前日譚
美しきものを見つけて
まだ春遠い三月の冷気が、改修工事の間に合っていないベルンハルト研究所内の至る所に染みついている。
垂れ込める重い眠気に眉間を揉んで、コーヒーでも飲もうかしらと思い至ったプリマヴェラ・フォン・グリューネヴァルトは、ふと食堂の端に見慣れぬ姿を認めて立ち止まった。
「――ごきげんよう、可愛いお嬢さん。席をご一緒しても?」
プリマヴェラが声をかけた瞬間、所在なさげに窓の外を眺めていた少女の瞳が、緩やかに向けられる。
故郷の内戦から逃れて来たというこの東洋人は、殆ど肌を露出しない民族衣装に身を包んでいた。確かキモノだのハカマだのと言っていたような覚えがある。とにかくその少女の特殊な装いは、それだけでも随分と人目を惹いていた。
突然声をかけられて動揺したのか、彼女はバター色の頬を軽く上気させ、しどろもどろになりながらも礼儀正しく会釈をした。人に慣れていない、気恥ずかしそうな表情を浮かべるこの純朴な
「あ、えっと、こんにちは。勿論です。その、えっと……」
「どうもありがとう……そういえば、自己紹介がまだだったわね。
プリマヴェラ・フォン・グリューネヴァルトよ。魔術科の工学開発班で班長をしてるの」
「グ、リュー、ネ、ヴァル、ト、さん……えっと、櫻香……氷室櫻香です」
「オウカ、ね。先にきたヒムロが苗字かしら。聞き慣れないけど、綺麗な響きだわ……それで、こんなところに一人でどうしたの? いつもの保護者気取りは?」
四六時中少女の傍を離れないあの生意気な
「インスは、その、お仕事があるって言ってました。ひとりだと、部屋にいても気が滅入っちゃうので、少し中を見て回ってて。図書室とかにも行ったんですけど……今は、お茶でも飲もうかなって」
「そうだったの……何か面白いものはあった?」
「そうですね……図書館の本で見かけたんですけど、あの、室内に星空を映し出す魔術が素敵だなって」
少女の口から魔術に興味を持つような言葉が出てくるとは考えていなかったので、プリマヴェラは一瞬驚いてしまった。
「ああ、あれね。魔術の中でも古典の部類だわ。式さえ導き出せたら簡単にできるのよ」
何気なく、軽く答えたプリマヴェラの言葉に、櫻香の両目が大きく見開かれる。
「本当ですか?」と期待と興奮で輝いている少女の両目は、世にも珍しい東雲の空の色だ。成程、あいつもこの娘の瞳にやられてしまったのだな と、プリマヴェラは初めてあのいけ好かない同僚に共感を覚えた。
「……見てみたい?」
「はい!」
大きく肯いた少女に微笑んで、プリマヴェラは脳内に散らばった数字を掻き集め、即座に術式を構成する。
瞬間、食堂全体が
わあ……と櫻香が染み入るような歓声を上げる。そのあちらこちらに巡らせる視線は感動と、それ以上の知的好奇心に溢れていた。
プリマヴェラが燦然と輝く星々の説明をしようとしたところで、これは何事か、と台所からやって来た給仕の女性が鋭い声で一喝した。
「フォン・グリューネヴァルト班長! 実験室以外での魔術の行使は禁止ですよ!」
「あら、ごめんなさい。すぐに戻すわ」
残念ね、とプリマヴェラは事象を元に戻して肩を竦める。
しかし目の前の少女は残念がりも恥じ入りもせず、ただ興味深そうにプリマヴェラを見つめ、
「今の、どうやったんですか?」
と聞いただけだった。
「今のって……星空の出し方? それとも消し方?」
「どっちもです。……魔術って、言葉を用いる魔法と違って、数字を用いるんですよね。計算式で特別な現象を導き出すって……どんな計算なんですか?」
「あ、ああ……それはね……」
静かに、それでいて強い瞳の輝きを以て櫻香が尋ねる。プリマヴェラは若干たじろぎながらも、計算式をメモ用紙に書いて説明した。
「――とまあ、こんな具合なわけだけど……」
こんなことを説明して、本当に楽しいんだろうか。
説明の最中、彼女の脳内を占めていたのはその疑問だった。
この東洋人の子どもは魔術の素養があるわけではないようだし、どちらかと言えば魔法側の人間だと聞いている。それにそもそも、この子の保護者役自体がたいそうな魔術嫌いだし……。
ぐるぐると思念が渦巻く中でちらりと少女を見遣る。その瞳はしかし、東雲の光を一層強めて輝いていた。
「すごく、きれいですね」
ぽつり と、感じ入るように零れた櫻香の声に、プリマヴェラの心臓は大きく脈打つ。
「私は、まだまだ知らないことばかりですから。正直グリュ……フォン・グリューネヴァルトさんの説明をしっかり理解できてるかは、怪しいんですけど……でも、このメモ書きにある、沢山の数字が、ある式によってまとめられて、一つの事象に……一つの解に辿り着いて、その過程とか、それがなんだか」
「私は、とっても……美しいなって、思いました」
すみません、上手く言えないんですけど……と、少女は人差し指で頬を掻く。
そんな彼女に、プリマヴェラはすっかり言葉を奪われてしまった。
何故? ……嬉しかったのだ。
その性質故に否応なく実学と結びつけられ、利便性のある技術としての見方しかされない魔術を学ぶプリマヴェラにとって。
そのせいで、本来の母体たる魔法一般からは、仇の如く憎まれている魔術に従事するプリマヴェラにとって。
魔術の式、そして数字そのものの美を感じてくれた櫻香の言葉が、感性が、息が止まりそうなほどに嬉しかった。
――魔法にしろ、魔術にしろ、私達は真なるもの、善なるもの、美なるものを追い求めて歩き続けているのだ、と。
いつの間にか埃を被っていた己の矜持が、ようやく報われたような、そんな心地さえした。
〈やっと……伝わった……〉
「それじゃあ、そろそろ行きますね」 と、櫻香が空になったカップを持って席を立つ。
「私が我儘言ったせいで怒られてしまって、すみませんでした……それから、術式のことを詳しく教えていただいて、ありがとうございました。
では、失礼します、フォン・グリューネヴァルトさん」
「――プリムラ」
「へ……?」
「私のニックネームよ。フォン・グリューネヴァルトだと長いでしょう? ……あんたには、親しい名前で私のことを呼んでもらいたいの」
ね? と優雅に微笑んで、ウィンクをする。悪魔をも虜にしそうな美貌の彼女がウィンクをして魅了されない者など、今まで男女問わずいなかったのだが……まだ幼いと言ってもよい櫻香は、少し口元を綻ばせるだけだった。
「うん、それじゃあプリムラさん。また今度」
返却台にカップを戻して食堂を立ち去る櫻香の姿が、色褪せたカーペットの上で控えめな音を立てて小さくなっていく。
ずっと、可哀そうな子だと思っていた。
故郷を失くし、寄る辺を失くし、この見知らぬ土地で生きねばならない、たった十三歳の女の子。それこそ、保護者役を買って出たインセルト・リィレン・アルトシュテルンという男がいなければ、きっとすぐにでも死んでしまいそうなか弱い子だと。
その認識は、間違ってはいないのだろう。
しかし、きっと正しくもない。
あの子は、氷室櫻香は、聡明な少女だ。感受性豊かで、知的好奇心の旺盛な、未来あるひとりの女の子だ。決して可哀そうなだけじゃない。
いつも物憂げに伏せられてばかりいた彼女の瞳に、知性の
「やっぱり独り占めって良くないわよ……ねえ、アルトシュテルン?」
櫻香の立ち去って行った方向をぼうっと眺めながら、こ憎たらしい同僚の名前をポツリとごちる。
魅力的なあの娘の保護者役を今からでも奪い取れはしないか と、プリマヴェラはいつになく真面目に思案した。
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