Identifikation(中編)


 ――星印は、別個に参照箇所がある時のマークだ。


 何度目かのメモ紙を見た時に、櫻香の仮定は確信に変わった。

 同様に、感嘆符は気に入った箇所や賛同できる意見があった時、疑問符は疑問点や反対意見があった時のマークなのだろうということも分かった。


 法則が分かれば、櫻香の本を読み進める速度はどんどん早くなった。


「☆ 六六行目 T. バーク,コリント論 一八七頁 三一行目」


「! 二一~二二行目」


「? 三〇行目 反. O. エイドス,戦争史Ⅱ」


「? 一七行目 超越的存在の傲慢さ」


「! 一〇~一三行目 大衆としての民衆」


 ……星印を見つけたら記されている書籍を取り出し、メモ用紙を挟んでいる箇所がなくなれば新しい本を手に取る。

 いつの間にか、机の上には大小様々、色とりどりの書籍の山が築かれていた。

 さながら今の櫻香は読書をしているというよりも、「読み散らかしている」と言っても良いかもしれない。しかしそれは櫻香にとって、存外にも楽しい作業だった。一冊に挟まれたメモ書きの種類や数の多さで、インスが何に興味を持ったのか、何を良いと思ったのか、何となく理解できるような気がしたからだ。


〈楽しいなあ。こんなに楽しいの、久しぶりだ〉


 例えば、インスは日頃から無神論者を自称しているけれども、本棚から抜き出した聖書には疑問符のメモ書きがやたらめったら挟まれていて、思わず吹き出してしまった。

 その他にも、事典や論叢には自然と星印のメモ書きが多く見られたが、大衆小説……特にロマンス小説や詩集には感嘆符付きがよく目に止まった。元々知ってはいたけれど、インスは犯罪小説よりも恋愛ものを好んで読むようだった。


〈――あ、この本、この前「新刊を見つけた」ってインスが喜んでたシリーズだ……ああ、こんな表現が好きなんだなあ〉


 メモ用紙が多い本は、おそらく読了している。逆に、二、三枚ほどしかない本はまだ途中か、研究のために部分的に読んだのだろう と推測もできた。


〈なんか、不思議な感じ〉


 いま目にしている言葉一つひとつとが、その背後に流れるコンテクストが、インスの思考に影響を与えているのだろうと考える。それは打ち震えるような悦びを櫻香に与えた。少しでも自分がインスの思考を捉えられたような、そんな錯覚さえした。


〈――あれ?〉


 はた と櫻香の指が止まる。

 いま、自分は何を感じたのか? 何をしていたのか?


〈私、インスの辿の?〉


 思考という特別にパーソナルな、聖域といっても過言ではないほどの領域――しかも、一番大切に思っている人の、それを。


 それを、あろうことか自分は追いまわし、侵犯しようとしていたのではあるまいか。


 そこに思い至った途端、櫻香は ぶわっ と全身の肌が粟立つ感覚がした。


 ――ああ、なんて、なんて、


〈なんて、!〉


 全身の血液が一気に逆流したかのような衝撃が奔る。

 気持ち悪い と思った。自分の行為が気持ち悪くて、恥ずかしくて、暴れ回るように脈を打つ胸に手を押し当て、櫻香は震えた。誰かの思考を追おうだなんて、ひどい侮辱であると感じた。


 でも。それよりも、何よりも。

 自分の行為の暴力性に気づいてもなお、そこに快楽を見出していることに、櫻香は愕然とした。


 あの時、櫻香は沢山の言葉が思考を攫い、コンテクストの波間に呑まれていくような心地がしていた。

 「自分」という空っぽの器に、混沌としたミルクが絶え間なく注ぎ込まれているような。むしろ押し寄せる活字によって「自分」という器を粉々に打ち砕かれるとか、自我が解かれていくなどというような。

 それは、とても気持ちの良いものだった。それらがインスの思考の素であると考えるほどに。


 その時感じた自我の揺さぶられる悦楽は、一度にあまりにも雑多な本を開いたためではなかったのだ。自分の思考が、錯覚は、あまりに甘美だった。


 櫻香は途方に暮れてしまった。こんなおぞましい人間は生きているべきではないとさえ思った。インスにも嫌われてしまうに違いない。そうだ、舌を噛んで死んでしまおう。

 そうして、櫻香が自分の舌に歯を当てた、その時だった。


「――どうした? 何か調べものか?」

 

 今 一番聞きたくない、本当は大好きなはずの低音が、櫻香の意識を引き戻す。

 勢いよく顔を上げると、ドアの前に立ち、怪訝そうな面持ちで頭を傾けるインスの姿があった。長い煙草休憩からようやく戻って来たのだ。

 だからといって、なにも今でなくも良いものを……櫻香はあんまり驚いてしまって、そのはずみに自分の舌をガリっと噛んでしまった。


「いっ……!」


「え、は? どうした!?」


「あ……あの、した、かんだ……」


「ハァ? 何やっとるんだ、この馬鹿たれ!」


 ふるふると小刻みに体を震わせる櫻香の傍に駆け寄り、インスがその小さな顎を掴む。


「ほら、口開けろ。舌を出せ……こら恥ずかしがるんじゃアない、はやく! ……うん、血は出てない。大丈夫そうだな」


 ほっと息を零すと、インスは櫻香の顎からそっと手を離した。

 そのまま彼は、所々に隙間の空いた本棚を一瞥した。そしてテーブルの上に積まれた色とりどりの本の山に視線を戻すと、「それで?」と胸の前で両腕を組んだ。


「こんなに本を引き出して、いったい何をしてたんだ? 調べものにしちゃ、まァなんというか、随分と方向性がないが……」


「あ……えっと……ごめんなさい」


「いやいや、謝らんでもよかろう……ああほら泣くなよ、別に責めちゃアおらんって」


「な、泣いてないよう」


 顔を真っ赤にして反論する櫻香だったが、そのまあるいビードロのような両目には、確かに軽く透明な水膜が張ってあた。


 こいつ、また何か変な方向に思考を捏ね繰り回して身動きが取れなくなってるな――そう気づいたインスは、ただもじもじと指先をこすり合わせる櫻香の両手を包み込み、膝を折った。

 そして、唇をきゅっと閉じ合わせたまま俯く少女の顔を覗き込むと、宥めるように視線を合わせた。


「いや、本当は、喋りたくないならそれでも良いんだが……でもお前、自分の考えとか感情を適宜吐き出さんと、にっちもさっちもいかんくなるじゃアないか。

 ――ゆっくりでいい、断片でいい、お前のペースでいいから。だから、教えてくれんか」


 芯の太い、体の奥まで深く響く彼のバリトンが、昂った櫻香の神経をゆるやかに鎮めていく。

 駄目押しのようにインスが「な?」と眦を緩めると、二、三度視線を宙に彷徨わせたのちに、櫻香はおずおずと口を開いた。


「あの、ね……本、読もうと思って」


「うん」


「それでね、メモ書き……細い、紙の、見つけて」


「ああ、俺が癖で挟んでるやつな」


「それ……お星さまのマークとか、びっくりマークとかあるでしょう。気になったところの行数も書いてある。それ、見てたらね、インスはここが気に入ったんだなとか、ここでは違う意見を持ってるんだなとか、分かって。インスの考え方とか、好みとか、言葉とか、その源を見つけるのが楽しくて」


「……うん。それで?」


「インスが読んだ本を追って、インスが栞を挟んだところを追って、インスの思考を辿ってたの……そうやって、私の中にインスの考えを……そしたら、ちょっとはインスみたいに……」


 なれるかもしれない、と思ってしまったのだ。そんなことあるわけないのに。


 最後の言葉は、置き時計の秒針にすら掻き消されそうなほどの小ささで。直後、訪れた静寂に、櫻香はたまらず俯いた。


インスは櫻香の両手を包んでいた手を解くと、何も言わずに立ち上がった。黙りこくった彼の両肩や、両手や、上半身全体が実は細かく震えていたことに、俯いたままの櫻香は気づかない。


「ごめんなさい。本当にはしたない、ひどいことを……」

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