セミのぬけがらとラムネ

オボロツキーヨ

 あいつ

「ぼんやりして、どうした。まるでたましいけたみたいな顔だな」

あいつが言う。


失敬しっけいなやつ。

学生帽を目深に被り校舎を出た。

あの、つんとすました高い鼻をいつか、へし折ってやりたい。

靴の下でグシャリと音がした。

おや、セミの抜けがらか。

白日はくじつセミ日和びよりだな。

明日から待ちに待った夏休み。

気に食わない学友たちと顔を合わせずに済むのは、ありがたい。


 校舎を出て、家へ向かって緑深い一本道を歩いていた。

セミの声が追いかけてくる。

東京といっても、このあたりはまだ田園風景が広がる。

みん、民民民民 民井みいと蒸し暑い空気を震わせる。

青空をを切り裂くように蝉の声は鋭く力強くなっていく。

セミの声は、やがて分厚いまくとなって頭上に浮かんでいた。

その膜に頭から全身をおおわれて、身動きがとれない。


「ううっ、息苦しい熱い、誰か助けてくれ」

気分が悪くて草の上に膝をつく。

そして、ついに倒れてうずくまった。


「どうしたんだい。道端みちばたで昼寝をするとは、君は見かけによらず、野生児なんだな。あれ、この丸まってる姿形どこかで見たことがあるぞ。そうだ、セミのぬけがらだ。ははははっ」


耳に響くのは蝉の声と、あいつの笑い声。

体がだるくて重くて起き上がれない。

どうせ、セミのぬけがらさ、グシャリと踏みつぶしておくれよ。


「ところで、本当の君は、つまり君の中身は、何処どこにいるんだい」


 そっと抱き起こされて、シャツのボタンがはずされていく。

首筋と顔に何か冷たく硬い物を押し付けられた。

よしてくれ、何するつもりだ。

硬い物がカチカチと前歯に当たる。

甘く冷たい液体が唇から流れ落ちて、白い襟の内側をつたって胸元まで濡らす。


「やれやれ、君は世話がやけるな」


 次に唇に触れたのは何か柔かい物だった。

グニャグニャとした得体の知れない物体が、芋虫のようにうごめく。

驚いて唇をゆがませると、舌が緩んだ歯列をこじ開ける。

すると口内には甘い液体が忍び込んできた。

悪い夢を見ているようだ。

今、こいつと唇どころか舌まで重ねている。

この液体は何だろう。

ゴクリとのどを鳴らす。


 体を押しのけ、手にしている瓶をひったくると、ごくごく飲み干してやった。

そういえば今朝は寝坊して朝飯を食べていない。

昼前に学校が終わるため、弁当も持たされていなかった。

つまり何も食べていないし、飲んでもいなかった。

緑の空気の色をしたガラス瓶の怪しい液体は、冷たくほんのり甘酸っぱい。

少し喉がピリピリするが、たまらなく美味うまい。


 気づくと嫌味なほど整った顔が近くにあった。

黒水晶の大きな瞳の中には、金魚鉢に閉じ込められたような僕がいる。

まさか、口うつしで飲まされたのか。

大嫌いなこいつと接吻せっぷんしたことになる。

全身が火照ほてり、汗が止め処も無く流れた。

互いに足を投げ出し、木陰の下の草の上に座っている。


「たった今、俺と君は義兄弟のちぎりを結んだぞ。同じ一つのさかづきで酒を飲んだ。これは江戸の衆道の契り<付け差し>だ。まあ、酒も盃もないが。俺が飲ませてやっただけだが。これは<付け差し>の明治風かな。はははは」


その笑い声が耳障みみざわりだと感じながらうつむく。   

生まれて初めての接吻だった。

よりによってこいつと。


「やっと蝉の抜け殻から、人らしい姿になったじゃないか。はははは」

なれなれしく肩に腕をまわしてきた。

暑苦しいが、大人しくされるがままになっている。

肩に頭をのせて、ぼんやりと空を見上げた。

蝉の声の膜なんて、どこにも無かった。

舶来物の石鹸だろうか。

体から果実のような、花のような匂いがする。


 こいつは先月、慶応義塾中学部に転校してきたばかりの問題児だ。

麻布中学で刃傷沙汰を起こして退学になったという噂がある。

学友たちは恐がって、話しかけるどころか、目を合わせようともしない。

麻布の屋敷から三田まで馬に乗って通学して来る。

騎乗のままで校門をくぐり、教室に最も近い木に馬をつないで、冒険者気取りで、わざわざ窓から入ってくる。

乗馬には相当自信があるらしい。

華族様だから幼い頃から、馬術師範に鍛えられていたのだろう。

馬に乗って通学するなんて許されないはずなのだが、学校は親の手前、強く言えないようだ。

そういえば、今日は馬には乗って来なかったな。


 馬糞ばふんの匂いが教室に立ち込め、耐えられないほど臭い時があった。

大騒ぎとなり、ついに先生が馬糞をかたずけろとしかった。

いい気味だと思ったが、こいつは何を思ったか、素手で湯気のたつ馬糞を広い集めると肩掛鞄かたかけかばんの中に入れて、校舎の裏のゴミ捨て場持って行った。

そして、何食わぬ顔で教室に戻って来る。

だが、腹が立つことに、それは僕の肩掛鞄だったのだ。

驚いて泣きそうになった。

何も入っていなかったのが不幸中の幸いだった。


「ああ、すまないね。間違えたようだ。悪気は無かったのだが、君の鞄に馬糞を入れてしまった。床に置いてあったから、ごみを入れる袋と間違えてしまったよ。はははは」


そうだ、あの時も笑っていた。

その翌日、新しい上等な革製の肩掛鞄を、あいつの家の使用人がお詫びだと言って持ってきた。

あの糞まみれになってしまった布の鞄のほうが、軽くて使いやすかったのに。

絶対に友だちになってやるものかと思った。

口も利きたくなかった。


 水滴のついたガラス瓶をギュッと握り締める。

不思議な形の瓶だな。

人みたいなくびれがある。

瓶の中にガラス玉が入っている。

これはビー玉なのか

何とも、もどかしい。

瓶の中でカラカラと、透きとおった涼しい音を立てている。

このビー玉に触れたい。


「ははは、気に入ったみたいだな。初めてだったのかい。最近学校の近くの食堂で売りだしたラ・ム・ネという名の飲み物さ。今日の君はいつもよりぼんやりしていて危なっかしいから、気になって後をつけて来たというわけだ。俺に感謝しろよ」

頬を指でつままれた。


そうだとも、初めてさ。

接吻したのもラ・ム・ネを飲んだのも。

顔を赤らめてうつむく。


「君の父上は会津出身で、今は東京で弁護士をしているそうだね」


何故、そんなこと知っている。

たしか、こいつの親父は貴族院議員だという。

戊辰の内乱で負けて賊軍扱いされた会津人は、国の政治の中心にはなれない。

だから法曹ほうそう界か教育者の道に進むしかない。


「君も弁護士になるのかい」

「そうとも。弁護士になって奪われた旧会津藩士、つまり斗南となみ藩の士族のろくと名誉を取り戻す為に、戦い続けるつもりだ」

驚くほど大声を出した。


「はははは、初めて君の声を聞いた気がする。君はチビで丸顔で、可愛い少女のようだと思っていたけど、声も少女そのものじゃないか」


ふん、こんな坊主頭の少女がいるものか。

こいつのほうが女みたいだ。

ずいぶんと背は高いが、まるでカモシカのような細い手足と長いまつげ


「どうせ、君は父親の後を継いで政治家になるのだろう」

初めて、おずおずと話しかけた。


「はははは、まさか。俺には兄が何人もいる。それに俺はめかけの子だ」

悪びれた様子も無く言う。


「そ、そうか。それなら将来、何になるつもりだい」

こいつの母親はとびきり美人の芸者か役者か、もしや遊女か。

人目を引く美貌は母親ゆずりというわけだ。

横顔を盗み見て、思わずため息をつく。



「俺は蒙古王もうこおうになる。満州へ行く。明日旅立つ予定だ」

「え、何だって」

「まず、一人で大連へ行くよ。よかったら君も一緒に行かないか」

「馬鹿言うなよ。だいたい、どうやって行くつもりだ。中学生が一人で、そんな遠い所へ旅するとは、よく親が許してくれるね」

「はははは、なに簡単さ。親には、友人の大磯の別荘へ遊びに行くと言って家を出る。東海道線から山陽線を乗り継いで下関へ向かう。下関からは連絡船で釜山に渡り、そこから直通列車で大連へ行くのさ。大連に住む父の知り合いを訪ねるつもりだ。会ったことはないけれど」

「親に嘘をつくのか。無茶苦茶だな」


 視線の先の道の真ん中で、茶色い羽の蝉が腹を上にして無残に転がっていた。

身動きもしない。

死んでいるようだ。

それを見たあいつは近づくと、そっと人差し指の腹を蝉の腹にのせる。

すると蝉は指に必死にしがみついた。


「やっぱり、まだ生きていたんだな。ほら、夏はこれからだぞ。飛んで行け」

人差し指に蝉を抱きつかせたまま、空へ向かって手をゆっくりと振り上げた。

長く細い人差し指が優雅にを描く。

ジジジッと鋭い鳴き声と共に、幾何学模様を描いて蝉は飛んだ。

すぐに、青空の彼方の黒い点となる。


「地上に出てきた蝉の命は短い。一夏ひとなつだけだ。きっと、俺たちぐらいの長さだろうな」

名残惜しそうに空を見上げている。


振り向いた横顔がひどく寂しそうに見えた。

こいつは、ラムネを飲ませて介抱かいほうしてくれた。

口うつしには驚いたけれど、そんなに嫌ではなかった。

蝉を助けたり、案外心根はいい奴なのかもしれない。


「今度、君にいつ会えるかわからない。ずっと満州に居るかもしれない。学校は今日で辞めたよ。短い間だったけど、隣の席に座る君のぼんやりとした、たぬきみたいな横顔を見るのが楽しかった。そのラムネ瓶は本来は店に返す物だが、記念に君が持って帰れよ。付き差しの盃だからね。義兄弟よ、良い夏休みを過ごしてくれたまえ。さらばだ」

急に大人びた口調でそう言うと、くるりと背を向けて、まぶしい陽射しに吸い込まれるように、来た道を戻って行った。


 汗で白いシャツが濡れて背中に貼り付いている。

青々とした長く美しいうなじの上に坊主頭と学生帽。

後ろ姿を見送るしかなかった。

嗚呼ああ、行ってしまうのか。

やっと、言葉を交わして、友人になれると思ったのに。

でも、大連へ一緒に行くなんて無理だ。

いや、違う。

本当はシベリアでもヨーロッパでも、世界の果てまで一緒に行きたいのだ。

あいつがいない夏休みなんて、ちっとも楽しくない。

初めての接吻をきっと忘れない。

まだ、あいつの唇の感触が残っていた。

やっぱりあいつは、とんでもなく嫌な奴だ。

こんな悲しい思いをさせるなんて。

怒りにも似た寂しさに、グシャリと踏み潰されそうになっている。

ラムネ瓶を握りしめた。

                               (了)

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