あなたと素敵な朝食を

やさしい目覚め

 やわい目蓋を撫でるあたたかな淡黄の光にひきつけられて、氷室ひむろ櫻香おうかの意識はゆっくりと浮上した。


 いまだ夢見心地な視線の先には、昨晩と同じ天井の木目がある。

 厚手のブランケットに包まれた身体は気だるく火照って、起き上がるだけでも少し勇気が必要だった。


「よしっ」と気合を入れて寝台ベッドから下りたは良いものの、部屋の冷気が素足から急速に体温を奪っていく。

 櫻香はひとつ身震いをして、つまさき立ちで窓辺に立つ。遮光カーテンを開けると途端に強さを増す朝の陽を一身に受けて、反射的に眉根を寄せた。


 遠く市街地から聞こえくる朝の祈りの鐘声と、庭の菩提樹にとまる番いの鳥のさえずり。行き交う人々の足音と、落葉掻きに勤しむ清掃員の姿。

 窓ガラス一枚を隔ててあちら側は既に人々の営みが始まろうとしているのに、こちら側は依然として黙りこくった夜の名残を引き摺っている。


 ――きっと、インスはまだ寝ているのだろう。昨晩は随分と夜遅くまで仕事をしていたようだったから。そうでなくても、あのインセルト・リイレン・アルトシュテルンという兵卒上がりの美丈夫は、存外朝に弱い性質タチだった。


〈起きてすぐに、朝食を食べられるようにしておこう。あと、珈琲も〉


 だが、朝食の準備をする前に、まずは自分の身支度をしなければ。隣室で枕に顔面を埋めているであろう彼の寝姿を想像し笑みをこぼすと、櫻香は洗面台へと向かった。 


***


 身支度を終え、キッチンの収納庫を確認してみると、朝食のパンが切れていた。そういえば昨晩、シチューの付け合わせで食べあげてしまったのだ。


〈今の時間なら、市庁舎前の広場で朝市が開かれてるはず……〉


 インセルトの寝室の前に立ったは良いものの、彼を起こすかどうか、櫻香は迷った。せっかくゆっくり休んでいるのに、邪魔してしまうのは忍びない。

 しかし櫻香は彼に養われている身だ。一人でパンを買いに行くにしても、食費を貰わねばならない。


〈しょうがないよね、うん〉


 こほん、と一つ咳ばらいをすると、ココアブラウンの木製のドアをノックする。返答はない。もう一度ノックするも、物音一つ聞こえてこない。

 試しにドアノブを回してみる。鍵はかかってないようだ。


「失礼します……」


 一応小声で断りを入れ、そろりとドアを開ける。カーテンの隙間から僅かに陽光の差し込んでいる室内はセピア色に仄暗い。

 部屋の奥に鎮座する、リネン生地のシーツが敷かれた寝台は、長身の彼に合わせた大きめの造りをしている。とはいえ寝具の上には昨日の夕刊や雑誌、文庫本などが幾つも散らかっており、そのまま寝るには少々窮屈そうだ。

 そしてこの寝台の主であるインセルト・リィレン・アルトシュテルンは、櫻香が想像した寝相と寸分変わらぬ体勢で――枕に顔面を埋め、それを両腕で抱きかかえるといううつ伏せの状態で――いまだに夢の中にいた。


「インス、おはよう」


 躊躇いがちに、申し訳なさそうに声をかける。やはり返答はなかった。

 しかし、戦場帰りのこの男が他人ヒトから声をかけられて――否、そもそも部屋のドアをノックされた時点で目覚めないなど、本来はあり得ないことであった。

 それだけ、ほとんど本能レベルでこの少女に気を許しているという証左でもあるのだが、当の櫻香本人はそんなことなど露ほども知らない。


 二度、三度、彼の名前を控えめに呼ぶ。起きてほしいような、ほしくないような、曖昧な声音で。

 それを受けて、インセルトは「ううん……」といつもよりさらに低い唸り声をあげ身じろぎをすると、その端麗なかんばせを櫻香へと向けた。 


〈ああ、インスは寝顔もきれいだなよなあ。教会で見た天使の彫刻みたい……〉


 いつも櫻香が魅力に感じている目、あの冬の星空を閉じ込めたような色彩の両目こそ隠されているものの、それにより目蓋を縁どる銀の睫毛が驚くほど長く濃いことが強調されて、思わず胸が高鳴った。

 一瞬、触れることを躊躇してしまうほどの、人間離れした美がそこに在る。


〈あ、でも、お髭生えてる〉


 しかし、限りなく透明に近い色合いのまばらな髭が、インセルトの黄金比を僅かに崩していた。昨晩別れた際にはなかったはずのその存在が、彼が現実に生きている人間で在ることを決定づけてくれる唯一のものであり、そのために櫻香は知らずと強張っていた肩の力を抜くことができた。

 ――何をしても美しいインセルトだが、髭だけはあまり似合わないのだ。


「インス、インス。ねえ、起きて」


 もう何度目かの声かけと共に、ブランケット越しに体へと触れる。

 すると、長い銀色の睫毛が微かに震えて、その合間から櫻香のいっとう大好きな瑠璃色が姿を見せた。


「ん……あ、オウカ? おはよう、どうした?」


「おはよう。ごめんね、起こしちゃって。朝食を準備しようと思ったんだけど、パンを切らしてたの。だから買いに行かなきゃ」


「あ? ……あー、そうだったっけか」


 気だるげに掠れたバリトンが鼓膜をうち、櫻香は自分の胸元が少し詰まったような息苦しさを感じた。それが申し訳なさからなのか、それともなにか別の感情に由来しているのかの判別はまだつかない。

 ようやく起き上がったインセルトだったが、頭をガシガシと掻くその姿はしどけない。いつもは怜悧な眼差しも、どこかとろんとした質感である。


「インス、まだ眠いよね。お金もらえたら、私が買いに行くから……」

 

「寝てて良いよ」 と言う前に、唐突に覚醒したのか、インセルトは慌てて言葉を被せてきた。


「いや、俺も行く。準備するから、待っててくれるか」


「それは構わないけど……」 言葉尻だけ見ればこちらの意向を尋ねているかのようだが、実際放たれた声色からは有無を言わせぬ圧を感じる。

 その態度の不可解さに、櫻香は小首を傾げた。


「疲れてたらゆっくりしてて良いんだよ? 市までの道程はちゃんと分かるから、私一人でも平気だよ?」


 たかだか朝市に行く程度、このヒトは何をそんなに気にしているのだろう。まさか自分は、食費も預けられないほどに信頼されていないというのか? 

 若干悲観的な想像に片足を突っ込みかけたところで、インセルトは「あー……」と低く唸りながら眉間を親指で押さえた。急に動いたために、軽くめまいを起こしたようだ。


「市庁舎前の朝市だろ? ……あそこ、近くに飲み屋街があるから、明け方まで飲んだくれてた学生どもがうろついてたりゲロ吐いてたりで、ちと治安が悪いんだ。お前を一人で行かせたくない」


「な、なるほど……うん……」


 思いもよらない返答に、若干口元をひくつかせる。一瞬芽吹いた悲しい疑念を丁寧に摘み取ると、今度は「インスは随分と心配性だな」と別の疑念が生まれる。が、櫻香はそれ以上何も考えないことにした。


「あと、昨晩見た限りだと……たしか、珈琲豆も少なくなってなかったか」


 櫻香は先ほど確認したキッチンの戸棚を思い返した。一際涼しい場所に置かれたあの透明な保存缶には、二人で三日分ほどの量の豆しか残っていなかったはずだ。


「そうだね。ついでだし一緒に買っておこう」


「よし、じゃあ顔洗ってくる」


 分かった、とお行儀よく返事をし、櫻香はインスの寝室を後にする。


〈インスと一緒に朝市に行くの、ちょっと久しぶりかも〉


 洗面台へと向かう大きな背中を眺めて、櫻香の胸は知らずと弾んだ。


 落葉を攫うひんやりとした風が、窓ガラスに吹きつける。きっと今日も寒いのだろう。そろそろマフラーが必要かしら、とバシャバシャ顔を洗う流水音を背景に、自分の寝室に探しに戻るその足取りはどこか軽やかだった。

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