンリエッタはソーサーで顔を隠し視線をそらそうとする。

「そこのところをはっきりしてもらわないと……ん?」

 アンリエッタの目を睨み付けようとして、何か別の違和感を覚えたのだが、

「申し訳ない、客人。不便な思いをさせてしまった」

 廊下からの年老いたバリトンにかき消される。

「あ、お……お待ちください。いま侯爵を連れてまいりますから!」

 声に救われたメイドは元気を取り戻し、ソーサーを置くと部屋の外へと走り出た。今度は扉は開けたままで。

「遠くからお越しいただいたのに待たせてしまった」

 長い年季と威厳を兼ね備えた言葉づかいが、ガラガラという騒がしさも引き連れる。

「あなたが……」

 声の主がようやく部屋に入ってくる。真っ白な頭髪と、深く刻まれた皺。頬はいくらかこけているものの、七十二という年齢の割にはがっしりした体つきだった。加えて、侯爵という立場を考えると意外に神経質そうな顔立ちをしている。

「いかにも。私が薔薇礼々侯爵フランク・D・ロゼウェルトだ」

 彼は、アンリエッタの押す車いすに深く体を沈み込ませていた。

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