慈悲の呪い

白雪花房

第1話

 灰色に曇った空を背に、今にも崩れそうなビルが建っている。殺風景な屋上に小さな影があった。性別は男。年齢は二十代前半。影は薄く、今にも飛び降りそうな雰囲気だった。


 たまたま近くを歩いていた女は、息を呑む。そして、意を決したように、地を蹴った。ふわり。当たり前のように空気を踏み台にして、屋上へとひとっ飛び。真剣な顔をして、呼びかける。


「いけないわ!」


 落ち着いた雰囲気の女だった。

 華奢な体を包むのはシンプルなワンピース。飾りも身に着けていない。

 髪は黒く清潔感がただよっている。面接に出ると好印象を受けそうな娘だ。ある一点、藤色の瞳を除けば。


「自殺なんてしても、いいことはないわ。どうせ苦しみを抱くのなら、無傷のまま生きていたほうがマシでしょう? さあ、退きなさい」


 彼女は真面目な顔をして、男に飛びかかった。

 勢いこそあれど、動きは読みやすい。男はかすかに体を傾けたあと、真横へ動く。


「あ」


 しまった。

 勢いあまって柵の外へ飛び出す。

 宙を舞う体。

 アスファルトへ向かって、真っ逆さま。

 男はそれをなんともいえない表情で見届ける。


 下で水っぽい音が響いた。

 黒い地面の上には赤い肉片が散らばり、血の濃い臭いも広がる。

 うつむく男はまばたきを繰り返した後。

 まあ、いいか。無言で階段を降りようとした――まさにそのとき。


 地面で肉片が勝手に動き出した。さながら鉄板の上のステーキのように。

 それはじょじょに人の形に戻り、次の瞬間にはなにごともなかったかのように、再生していた。

 男は目をガンと見開き、雷に撃たれたかのように、固まる。


「なんてことをしてくれたのよ?」


 地上から女が呼びかける。

 男はぽかんと口を開けたまま、固まった。


「とにかく、あなたは見逃せないわ。きちんと監視するから、そのつもりで」

「は、はい」


 気圧されて、小さな声で答える。


「それでは、私の家にいらっしゃい」


 かくして出発する。

 鬱蒼と茂る森に入り、奥へと進んだ。

 たどり着いたのは一軒家。隠れるようにひっそりと建っているせいか、怪しげな雰囲気が漂っていた。


 古びた扉を開ける。中に入るとそこは、彼女の家だった。

 真っ先に目に入ったのは、とんがり帽子。となりには立派な杖も立て掛けてある。


 壁にはいくつもの棚が並び薬品が揃っていた。皆、宝石のようにキラキラと輝いている。中でもひときわ目立ったのは、すみれ色の薬剤だ。


 傍らにはシンプルな指輪も飾ってある。本来既婚者の指にあるべき装飾品が、今は必要ないとばかりに、棚に押し込められていた。


 男はそちらから目をそらし、ポケットに手を突っ込む。指に当たった硬い感触。小さな感傷に気づかなかった振りをして、前を向く。


「君はいったい?」

「魔女よ」


 あっさりと答えが返ってきた。


「私、不老不死なのよ。どうあがいても死ねない。勝手に再生してしまう。だから、先ほどもあのような感じになったの」


 堂々と繰り出したのは魔女にとっても、大きな秘密だ。他人の前で死ぬ機会さえなければ、一生隠し通すつもりだったのだろう。

 不老不死なんて他人に気づかれて、よいものではない。


「そういうあなたはどうなのよ?」

「俺の事情か? 昔、親に捨てられた。育て親も死んだ」


 自嘲気味に笑う。

 彼は愛を知らない。本当に自分は愛されていたのか否か、それすらも理解ができずにいる。


 他人に対してもなにも感じず、相手がどのような行動を取っていても、心は動かない。たとえば目の前で人が車に轢かれて死んでも、真顔でやり過ごす。せいぜい、あの人は運が悪かったと、上の空で考える程度だ。


 自分がおかしいことは分かっている。あまりにも冷たすぎるからだ。こんな自分が生き残ったところで、他者のためにはならない。


「俺が生きる意味はなんだ? ないだろう。だからさっさとこの世から消えてしまいたいんだ」

「死ぬだなんだって言ってはならないことだと、思うのだけど」


 一方で、彼女は次のようにも考えた。

 愛を知らない彼なら、都合がいい・・・・・と。

 ニヤリ。口角がつり上がった。


「私、クリスタルを欲しているのよ。それを探す旅に付き合ってくれないかしら?」

「ええ?」


 彼は露骨に引く。無理もない。本人にしてみればいい迷惑だ。

 反対に、魔女にとっては理にかなっている。

 他人を愛せない――すなわち、誰かを好きにならない。彼はおのれが最も欲するパートナーだ。


 今すぐにでも自殺しかねない男である。自分と関わりのある者を死なせては、目覚めが悪い。精神衛生上のためにもそばにいたほうがいいのだ。


「誰かに頼めよ」


 男は渋る。


「無理よ。私、独りだもの」


 しれっと魔女は口を尖らせる。


下僕しもべは?」

「作る方法はあるわ。でも、やらない」


 不満があるのならやればいいのに。

 そう言いたげな顔をしてから、男はそっぽを向く。


「ねえ、ねえ」


 女はしつこく迫ってくる。

 最終的には面倒になってきたため、彼のほうが折れた。

 よく考えると死に場所を探すために旅に出るのなら、それもありだ。そう無理やりにでも受け入れなければ、ならなかった。


 二人で共に森を出る。


 空気には魔力が漂っているらしい。通常は薄いが、特定の場所になると濃くなるとか。魔女にはそういったものを辿る能力が、備わってた。

 彼女が先導し、男も後に続く。


 やってきたのは小さな村だった。ぽつりぽつりと三角屋根の建物が建つ。村人の影はちらほらと見えるものの、活気は薄かった。


 のどかな雰囲気とは裏腹に、村の空気はピリピリとしている。やけに騒がしい。なんだろう。二人は建物の陰でたむろしていた者たちへ、話しかけた。


「なにが起きたのですか?」

「ああ、なんでも、寝込んだままどうにもならないやつがいてな」


 無精髭をたくわえた男が、こちらを向いた。


「日に日に衰弱していくんだ」


 聞いたのは、呪いの匂いを感じる事件だった。


「確かに魔が絡んでいそう。いかにも禍々しい魔力が村全体から漂っているもの」


 これはなんとかしなければならないとばかりに、彼女は動き出す。


「お、おい」


 男は手を伸ばし、立ち尽くす。

 なぜ彼女は誰かのために走り出したのだろうか。自分に易のないことなら、やらなくてもいい。見ず知らずの相手のために動きたくなくて、渋る。

 かといって魔女に逆らう意味もない。青年はため息をついた後とぼとぼと歩き出した。


 現場は奥のほうに建つ家だった。見た目も大きさも荘厳。もはや屋敷といったほうがいいレベルだ。

 魔女はなんのためらいもなく、引き戸を開く。さすがは田舎だ。施錠の概念がないらしい。


 廊下に上がる。

 最後の扉を開くと寝室だった。通気性のよさそうなベッドに、少女が横たわっている。彼女は目を閉じていても分かる程度には、眉目秀麗だった。


「なるほどね」


 察しがついたかのような一言。


 とにもかくにも解呪が先だ。魔女は少女の額に手をかざす。手のひらからまばゆい光が漏れ、部屋の雰囲気が明るくなる。


 おお、と男は目を見開いた。


 少女のまぶたが開く。

 青白かった肌は薄橙色に染まり、頬にもりんご色の赤みが差し始めた。


「あ、ありがとう。だけど、あなた方は、いったい……」


 不審そうな目で両者の顔を見比べる。

 魔女と男も互いに目を合わせる。

 傍から見れば不審者同然の二人は互いに思った。

 厄介なことになる前に、逃げよう。

 かくして二人はろくな説明もせずに、外へ出た。


 被害者の回復は終わったが、これで全てが終わったわけではない。


 魔女は呪力の気配をたどって、村を進む。たどり着いたのはいかにも貧乏人が住んでいそうな家だった。瓦はいくつか剥がれているし、壁はボロボロ。台風がきたら真っ先に倒壊しそうな見た目をしている。


 魔女は家の前に立った。

 ノックはしない。いきなりドアを開いて、突入する。


「なにやつ?」


 女子高生くらいの娘が杖を持って、飛び出す。相手は護身術の要領で、魔女に挑みかかった。

 魔女は攻撃が命中するよりも先に、手のひらを前に出す。

 刹那、女子高生は固まった。全身が金縛りにあったかのようにガチガチとして、動けない。

 術が発動したのだと、遅れて気づく。なんにせよ相手は攻撃する手段を持たない。

 勝負ありだ。


 そのうち拘束は溶ける。少女はへなへなと座り込んだかと思うと、雷のような速度で、頭を床に打ち付けた。


「ごめんなさい。もうしません」

「それを言うのなら私ではなく、やらかした人に対してじゃない?」


 じとーっとした目で、犯人を見下ろす。


「念のために聞くけれど、なぜ呪術に手を染めたの?」


 ある程度の予想はつく。

 ここは逆にひねりを加えた答えが返ってくるのではないか。

 浅く期待したものの、返ってきたものは本当に予想した通りのものだった。


「だってずるいじゃない。なによあの容姿。しかも金持ちでしょ? 好きなものを好きなだけもらえるんでしょ、ああいうの。才能まで恵まれて、成績優秀、音楽、運動だって思いのまま。なによこれ、理不尽だと思わない?」


 だから、呪いをかけたと。


「なんであんなのがこんなくだらない村にいるわけ? 嫌味なの?」

「貴族もたまには田舎に遊びに来たくなることだって、あるでしょう」


 魔女は適当に流す。


「まあ、呪術師であれば私にかかった呪いも解けるでしょう。解けなくて困っているのだけど、ねえ?」

「なわけないでしょうが!」


 軽い調子で誘いをかけると、相手は本気で怒る。


「あんた、あたしの渾身の呪いをあっさりと解いちゃったでしょう? そんなやつでも解けない呪いをあたしに? なぁに考えてるわけ?」


 あきれと驚愕、怒りが入り混じった表情で、魔女に噛み付く。


「まあ、そうよね。あなたたち人間は魔術を使うだけの魔術使い。だけど私は正真正銘の魔女。人間とは違うの」

「それってつまり、どういうことよ? やっぱり才能の有無?」

「いいえ、私は魔女。そういう種族なのよ」


 堂々と、自分の正体を打ち明ける。

 それはおのれが他人からどう思われているのか分かりきった上での発言。嫌われ怖がられたとしてもどうでもいい。そんな開き直りを感じる。


「なにそれ、魔女。本物……? かっこいい」


 急に呪術師が目を輝かせる。


「え……?」


 予想外の反応だ。

 本当は怖がると思ったと言わんばかりに、魔女は戸惑う。


「ねえ、教えて。呪術。あんたに教われば、もっとうまくなれると思うの」

「ちょっと待ってよ。教わってどうするの? 悪用するのでしょう? だったら無理よ」

「いいじゃない。堅いこと言わないでよ」


 グイグイと呪術師が距離を詰めてくる。

 魔女はタジタジ。

 藤色の瞳が弱々しい光を放ち、助けを求めてきた。彼はそれを無視して、自分の思考に集中する。


 呪いとはなんだ?

 本人に問いただしたいところだが、教えてくれるとは限らない。魔女はまだ、なにかを隠している。

 男は顔をしかめながら、口を固く閉じた。


「ねえ、ねえ、ねえってば」

「ああ、もう! しつこい!」


 貧相な家に、魔女の絶叫が響いた。


 とにもかくにも日は暮れた。熱い色に染まった太陽が、西の空に沈んでいく。

 泊まる場所を探す。宿は見当たらない。野宿しようか。てきとうな考えがまとまりつつある中、不意にある家のドアが開く。


「泊めてあげようか?」


 存外、親切な人は向こうから現れてくれた。


「あんたら困ってるんだろ? 分かるよ。だって私、エスパーだし」


 猫のような目をしたいたずら好きそうな見た目をした少女だ。栗色のポニーテールが軽やかに揺れている。服装は半袖にショートパンツ。身軽で、運動が得意そうな印象を受けた。


「それなら厚意に甘えさせてもらうわ」


 相手に従って宿に入る。宿といってもただの家で、なんの変哲もないところだが。そこがまた親しみが持てる民宿といった風情で、よかったと男は思う。


 なお、無償とはいかないらしい。


「泊めさせてもらおうってんだから、それなりの対価は払うよね? そんなわけで、はい。炊事洗濯、掃除もきちんとやりな」


 なぜか魔女は休んでいてもいいとのこと。理不尽ではないだろうか。不満に思いつつも超能力者の眼力は強く、逆らえる気がしない。男は潔く働くことにした。


 テーブルに雑巾をかけ、皿を洗い、風呂を沸かす。作業を淡々とこなすうちに時は流れ、夜の闇も深くなっていく。

 男は久しぶりに体を動かし一生分の仕事をした気分になった。


「おお、これはお見事。ありがとうね」


 気持ちのよい顔をして、超能力者が男を褒め称える。

 本当にありがたいと思っているのだろうか。

 疑いながらも、優しい言葉は渇いた心に染み渡る。強制的に働かされた結果とはいえ、感謝をされるのは心地よかった。


「それで、君は聞きたいんだろう? 彼女の過去をさ」

「知っているのか?」


 居間で茶をしながら、二人で話す。


「ああ。この目は他人の過去を読み取る力がある」


 本当に、超能力者だったんだ。

 そんなことを心の中で思った。


「彼女は過去、迫害を受けた。魔女の血を受け継ぐ者は皆殺しになったんだと。その中で唯一の希望は想い人だった。

 ある日、その人は心中を持ちかける。彼女は了承したよ。毒を二つ用意してさ。だけどいざ実行に移すとなったとき、怖くなったんだ。結果、自分だけが毒を飲まず、彼を死なせてしまう。

 約束を破った罰として、男は魔女に呪いをかけた。それは、『自分が転生して彼女の元に現れるまで、待ち続けろ』という意味を持っていたんだよ。つまり、もしも他人と両想いになろうものなら、その命を奪う――とさ。そしてそれは決して彼女は他者を愛さないと、そう信じたからかけたものだったんだよ」


 話を聞くと、複雑な想いが胸に湧き出す。

 言いたいことはいろいろある。事実として想い人の行いは間違いだ。想い人に呪いをかけて縛り付けるという行為が、正しいはずがない。

 このまま彼女は一生を一人で過ごすつもりだろうか。大切に思う人とも出会えず、自身も誰も愛せぬまま。

 そんな人生はむなしい。

 とてつもなく、悲しいものであると、断言できる。


「だったら俺が一緒に死んでやろう」


 不意に、そんな言葉が口から出た。

 それは、『これこそが正しい』と自信を持って繰り出したものだった。

 なお、それこそあっさりと否定される。


「それを彼女が許すかな」


 冷たい声だった。


「結局は、君が死にたいだけじゃないか」


 ああ、そうだ。

 男は死にたいと願っている。灰色の人生に意味などなく、誰も愛せない男に価値はないと。


 同じように魔女の人生もまた、つらいものがある。一生を孤独のまま費やすのなら、いっそ死なせてしまったほうが楽だと思った。


 これはエゴなのだろう。相手の気持ちも考えずにおのれの善意を押し付けているだけにすぎない。

 だから全てを受け入れ、重たい感情を胸の奥へ押し込んだ。


 夜は深まり、就寝する。

 涼しい場所で眠っている間に闇は晴れ、朝を迎えた。

 朝食を取って、身支度を整える。


 村を出る直前に、超能力者は声をかけた。


「クリスタルの位置なら特定できた。ここに記した通りだよ」


 彼女は薄茶色の紙切れを渡す。いかにも宝の地図といった雰囲気の、古びたものだった。


「洞窟の奥だね。確かにあるよ」


 クリスタルの在り処を聞いて、魔女の顔がぱあっと明るくなる。


「やったぁ、進展したわ」

「だけど……」


 急に超能力者が鋭い声で言葉をつむぐ。


「そのクリスタルの効力、日が沈むと消えちゃうんだよね」


 場の切迫感とは裏腹に、彼女の唇は三日月のようにつり上がっていた。

 まるでこちらの反応を見て楽しんでいるかのような表情だ。実際に楽しいのだろう。安全な位置から眺めるハチャメチャな事件ほど、面白いものはない。

 一方で当事者である魔女と男の心には、焦燥感が駆け巡る。


「こうしちゃいられないわ」


 言うが早いか家に背を向け、手のひらを空気にさらす。

 淡い色の唇が呪文をつむぐ。

 次の瞬間、開いた手のひらの中に、箒が出現。魔女は棒の部分を掴むと、「乗りなさい」と指示を出す。男もうなずき従った。

 二人で箒にまたがる。

 魔女がふたたび呪文をつぶやくと、箒が浮いた。そして、飛行機のようにひとっ飛び。凄まじい勢いで空を駆けた。


「ああ、もう、なんてこと!」


 時間がない。焦ってショートカットをする。

 びゅんびゅんと飛んだ先には、山が見えた。魔女が前方に手のひらをかざすと、見えない波動が炸裂。目の前で山が大きな音を立てて、崩れ去った。


「おおい……」


 片手間に地図を書き換えるようなマネをするんじゃない。

 ドン引きするも、道は開けた。


 かくして二人は洞窟に入る。暗いため魔女が灯りをともした。

 慎重に進み、デコボコとした地面を通った後、足を止める。行き止まりには透明なクリスタルが鎮座していた。


 ついに呪いが解ける。魔女はそっとクリスタルに触れた。

 彼女が期待に頬を輝かせる一方で、洞窟は無音の静けさに包まれている。

 彼女の肉体に変化は起こらず、清らかな光があたりを浄化する気配もなかった。

 間に合わなかったのか。男も、落胆を覚える。


「でも、時計の針は」


 腕時計を見る。時刻は午後六時だ。

 一旦、洞窟の外へ出てみる。空はまだ明るい。日はゆるやかに下降する最中だ。


「ならば、どうして?」


 魔女は目を丸くして、立ち尽くす。

 ぐったりと腕が下り、手の先が地面を向いた。


 それから二人は洞窟を離れる。

 ぼうぜんと箒を走らせ、果てまでやってきた。


 心地よい潮風が吹き、寂れた色をした草花を揺らす。建物の影は見えず、あたり一面、大自然が広がっている。

 煤けた色の光景には見覚えがあった。来たこと自体はないはずなのに、不思議と懐かしい気持ちになる。


 瞬間、古いテレビの砂嵐のようなノイズが、頭に走った。それは、なんだ。違和感を覚えた瞬間、脳内に電光がひらめいた。


 記憶の中で藤色の瞳をした少女が振り向く。彼女はそっと微笑んだ。


 何度も繰り返された惨劇。血に染まった大地。無数の屍。もはや動かないガラクタと化した仲間たちの前で膝をつき、泣き崩れる少女の後ろ姿。


「ごめんなさい。私、怖くて。やっぱり、死ぬのが恐ろしくなって」


 泣きぬれた頬。

 彼女の小さな手が握っていたのは、すみれ色の瓶だった。


 断片的なエピソードがステンドグラスの欠片のように頭の中に現れ、消えていく。それらはやがて繋がり、一つの絵となった。


 急に視界が晴れる。目の前が明るくなったような気がする。

 景色自体は依然として寂れたままだ。だが、この寂れた雰囲気こそが、我が故郷。かつて一人の少女と交流を深めた場所でもあった。


 もう一度、脳内にすみれ色の瓶を呼び起こす。

 男は懐からあるものを取り出した。硬く輝くそれは彼女の家で見たものと同じ形をした、指輪だった。


「もう、終わりにしましょう」


 ポツリと魔女がつぶやく。


「その前に聞く」


 背を向けたまま立ち尽くす彼女へ向かって、問いを投げる。


「本当はすでに、呪いは解けているんじゃないのか?」


 彼女は答えなかった。

 それでも、真実は分かる。昼間にも関わらずクリスタルが効果を発揮しなかったということは、すでに呪いが意味を成さなくなっていること。


「俺の正体はあの日……」


 心中をしようとした時のことが、脳裏に蘇る。

 毒薬を飲んで、男は死んだ。女は飲まずに生き残る。

 約束を破った罰として、彼は大切な人に呪いをかけた。


「結局、俺はお前を待たせただけだったんだ。その記憶は記憶でしかないし、俺は俺でしかない。だけど、せめて、謝らなければならない」


 真摯に話しかける男に対して、女は静かに首を横に振る。


「裏切ったのは私のほうよ。本来ならば、永遠に待たなければならなかった。だけど、『もう、いい』と。そう思ってしまったのよ。

 あなたを待った。だけどもう、待てない。限界だったの。だからあきらめた。自分の責務を投げ捨ててしまったのよ」


 それこそがおのれの罪だというように、彼女は謝る。


「こんな私では、愛を貫く意味もなかった」


 悔いる女。

 だけど彼も口を開く。


「俺こそが呪いをかけた張本人だ。お前を悩ませ、待たせ続けた。挙げ句の果てにあきらめさせるまでに至って。だから、その想いに報いるべきは、俺のほうだったんだよ」


 しばしの沈黙。

 夏にしては冷たい風が吹き抜ける。

 ほどなくして、魔女は切り出す。


「実際に死を望んだのはほかならぬ、私のほうだった」


 ゆっくりと、真実を語り出す。


「『一緒に死んでほしい』と頼んだのは、私よ」


 彼女が振り返る。

 大きく目を見開いて、男の顔を藤色の瞳に映す。その表情は今にも泣き出しそうに見えた。


「呪いはむしろ慈悲。いつか死ねる日を強制的に与えるような代物だったの」


 呪いと不老不死には関わりはない。

 彼女が死ねない体であったのは、魔女であることが原因だった。

 相手が元から不死者であったがゆえに、人間であった男は置いてけぼりを食らう。おそらく本当に毒薬を飲んだとしても、彼女は死ねなかっただろう。


「それで、自分以外のやつと幸せになってくれたのなら、それでもよかった」


 彼はそう、本当のことを口に出す。


「だが今、呪いは解けたんだな」

「あなたと出会ったことで、ふたたび生の呪いにとらわれる羽目になったわ」


 鋭い声で彼女は語る。

 結局のところ彼女は永遠にとらわれたままだ。そこから解放される日は世界の終わりが訪れずまで、おそらくない。それならそれで、付き合うしかないだろう。


「責任は取る」


 男は一歩、前に出る。


「契約しよう。そうすれば俺にも永遠の時間が手に入る」


 合理的な選択。

 魔女は激しく首を横に振った。


「私にはそんな資格はないわ。いままで配下を作らなかったのも、私と同じ存在を作らないようにしていたからなのよ」


 彼女の気持ちも分かる。

 不老不死となる者を作り出したら、その者にも同じ悲劇を背負わせてしまう。

 だが、男はどうだ。確かに無限の苦しみは地獄だ。死とは救いであり、生とは監獄。


 それでも、男は口に出す。

 元は同じ存在であった存在だからこそ、言うべきだ。


「失った時間を取り戻そう」


 結局のところ彼女が死ぬ術を持たない者ならば、付き合うしかないのだ。それがたとえ地獄であろうと、最後の最後まで。

 一度逃げた自分にはそれをする義務がある。


「もう二度と、お前を一人にしない」


 まっすぐな声で、穏やかな表情で、自分の気持ちを伝える。

 熱い気持ちのこもった答えを聞いて、魔女の頬をはらりと涙が伝った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

慈悲の呪い 白雪花房 @snowhite

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ