インスの本棚

Identifikation(前編)

 十四歳の秋、氷室櫻香はインスことインセルト・リィレン・アルトシュテルンに連れられて、数か月ぶりにベルンハルト魔法・魔術研究所に戻って来た。

 研究所のある帝国北東部の街テーゼルシュタットでは日ごとに陽光が弱まって、街を南北に縦断するテーゼル川から家々に吹きつける風も既に冷たさを帯びている。

 もうあと少ししたら、長い夜の季節がやってくるのだ。


 ベルンハルト研究所の施設は、テーゼルシュタットの繁華街から五キロメートルほど南に離れた静かな丘陵地にある。

 元々その土地を所有していた貴族の邸を所長が買い取り、改築したのが始まりとされるこの施設は、増築に増築を重ねた結果、中世以来の古城と現代建築の建物が入り乱れる一種独特な外観をなしていた。職員寮も新しく建てられたものの一つで、工事の際にも伐採されることなく無事に移植された大きな菩提樹が、過ぎ去った時代を懐かしむように寮の中庭に佇んでいる。


 穏やかにいろづいた菩提樹を硝子越しに見下ろして、櫻香はそっと窓を閉めた。

 四階にあるインスの部屋からは、落葉掻きをしている掃除婦の姿や、薄鼠色のコートのポケットに両手を突っ込み足早に歩いている男の姿などがよく見える。ついさっき煙草を吸いに外へ出ていったインスの姿を窓から確認できなかったので、櫻香は少しだけ肩を落とした。


「煙草って、そんなに美味しいのかなあ」


 こんな言葉を言ったが最後、インスはただでさえ白い顔を更に青褪めさせて、「お前は絶対駄目だからな」と釘を刺すに違いない。彼の素晴らしく秀麗なかんばせにきゅっと皺が寄る様を脳裏に浮かべ、櫻香はくふっと笑みをこぼした。


 気管支が弱い故に一生味わうことがないであろうが、それでも煙草を嗜むことは櫻香にとって憧れだった。細いシガレットを指の間に挟み、灰色の煙を燻らせる男女の姿は、どうしたって特別に「大人」に見えるのだ。

 そして、出会った当初はよく見かけていたのだが、煙草を片手に佇むインスの姿は、少女の胸の内でノスタルジックな甘いしびれを焼き付けたものだ。

 ――いつの間にか、彼は櫻香の前で煙草を吸わなくなってしまったけれども。


〈パイプもかっこいいけど、インスのイメージとは少し違う。葉巻はなんだか野暮ったいからやだ……ああそういえば、昔お国のおじい様が吸っていらした煙管も素敵だな。ほっそりとした造りがインスによく似合いそう〉


〈……でもやっぱり、白くて細いシガレットを持った姿がいっとうかっこいいや〉


 いつだったか、インスの黒い外套を悪戯気分で羽織った時、煙と仄かな花の匂いの混じった香りに包まれたことを思い出す。知らずとほんのり両頬が火照り、櫻香は冷えた掌を押し当て熱を冷ました。


「私もインスみたいになりたいなあ」


 少女にとって、いまや一番身近な「大人」はインスを意味していた。そんな彼と共に過ごすうちに、その胸には埋め火のような焦りが燻り始めたのだ。


 櫻香は早く、はやく大人になりたかった。そしてそれは、煙草やお酒を嗜むことではないのだということも、彼女はちゃんと分かっていた。


 不思議なことに、その時一番欲しい言葉を、インスはいつも投げかけてくれる。自分一人では分からない感情が溢れて溺れそうになった時、その一つひとつに適切な名前をつけては形を与え、恐ろしい波の中から櫻香を引き上げてくれるのだ。

 いつも、いつでも、櫻香を助けてくれるインス。けれど、その逆は? ……どうあっても起こりそうになかった。


〈今の私じゃ、インスの支えになれない〉


 それこそ「魔法」のような彼の言葉は、インスが今までの人生で経験してきた事柄と、そこで培われた彼の人格によるものだと、櫻香はちゃんと知っている。それが自分に一番足りていないものだと、自覚だってある。

 そして、二人の間にあるこの差はきっと、一生縮まることはないのだと。


〈私はどこまでも「子ども」で、お荷物なんだ〉


 もちろん彼は「お荷物」だなんて思ってもいないだろう、そんなことは分かっていた。しかし、理解と感情は櫻香の中で別物だった。

 たとえインスが許しても、誰かに甘え守られたままでいる状態を……「子ども」のままでいる状態を、櫻香自身が許せなかった。


「……早く、大人になりたいなあ」


 御しきれないほどのじれったさに唇を噛んで、櫻香は窓辺から離れた。

 結局インスの傍に居て恥ずかしくない人間であるためには、知性と品格を身に着けていくしかない。そして櫻香にとって、そのために一番手っ取り早い方法は読書だった。

 部屋の奥には濃いブラウンの薪ストーブがあり、その中で炎が明るくパチパチ爆ぜている。平年よりも気温の低い日が続き、あまりに寒がる櫻香を見かねてインスが点けてくれたのだ。

 櫻香は椅子の背に掛けてあったショールを羽織り、本棚の前に立った。


 インスの本棚には、実に雑多な種類の書物が所狭しと仕舞われていた。

 棚の約半分を占めているのは彼の専門の魔法に関する学術書だが、その多くが裏表紙に研究所の印が押されており、職員権限で書庫から借りだしたものであることが分かる。

 インス個人の所有する書籍を見ると、難解な哲学書もあれば児童書もあり、天文学や精神分析学の本があるかと思えばオカルト全集もあった。ロマンス小説、犯罪小説、古代の戯曲集、詩集、言語学大辞典、民間医学書、音楽理論書エトセトラ。

 ……本棚を見ればその人の思考が分かると誰かが言っていたけれど、インスの場合には当てはまらないんじゃないかしら と櫻香が感じてしまうほどには多様である。


 いつもの癖で、櫻香は本の背を指で つー となぞった。つるつるとした紙のカバーや布の表紙など、材質の違いを指の腹に感じるのが楽しいのだ。

 やがて、そのうちの一冊を手に取った。旅の途中でよく見かけた文庫本のサイズより二回りほど大きなその本は、タイトルと目次を見る限り、古い時代の作品を集めた詩集のようだ。一葉、二葉と捲るたび、 かさ かさ と乾いた音がして心地よい。時々気に入った詩があると、口の中だけでまろく響かせるように口ずさみ、無心でページを捲った。


「あれ、紙……?」


 とあるページにまで差し掛かった時、櫻香は一枚の細長い紙が挟まっているのを見つけた。細長いその紙には、紫のインクで「☆ 十行目 イスティ 六八頁」と角の尖った独特な字で書かれている。あまり美しいとは言えないインスの字だ。


「イスティって……北方神話集の『イスティエール』かな」


 ふと記憶の糸に引っかかった櫻香は、持っていた詩集を机に置くと、『イスティエール』の仕舞われている本棚に目を遣った。

 二日前に本棚の整理を手伝ったので、どこにどの本が置かれているのかは大体把握している。大陸の北方民族に関するその神話集は、数年前に給料を前借りして手に入れたのだ と片付け途中にインスが話していたこともあり、強く印象に残っていた。


 櫻香は濃い苔色の装丁の立派な大型本を一番下の棚から取り出して、机の上の詩集と並べて置いた。六八ページを開くと、そこにはやはり星印と詩集のタイトル、ページ数の書かれたメモ用紙が挟んであった。

 どことなく満足感を覚えた櫻香は、また同じように一葉、二葉とページを捲る。

 すると再び同じようなメモ書きを見つけた。今度は書き出しに感嘆符と「三八~四三行目」とだけ書かれたものだ。三八行目を見ると、ある神話のモチーフにおける編纂者の論が書かれている。さらにページを進めていくと、その本には次々に細長いメモ用紙が挟まってあるのが分かった。


 ――そう言えば、インスが本を読む時はいつも粗悪な紙を細くちぎって栞にしていたことを、櫻香は今更ながらに思い出した。

 いつだったか、少しでも気になった箇所があると印をつけたいから、普通の栞だといくらあっても足りんのだ と、珍しく気恥ずかしげな笑みを口元に浮かべていたのを覚えている。


 櫻香は机から離れると、一番最初に目についたものを一冊抜き取り、表紙と天の部分を確認してから本を開いた。これまでのように当てもなく捲るのではなく、明確な意図があっての行為だった。その指に迷いは見られない。

 挟まれてあるメモ用紙を確認すると、書き出しはまたもや感嘆符で、櫻香は該当する行数の前後の文章を目で追った。読み終われば今度はまた別のページを開き、同じようにメモ書きを確認する。今度は疑問符の書き出しだった。

 行数を確認し、本文に目を通す。読み終わり、再度天の部分を確認し、また別のページを開き、メモと本文を見る……。


 どこか落ち着かない心に急かされて、櫻香は指と視線を動かし続けた。

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