酔いどれプラトニック1


「ハンス、少々失礼するぞ」


 時刻は午後五時を少し回った頃。

 三月下旬の凍てつく外気で、窓硝子にはうっすら霜が降りている。しだいに仄暗さを増していく外の景色とは対照的に、ハンス・ローマン・ゲルデラー博士の研究室は煌々とした照明に照らされていた。


「……なんだ、酒を飲んでるのか」


 グラスを片手に仕事用の椅子に深々と腰掛けていたハンスは、苦笑を浮かべ戸口に立つ部下のインセルト・リィレン・アルトシュテルンに目を遣り、悪戯のバレた子供のように首元を竦めた。


「他の人には言わないでくれよ……なにか急ぎの仕事かい?」


「いいや、この前もらった資料について、幾つか訊きたいことがあっただけだ。まあ、今じゃなくても良いさ」


 インセルトはもはや勝手知ったるといった風に上司のもとに歩み寄った。


「嫌な仕事でもあったのか?」


「うん、今度の機関誌に提出する論考をね。正直面倒くさくて……」


「はっはっは、ご苦労様だな……ほう、ブルゴン地方の葡萄酒とは、良いものを飲んでるな。しかも俺が生まれた年のものだ」


 自室のそれよりも上等なデスクに置かれたワインボトルを、物珍しそうに持ち上げる。ハンスはへらっと締まりのない笑みを浮かべた。


「うん、すごく美味い。君も飲みなよ」


「良いのか?」


「一人で飲んでても侘しいからね。ちょっとした現実逃避に付き合ってくれないか」


「そういうことなら、ぜひともご相伴にあずかろう」


 二人は応接用の背の低い円形テーブルまで移動すると、向かい合ってソファーに座った。


「乾杯」とグラスを交わす二人の影が、窓辺のデスクの方へと長く伸びる。


 世間一般で見れば上司と部下という関係でありながら、ハンスとインセルトは実に気安い間柄だった。

 互いに敬称を用いることなく、まるで同輩のように「君」「お前」と呼び合うこの風潮は、実は二人の属する魔法研究科に独特のものではない。それどころか、このベルンハルト魔法・魔術研究所全体で広くみとめられる「しきたり」の一つであった。


 研究員と調査員という区別はあれど、学問に従事するという点では同等の士であるとして、互いに気安い呼称で呼び合う。

 それはあくまでも形式的なものだが、この二人はそれ以上に「同僚」である風が強い。その理由としては、文献学班の班員がたったの二人だけである事実よりも、むしろゲルデラー研究員がアルトシュテルン調査員に抱く誠実な敬意に強く依っている。


 インセルトはハンスより五歳ほど年少であるが、ベルンハルト研究所での勤務年数は彼より長い。

 六年前の終戦直後から研究所に勤めているインセルトは、所長お抱えの調査員として経験を積んでいた。

 ハンスがこの研究所に赴任して来たのは三年ほど前になるが、今でも何かとこの部下にフォローされてばかりである。


 思えば、文献学班の班長に任命されて最初の学会発表を迎えた時もそうであった。

 発表用の論文の執筆が中々進まなかったハンスのために、必要となる資料の収集や検証結果の確認を一手に引き受けたのはインセルトだった。

 そして提出締め切り直前に何とか論文を完成させたのも、インセルトが連日徹夜で文章の推敲に付き合ったおかげなのだった。


 学位を持たぬ一調査員の身でありながら、インセルトはあらゆる知識に貪欲であり、あらゆる事象に深い理解を示す。

 その明晰な思考は、彼が報告書に綴る質素で無駄のない、それでいて力強い言葉の端々に滲み出ていた。

 そうした彼の言葉が、ハンスに今までどれほどの刺激的な発見を促したか分からない。


 額を互いに突き合わせ夜を明かした思い出を深紅の美酒にくゆらせて、思わず笑みを零す。

 突然に口元をほころばせたハンスを見て、インセルトは怪訝そうに眉を顰めた。


「どうした、急に」


「いや、ここに来たばかりの頃を思い出したんだ。あの頃から君は、粗暴で乱雑なようでいて、ひどく世話焼きだったね」


「おい粗暴とは何だ。俺はこんなに繊細で美しいだろうが」


 フンっと不満そうに鼻を鳴らしてグラスを傾ける。

 確かにその姿はさながら一枚の宗教画を思わせる神聖さだけれども、喋ると何かしら残念なのがこのインセルトという男だ。


 堪らず噴き出した上司を数秒だけじろりとねめつけた後、自称「繊細で美しい」男は呵々と一笑した。


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『越境者たちの眼差し』小噺集 高槻菫 @sumire-t16

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