Identifikation(後編)
「――ふ、くふふ……ふふっ……あっはははは!」
その時。もう耐え切れないと言わんばかりに、インスが腹を抱えて笑い出した。平常は陶器のように白い肌が、耳まで真っ赤になっている。
櫻香が両目をぱちくりと見開いている間に、インスは机に突っ伏すと、そのまま左手で机上をバシバシ叩いた。彼が力任せに叩くたびに、木製の簡素な机はガタガタと揺れる。ともすれば本の山が雪崩でも起こしてしまいそうな勢いだ。
「インス……?」
恐る恐る声をかけても、インスはひーひー身を捩って返事ができる様子ではない。元々その貴族的な容姿に似合わず感情表現の豊かな男ではあったけれども、こんなにはち切れたような笑い方をしているところを見るのは初めてだった。
やがてひとしきり笑い終えた彼は息を整えると、眦に溜まった涙を人差し指で軽く拭った。改めて櫻香へと顔を向けた、その表情は凪いでいる。先ほどまでの爆発が嘘のようだ。
「怒ってないの?」と不安げに視線を揺らす櫻香に、インスは何も言わないまま彼女の両頬を掌で包み込んだ。おもむろに彼の姿勢が傾いて、櫻香の頭上に影が落ちる。
櫻香の耳を、さらりと垂れ込めた白銀の髪が一房掠める。あっと驚く間もないうちに、少女の額に押し当てられた、仄かな熱。
それがインスの唇だと理解したのは、彼が体を起こす際に、煙草と花の混じった残り香が彼女の鼻腔をくすぐった時だった。
困惑と羞恥で彼女の目尻に涙が浮かんだ。それを分厚い、節くれだった親指が拭う。
溢れ出そうなほどの慈しみを湛えた眼差しが注がれて、櫻香の頬が熟した林檎のように染め上がった。
「いっ、インス、いま……!」
「んー?」
「ちゅ、ちゅー、したっ……!」
「ん、した。悪いな」
微塵も悪いと思っていない声音が返って来て、櫻香は混乱の内に口を噤んだ。
今までもプリムラなどから頬や額にキスをされることはあった。しかしそれはただの挨拶代わりに過ぎないと自覚していて。
していた……の、だけれども、
〈今のは何か、雰囲気が……〉
違う、と櫻香は感じた。その証拠に、インスの深いバリトンは耳の奥からとろけてしまいそうなほど甘ったるく響いているし、彼の両目はこちらが落ち着かなくなるほど優しい青色をしているし、そのせいで櫻香の心臓は呼吸が乱れるほど激しく鼓動を打ち付けていた。
そんな少女の心中を知ってか知らずか、当の本人は「よっこいせ」と彼の年齢に似合わぬ掛け声を上げ、机の縁に腰掛けると、左手を机上に付き、長い足を優雅に組んだ。
そして軽く重心を傾けると、右手を櫻香の耳の裏にまで這わせ、乱れた黒髪を一房指に絡めて弄んだ。
「……怒らないの?」
「うん、何がだ?」
相槌を打つ低音は胸が締め付けられるほど穏やかで、一瞬のうちに思考を奪われてしまう。
言うべき言葉を探していると、インスは「――ああ、」と合点のいったように肯き、一笑した。
「読書歴を追ったり、栞挟んでるのを追ったりするのな。まあ、確かに不快に感じる奴はいるからな……俺以外にはするなよ。
ただ、俺はお前に対して本棚を開けっぴろげにしてるわけだしな。お前に思考のストーキングをされたところで、別に悪い気はせんよ」
「す、ストーキングって……!」
「なんだ、違わんだろう。自覚があるから、はしたないなんて後悔したんじゃないのか?」
ぐっと言葉に詰まった。それに気を良くしたのか、インスは居心地の悪そうに視線を泳がす櫻香の頬に右手を這わせ、もちもちとやわっこい肌の感触を楽しんでいる。
なんか、変だ と櫻香は唇を引き結んだ。インスの視線がこんなにも甘くて、見られているだけで全身がハニーポットの中に浸されているような感覚に陥ることなど、今まで一度もなかった。目が合えばそれだけで背骨が痺れるような気分になる。じっとりと肌が汗ばんできて居たたまれない。陸の上にいるのに、溺れているみたいに息苦しい。
――やっぱり、変だ。
「あ……あ、あのさあ!」
「うん、何だ?」
「机の上に、座るの、お行儀が悪いよ!」
人差し指で机面を叩き、半ば叫ぶように注意する。
ようやく絞り出されたその言葉に、それまで三日月に細められていたインスの両目が大きく見開かれる。瞬間、その芸術品ともいえる顔面から一切の表情が抜け落ちた。
暫しの沈黙が室内を支配する。
インスは黙って机から降りると、左手も櫻香の頬へ遣り、そのまま頬肉を思い切りつまんで引っ張った。
ふひゃっ と気の抜けた声が櫻香の唇から零れ出る。無表情のまま真珠色の両頬をぐにぐにと上下させるインスは、やがて万感の思いを込めて盛大な溜め息を吐いた。
「あの、お前さァ……もっとこう、情緒ってもんを……いや俺も何やっとるんだ……」
少女の頬から話した手をそのまま自身の額に押し当て、インスは力なく項垂れた。
「こいつは十四歳、こいつは十四歳……」とひとしきり呟いた後、どことなく恨めしそうな視線を櫻香に向ける。しかし当の本人は、好き勝手にいじられた両頬をただ不思議そうにさすっているだけで。
いっそ憎らしいほどの無邪気さに、彼は再び腹の底から息を吐いた。
いつしか室内は仄暗くなり、窓の外では遠い森の奥へと沈みかけている太陽が、最後の光で薄墨の雲に色を残そうとしている。敷地内のガス燈にも、オレンジ色の灯が点り始めた。
惰性から指先をパチンとならし、インスは部屋中の照明を一斉に点ける。そして、その「魔法」を見て未だに わあ っと瞳を輝かせる横顔へじっと目を遣り、「なァ」と静かに声をかけた。
「――お前は、さ、俺になりたいのか?」
「えっ、うーん、どうなんだろう……」
櫻香はその可愛い
数分ほど内省した後、少女はとつとつとした口調でこう答えた。
「分からない……でも、インスは憧れだから、インスみたいにはなりたい。早く、できるだけ早く、インスみたいな大人になりたい。いつまでも、子どもでいるのは嫌だ」
その言葉に、インスは知らずと息を呑む。
「そう、か」と珍しく歯切れの悪い返事をした彼は、ほんの少しの間だけ、喜びと悲しみの混じり合ったような微笑みを口元に浮かべていた。
そして唐突に本棚の前まで足を進めると、ペーパーバックの置かれてある棚から一冊を抜き取り、櫻香に差し出した。
「ほら、これでも読むと良い」
「これは……?」
「元々読書がしたかったんだろ? この本はもう読み終わったし、読んで良いぞ」
ありがとう と受け取って、櫻香は本の表紙を見た。
つるつるとした質感の厚紙には、少女の横顔の影絵が印刷されている。影絵の上には『微笑みのマルガレータ』というタイトルが飾り文字で打たれており、書誌情報を確認すると、作者は櫻香の知らない人物だった。ほんの三年前に出版されたばかりらしい。
「その話はな、主人公のマルガレータがある少年に恋をするんだが、そいつは別の少女を愛していて、その彼女というのが主人公の親友なんだ。友情と恋情にマルガレータは心を引き裂かれ……ってのが粗筋だ。
まァよくある恋愛ものなんだが、描写の一つひとつが繊細で、さらに言えば、主人公が少女から大人の女に羽化していく様が何とも情感に溢れていて、実に美しい。それもあってか、大戦後の国内では割と評判になった作品なんだ。
……っていっても、俺がメモ挟んでたら、お前はそっちのが気になっちまうな」
言うが早いか、インスは櫻香の手から『微笑みのマルガレータ』を抜き取ると、所々に挟んであった細長いメモ書きをすべて取り外し、櫻香の手へと戻した。
少しだけ残念そうに、櫻香が本を受け取る。それを見て、彼はこう付け加えた。
「お前は自分の感情や思考を言語化するのが少し苦手なようだから、気になったところ、心動かされたところに紙を挟んで、何故そう感じたのかを一言づつで良いから、その紙に書き出しておけ。丁度いい訓練になるだろう。読み終わったら、またここに戻しておけばいい」
なるほど、流石インスだ と感動して頷いた直後に、あれ? と櫻香は首を傾げる。
「それって、私の思考、インスに筒抜けになるのでは……?」
一瞬目を丸く見開いた後、「……バレたか」とインスは軽く肩を竦めた。
「お前が俺の思考を辿ったように、俺だってお前が何に感動して、何を良いと考えるのかを知りたいってことだ。まァ、それはしなくても別に良いさ。
とにかくお前は、俺の思考じゃなくて、お前自身の読みを大事にすることだな。
――さァて、なんか腹が減ったな。そろそろ良い時間だし、晩飯でも作るか……オウカ、机の上片づけておけよ」
そう言いうと、インスは上品に着込んでいたジャケットを脱ぎ、大雑把にポールハンガーへと掛ける。そして台所へと向かいつつ、オールドブルーのベスト姿の上からエプロンを装着した。
調理を手伝うべく可及的速やかに本を戻そうと躍起になっている櫻香を振り返り、インスはぽつりと、こんなことを言った。それは、ほとんど聞こえないくらいの小さな、弱々しささえ感じられる声で。
「俺はさ、お前にはなるだけゆっくり大人になってほしいなと思うよ……成長が楽しみな反面、できることならそのままでいてほしいとさえ思っている」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの……」
照明の火が彼の繊細なかんばせを照らし出す。
そこに映し出された表情は、今まで櫻香がみたことのないくらいに物悲し気な、諦めにも似たものであった。
「そんなの、お前が大人になっちまったら、俺がロクでもない男だって分かっちまうからだよ」
櫻香は驚いて本棚に本を仕舞い込む手を止めた。どうしてそんなことを言うのだろう。櫻香は問いただしたかったが、なんと言って良いのか分からなかった。
台所と、書斎を兼ねたリビングとの間に、ひんやりとした宵口の空気が差し込んでいる。
僅か数メートルの距離が、こんなにももどかしい。
「インスは素敵だよ。素敵な大人の、男の人だよ。私の憧れだもん」
らしくないほどきっぱりとした口調で断言する少女の面差しに、「うん……ありがとうな」とインスは薄くはにかんだ。
通常は澄み切った冬の夜空のような瑠璃色の瞳は、しかし今はどこか影を落とし、戸惑いがちに伏せられている。
それが、胸が締め付けられるほど寂しいのに。できることなら、彼の目蓋の上に乗せられた悲哀や不安のすべてを、取り払ってあげたいと思うのに。
こんな時でさえも、適切な言葉を持ち得ないのか……そんな己の未熟さへの苛立ちを押さえつけるように、櫻香は本を持つ手に力を込めた。
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