『越境者たちの眼差し』小噺集

高槻菫

サクランボケーキに寄せて

ゲストハウスにて


「今日は起きていても大丈夫なのか」


 窓辺の安楽椅子に腰かけた少女、氷室ひむろ櫻香おうかは、居間と食堂の境から投げかけられた問いかけに一度本を閉じ、「うん」と小さく肯いた。


 声の主は、彼女の保護者役かつ新進気鋭の魔法研究者、インセルト・リィレン・アルトシュテルン――櫻香がインスと呼ぶ青年からのものである。

 彼は赤い封蝋の押された大型の封筒とペーパーナイフを持ち、この十四歳になったばかりの遠慮がちな同行者に変わった様子がないか、注意深く見守っていた。


 やがて彼女の顔色に健康的な赤みがさしているのを認めたインスは、居間の壁際に設置されたソファーまでやって来ると、そこにどっかりと腰を下ろした。


「なら良い。具合が悪くなったらすぐに言えよ」


「うん、ありがとう」


 半分ほど開かれた硝子窓からは草花の匂いを乗せたぬるい風が吹き込んで、レースのひざ掛けの裾を軽く揺らしている。まだ高い位置にある陽の光の一部が分厚い硝子越しにやわく歪められ、薄黄色い塗装のはげかけた古いゲストハウスの一室に満ち満ちていた。少し離れた草原で放牧された羊たちの鳴き声が、かすかに耳に届いてくる。


 ああ、なんという優しさ、なんという穏やかさだろう! 櫻香は本に栞を挟んで、甘いミルク色の靄のかかり始めた脳内をそのままに、ゆるゆると目蓋を閉じた。


******


 櫻香とインスの二人は、十日前から帝国南西部の自然保護区に隣接した田舎町ヴォルフラントを訪れていた。

 この滞在は、先に訪れた街で体を壊した櫻香の療養を目的としたものである。

 というのも、西方を森に、東方を川に、南方を山々に囲まれたこの町は、一見町というよりも集落と称した方が適しているような様相をしているのだが、古くは千年以上の歴史を有するといわれる保養地なのであった。


「――ここの空気は体に良いと聞く。しばらくここでゆっくり過ごすぞ」


 ヴォルフラントに到着した日、簡素な駅舎の出入り口の前に立ったインスがそう言った。


「……ごめんなさい。旅、中断して……」


「おいおい謝るんじゃない、なにも悪いことなんてないだろう? 

 良いか、これはバカンスだ。前の街で仕事を頑張った俺達は、この町でゆっくりバカンスを楽しむんだよ」


 宥めるようにインスが言葉をかけるものの、櫻香は小さく俯いて、地図を持つ小さな手に妙な力を込めていた。爽やかに晴れ渡った晩春の空には不似合いな、生真面目で神経質な落ち込みようだ。


 インスはしばらく「あー……」と呻いて乱雑に頭を掻いていたのだが、やがて少女の目線に顔を合わせるように、その大きな身体を折り曲げた。


「知ってるか? 帝国南西部はサクランボの栽培が盛んでな、それを加工した酒や菓子が有名なんだぞ。いやァ、楽しみだな。久々に美味い酒が飲めそうだ。

 ……お前もゆっくり寝て、美味いもんたらふく食って、沢山散歩して、色んな他人やつらと喋って……とにかく健康に過ごせ。健やかな精神は健やかな肉体から、と言うだろう? なァに、心配せずともすぐに良くなるさ」


 ニッ、とその繊細な面立ちからはおよそ似つかわしくないほど豪快な笑みを浮かべ、彼は櫻香の頭を力強く撫でる。たくましい手のひらで髪の毛をもみくちゃにされ、櫻香は少し不満げに、そしてようやく安心したようにインスの青い目を見つめ返した。


 実際、彼の言葉はその通りであった。自然豊かなヴォルフラントの清浄な空気に身を置くことで、絶えず櫻香を悩ませていた頭痛や神経過敏は、日を追うごとに落ち着いていった。

 兵卒上がりのガタイの良い美丈夫と、東洋の衣服をまとった少女という組み合わせは実に奇っ怪だ。このトンチキな旅行者二人組を、初めこそ胡乱な目つきで見ていた住民たちだったが、今では道端で立ち話ができるほどには親しみを以て接せられるようにもなった。そのこともまた、櫻香の心をひとつ和らげる要素となった。


 目蓋の裏にこの十日間の色鮮やかな記憶を見た櫻香だが、突如聞こえてきたインスの鋭い、そして情操教育上非常によろしくない罵詈雑言によって覚醒した。

 驚いて彼の方を見遣れば、その秀麗な面立ちに、まるで蛇蝎にでも相対しているがごとくの表情を浮かべている。

 何かあったのだろうか。櫻香は下手に刺激をしないよう、可能な限り平静を装って尋ねてみた。


「……どうかしたの?」


「ああいや、フォン・グリューネヴァルトの奴がちと面倒な文献の翻訳を押し付けて来やがってな。それも一週間以内の提出を厳守、ときた! ふざけやがって!」


 インスが忌々しそうに眉根を寄せ、舌打ちをする。

 文献の、とくに古典とされるテクストの研究・解読は彼の専門分野であるから、普段なら特に文句など言わないはずなのだが……どうやら今回は相手が悪かったようだ。


「プリムラさんが……ってことは、魔術に関する文献かな」


 言葉を用いて周囲に満ちる魔力を繋ぎ・変容させて特定の効果を引き起こす古来の「魔法」と違い、「魔術」は数式によってその効果を引き起こすような演算処理を行う技術である。

 とはいえ、その性質から現在では多くの機械装置に利用されている魔術であるが、原型自体は中世末期まで遡ることができるので、実はさほど新しいものでもなかったりするのだが。


 そして手紙の送り主たるプリムラという女性は、インスと同じ研究所に勤める魔術科所属の研究者 プリマヴェラ・フォン・グリューネヴァルトのことだった。


「そうだ……まったくあの女狐、ちっとばかし自分の方がポストが高いからと調子に乗ってやがる! 手前は魔法の言語も分からんクセに、魔術科ってだけでそんなに偉いかよ」


 「由緒正しく」「人と結びついた」魔法の研究者である彼は、「新参者」で「機械と結びついた」魔術が大嫌いだった。

 もっと言えば、魔術の研究をしているプリムラという女性自体が大嫌いだった。


 インスと旅に出る前に研究所内で遭遇した、知識という糖衣にくるまれた二人の陰険な応酬を思い出す。自ずと櫻香の口元は引き攣った。


「……翻訳って言ってたけど、何か私に手伝えることある?」 


「いや、今回のはさすがに俺一人でしよう。お前はゆっくりしていてくれ」


「そっか……」


 返答を受け、櫻香が僅かに声のトーンを落とす。インスは深く刻まれた眉間の皺を緩め、「いつもありがとうな」と労るように言葉をかけた。 


 古今東西のあらゆる言語を扱うことができる櫻香だが、その膨大な力は彼女の体に多大な負荷を与えてしまう。先の街で体を壊したのも、一度に幾つもの言語の情報を引き出してオーバーヒートを起こしたためであった。


 自分にできることがないと悟った少女は、ひざ掛けを畳むとやおらに立ち上がり、本を元々あった本棚の箇所に仕舞ってこう言った。


「天気が良いから、少しお散歩してくるね。このままだと寝ちゃいそう」


「おお、そうか……くれぐれも道中気をつけろよ? この間みたく大群の羊に囲まれて泣きべそかいても助けてやれんからな」


 その忠告に揶揄いの色があまりにも強く滲んでいたので、櫻香は少しむくれて反論する。


「泣きべそなんてかいてなかったもん!」


「ほーう? そうだったか」


 呵々とした笑い声が室内に響く。櫻香はつられて気恥ずかし気に顔を綻ばせ、「いってきます」と居間を後にした。

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