迷い星

めそ

迷い星

#1


 二年前、妹と両親が事故で他界し、皆月家には私と三毛猫のミケが遺された。

 仕事で妹の卒業式に参加できなかったことは不幸というべきか幸と言うべきか、とにかく死に損なった私は両親が遺した一軒家でミケと暮らしていた。

 そのミケも、最近姿を見なくなってしまった。飼い猫は寿命を悟ると家を出るという話は本当だったのかもしれない。


「あっ」


 日曜の昼過ぎ、流石に眠りすぎたのでそろそろ起きてなにかご飯でも作ろうかと冷蔵庫を開いたら、それらしい物は豆腐と納豆しか残っていなかった。なんて健康的な昼食だろうか。ご飯を炊いてかさ増ししてみても、全然満腹感が得られない。

 不摂生とわかっていながら、カップアイスでお腹を満たす。


「えーっと、他に足りないものなにかな……っと」


 パソコンで近くにあるデパートの広告を確認し、買い置き出来そうな物や終わりそうな日用品をスマホでリストアップしていくと、結構な大荷物になりそうだった。


「これとこれは会社の帰りでいっか」


 先週も同じことを言って、今日食べる物がなかったのだが、それはそれ。車で移動するにしても、真夏日に大荷物を運ぶ気にはなれない。


――季節は関係ないでしょ


 妹が生きていたら、そんなことを言っただろうか。

 でもごめんね、お姉ちゃんズボラなの。

 そう心の中で開き直って、寝間着と下着をまとめて脱いで洗濯機に放り込み青いジャージに着替える。下にスポーツウェアを着てしまえば、運動しているわけではないのになんだかそれらしく見えるのだから素晴らしい。


 どうせ私のことだから、日が暮れるまで待っていたら今より行く気が失せてしまう。なのでさっさと買い物を済ませてしまおうと、雲ひとつない青空から焼くような陽射しを落としてくる太陽の下に足を踏み出した。


「あ、財布忘れた」


 ついでに家の鍵と、車の鍵も。



 結局、陽射しと暑さに負け夕方になるのを待ってから家を出た。五時になったら生鮮食品は割引されるし、うん、なにも間違ってない。


 来週は夏祭りが催されるため、電柱と電柱を電線だけでなく赤い提灯を吊るした紐が繋いでいた。

 毎年のように妹と夏祭りに出掛けていた頃が懐かしくなり、胸が締めつけられる。そういえば、去年は引きこもり気味だったせいでいつの間にか夏祭りが終わっていた。


 今年はどうしようかな。


 一も二もなく遊びに出掛けていた頃がやけに遠く感じ、泣きそうになる。

 そのまま鬱々とした気分で駐車場に車を止め車外に出れば、日が暮れるまであと少しだというのに恐ろしく乾燥した熱気が体を包み込んできた。念には念を……と日陰を狙って停めたのになんの意味もない。


「あづぁー」


 陽射しを防ぐためにジャージを着たのだが、熱気がこもってむしろ逆効果になってしまった。

 そもそも、家を出た時に気付くべきでは?

 駆け足でクーラーの効いたデパートに逃げ込みながら自問するが、車に乗り込んだ時に自答していたことを思い出した。


「アイス食べよ」


 私は迷うことなくデパ地下の生鮮食品コーナーを横切り、隅にあるアイスクリーム屋でバニラアイスを買って、クーラーで冷やされつつある身体を冷やす。

 しっかりコーンまで食べ、いざ参らんと腰を上げようとした時、アナウンスがなった。


『…………ご来店中のお客様に迷子のお知らせをいたします』


 迷子かあ、私もよく迷子になったなあ。と微笑ましい気持ちで聞いていると、その迷子の特徴になにやら違和感を覚えた。


『ただいま一階の迷子センターにてミナツキミユ様をお預かりしております。お連れのお客様は至急一階の迷子センターにお越しください』

「は?」


 妹の名である望結みゆを連想させる名字に、私は居ても立ってもいられなくなり早足で迷子センター向かう。


「やほ、お姉ちゃん」


 果たしてそこにあったのは、二年前死んだはずの妹の姿だった。



#2



 訳がわからず混乱する私の手を引いて望結はデパートの外に出ようとする。


「あ、ちょ、ちょっと待って!」

「ん? どしたの?」


 卒業式に着ていった和服のまま現れた望結は私よりも背が高く、ずっと大人っぽい。そのため、傍から見れば私達は姉妹どころか親子に……は流石に望み過ぎか。私が妹に見えるかもしれない程度だろう。

 いやそんなことはどうでも良くって。


「ご飯買いに来たんだよね」

「……あ、そっか」


 ずぼらだがそれなりに計画性はあると自負する私と違い、しっかりしているように見える望結の方が意外とうっかりさんだったりする。現に着物の前合わせを左前にして着ている。

 ……いや、望結は死んだのだから、これで正しいのだろう。

 そんな考えが顔に出てしまったのか、望結は心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「ね、平気? 熱中症? 具合悪そうだよ」

「いや、ちょっと驚いてるだけ」


 首だけでなく体全体を傾げて覗き込む癖や、言葉の間に挟まるちょっとした息遣い。どれを取っても幼い頃から知る望結のままだった。

 幻覚だろうか。

 両手で思い切り頬を叩いてみる。痛い。夢ではないようだ。


「ね、ホントに平気?」

「……平気じゃないかも」


 おかしい。

 絶対おかしい。

 だけど、

 ……だけど? それ以上の言葉は浮かんでこなかったが、言葉に出来なくても自分の気持ちはなんとなくわかった。


「早く買い物終わらせて帰ろっか」

「そだね」


 若者っぽく明るめに染められた茶髪が揺れる。

 ……なんか今のすごいババ臭かったな。気を付けよう。



 一人で持てば重いが二人で持てばなんてことはなかったので、最初に予定していた大荷物を車に積み込み、もうすっかり日が暮れてしまった街の中を車で通り抜ける。


「あの……さ、望結なんだよね?」


 車を走らせながら隣に座る望結に問う。


「うん、そだよ」

「え、え、……っと、幽霊?」

「そんな感じ」

「はー、そっ、か……うん……」


 幽霊なんて信じてなかったけど、本当にいるもんなんだなあ。などと、妙な納得のしかたをする私がいた。もっと取り乱すかと思いながら質問していたのに。


 いや、本当はずっと取り乱しているのかもしれない。

 目の前の事実が受け入れられなくて、納得出来なくて、意味がわからなくて、


「……そっか」


 二年前と一緒だ。

 胸にポッカリと穴が空いた感覚が、私の心から現実感を奪い取っている。

 望結が帰ってきたというのに、一体どうしたのだろうか。


「…………」


 赤信号に捕まったタイミングで隣に座る望結の顔を覗き込んでみる。

 ぼうっと窓の外を眺める横顔は、どう見ても私の妹のものだった。



 家に着くと、望結は荷物を抱えたまま玄関の前で立ち呆けていた。


「なにやってんの?」

「ん? あー、や、帰ってきたなー、って」

「なにそれ? まだ暑いから早く入っちゃいなよ」


 望結は幽霊みたいなものだから空腹は感じないらしい。じゃあなんで荷物が持てたんだと聞いたら、首を傾げられた。


「……ゾンビ?」

「さあ?」


 試しに望結のにおいを嗅いでみたが、腐乱臭などはしない。


「……ホントに望結?」

「んー、どう説明すれば良いのかな……」


 望結はしばらく悩んだ後、「よくわかんないや」と笑う。


「それよりなんか眠くない?」


 そんなわけないじゃん。


「全然眠くないけど」

「あー、そう? 私は眠いから寝るね?」

「あ、ちょっと、それ脱いでから寝てよ」

「はーい」


 いいかげんな返事だったので望結の部屋を覗いてみれば、案の定着物を脱ぎ掛けたままベッドに倒れ寝落ちしていた。

 一体どれほど眠かったのか、ミケの間抜け面が収められた写真立てが机の上で伏せ倒されている。


「あーあ」


 シワになるだろうが、後でアイロン掛けすれば良いか。写真立てを直し、点けっぱなしだった望結の部屋の電気を消し、シャワーで軽く汗を流してから私も自室のベッドで横になる。


「…………」


 寝つけないというより、寝るにはまだ早い。スマホで時間を確認したらまだ九時前だった。


 ……なんと言うか、やっぱり不自然な気がする。

 いや、死んだ人間が帰ってきたところからそもそも不自然なんだけど、そうじゃなくて私の方がもっとこう……再会を喜ぶとか、夜が明けるまで話し込むとかするべきじゃないだろうか。


 だけど、何故だろう。

 アレは望結ではない気がする。


 何故だろう、何故だろう、とその理由を考えていたら、ひどく眠くなってきた。今日は色々あって疲れたのだろうとは思ったけど、流石に望結ではないかもしれないナニカがいるのに眠るわけにはいかない。

 そう考えているのに、眠すぎて体が動かない。それでようやく、私は異常に気付いた。


「ぅぁ……」


 しかし時すでに遅しというやつらしく、坂を転がるように私は眠りに落ちる。




#3




 再び目を覚ましたとき、私は望結と再会したデパートの屋上にいた。


「…………?」


 拐われたのかと思ったが、頭上に見える満天の星空がそうではないと教えてくれる。

 カメラのシャッターを開きっ放しにした時のように、星々が幾重もの円を描こうとしている夜空なのだが、どういうわけか北極星が二つもあった。

 どう考えても夢だ。それも悪夢に違いない。


「やだなあ……」


 妙に意識がはっきりしていて気味が悪い。夢特有の水の中に在るような感覚や思考の鈍りもない。明晰夢なのだろうか。それにしては空を飛んだり出来ないようだし。


『……ご来店中のお客様に迷子のお知らせを致します……』

「ぅおっ……ん?」


 ベッドで眠る私を意識して瞼を開こうとしていると、突然迷子アナウンスが流れ出す。驚いて周りを見ると、一歩も動いていないはずの私は三階の女性服売り場に立っていた。

 夢特有の謎ワープだろう。


『……ミナツキミユ様、ミナツキミユ様。お連れ様が三階女性服売り場にてお待ちしております。至急お越しください……』

「んなっ!」


 このままここにいたら絶対ヤバい。

 エレベーターなんて使ったら絶対閉じ込められるので、非常階段を駆け下りる。


「あーもう……」


 こんな時、都合良く寺生まれのTさんだとかオカルト趣味の知人がいればどうにかなったのかもしれないが、残念ながらそんな人間などいないし、私のオカルト知識は動画サイトでホラ話を流し見た程度。

 今だってもしかしたら……と目が覚めて悪夢なんてなかったんだ、となることを期待している。


「ん!?」


 階段を下って今は二階のはずなのに、金属のドアには『12階』と書かれていた。手すりから下を覗いてみれば、確かにずっと階段が続いている。

 というかそもそも、このデパートは七階建てだったはずなのだが……。

 見間違いかともう一度ドアを確認すると、


「見ツケタ、オ姉チャン」


 目の前に望結の姿をしたソレが立っていた。音もなく近づいてきたソレは気崩れた着物を肩に引っ掛けており、眼があるはずの場所に無数の小さな光を収めた黒い孔が二つ空いていた。


「うわあ!」


 両手を私の顔に伸ばしてくるソレの腹を思わず蹴飛ばしてしまう。足を通して伝わる妙にリアルな弾力が、気味悪さとなって私の心臓に掴みかかってきた。


「――――ッ!」


 眼球の代わりに二つの夜空を収めたソレは、『12階』のドアに頭をぶつけて動かなくなる。

 望結の姿をしているので一瞬心配になるが、構わず階段を下りる。

 階数はやはりめちゃくちゃで、なかなか一階に辿り着かない。それどころか、日頃の運動不足のせいで息が上がってきた。


 またアレと出会したら、また逃げられるだろうか。


「あっ! よし、よし!」


 不安になっていたところで、ようやく『1階』と書かれたドアに辿り着いた。まだ階段は下に続いているようだったが、迷わずドアを開ける。



 果たしてそこにあったのは、二つの北極星を持つ夜空だった。



「あだっ!」


 一階の非常階段を出たすぐ目の前に、本来あるはずのない自動ドア。勢いよく飛び出したせいで思いきり頭をぶつけてしまった。


「くぅう……! なんて地味な……」


 ガラスのドアを通して見える外の景色は、屋上で見た夜空ととても良く似ていた。

 外に夜空以外のものはなにもなく、建物も道路もない。このデパートが空に浮かんでいるようだった。


「逃げられないってこと……?」


 ガラスに触れる手がひやりと冷たい。

 疲れた体に気持ちいいが、これが夢ということを考えだすと気味悪さが勝ってくる。

 ……逃げていても無駄なのではないだろうか。

 そんな考えを見透かしたように、ブヅッとマイクが入る音がする。


『……ご来店中のお客様に迷子のお知らせを致します……』


 どこから見ているのか、迷子アナウンスはミナツキミユに私の居場所を知らせる。抑揚のない女性の声が不安や恐怖心を煽っているようだった。


『……ミナツキミユ様、ミナツキミユ様。お連れ様が一階出入り口付近でお待ちしております、至急お越しください……』


 ミナツキミユを待つつもりはないので、さっさと逃げようと踵を返す。


「見ツケタ、オ姉チャン」

「ひやぃ!?」


 どこからか音もなく後ろに現れていたソレは、先程よりも近い距離に立っていた。慌てて後ろに逃げようとして、またしてもガラスのドアにぶつかる。


「見ツケタ」

「いや、あの、ね!?」


 仰向けに倒れた私に手を伸ばすミナツキミユに自分でも意味のわからない言葉を投げかけながら、指で床を引っ掻いてその場から逃げ出す。

 みっともなく逃げながら後ろを振り返ると、ミナツキミユは自動ドア前で私の方を向いたまま立ち尽くしていた。どうやら追ってくる気配はない。


「はあっ、はあっ……」


 一安心したら、急に疲れてきた。どこか休める場所はないかと前を向き直ると、


「っ!」


 四階の男性服売り場にいた。目の前に立つマネキンに驚いて、足が絡まって転んでしまう。


「いっ……たぁ……」


 上手い転び方が出来なかったらしく、床に打ち付けた左腕が鈍く痛い。日頃の運動不足がここまで響いてくるとは流石に予想外だ。


 て言うか、こんなに必死に逃げ回ること自体、非現実的だと思うんですけど!

 思わず涙を流しながら、階段近くの壁際で腰を下ろす。

 アナウンスが流れ始めたら、階段を下ろう。ミナツキミユはアナウンスが流れて後ろを振り向いたら現れたから、振り返らなければ大丈夫。

 ……大丈夫。


『……ご来店中のお客様に迷子のお知らせを致します……』


 ガダン! と大きな物音がアナウンスと共に聞こえた。


「ひぃっ!?」


 怖っ! いやそんなこと考えてる場合じゃないって!


『……ミナツキミユ様、ミナツキミユ様……』


 迷子アナウンスが私の現在地をミナツキミユに知らせるのを聞きながら、私は階段へ向かおうと壁に寄りかかりながら立ち上がる。


『…………お連れ様が屋上でお待ちしております……』


 ――――え?


「見ツケタ」

「え」


 私は、屋上に立っていた。目と鼻の先に、二つの小さな星空。


「〜〜〜〜っ!?」


 驚いて尻餅を突いて倒れてしまう。ミナツキミユが私を見下ろすのと同時に、彼女の後ろに見える二つの北極星が私に向いた。


 あれ、目だったんだ。

 そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい、私は目の前のことを受け入れられていないようだった。

 振り向くとかどうとか、全然関係なかったなんてホントどうかしてる。


「見ツケタ、オ姉チャン」

「えっと、私の妹はもういないんだけど……」

「見ツケタ、オ姉チャン」


 駄目だ、話が通じない。

 ただ、機械的に同じことを繰り返してるだけでなにもしてこないので、考えればなにかすごい解決策が閃くかもしれない。


 しかしキーワードと言えば、星空? 星? 星に関係した妖怪は天狗くらいしか知らないが、これ絶対違うと思う。天狗は流れ星のことだし。

 星、星……。

 ……流れ星?


「……あ」


 先週、流れ星に「望結と会いたい」と願っていたことを思い出した。

 どうせ迷信だから、と絶対に叶わないことをふざけ半分に願ったのだが、もしかしてその結果がこれだろうか。

 願いを叶え、夢の中で襲ってくる妖怪。

 ……いや仮にそうだとして、正体がわかったところでどうしようもないのだけれど。


「見ツケタ、オ姉チャン」

「っ!」


 考え事をしていたおかげで気付けた。二つの北極星が私に近づいて来ている。ゆっくりと、だけど確実に。円を描く星々が渦を巻いていた。

 もしかして、目の前で同じことを繰り返すミナツキミユではなく、この夜空そのものが妖怪かなにかの正体なのだろうか。


「……あー」


 スケールの大きさに負けて、心が諦めの域に達してしまった。

 どうしようもないじゃん。


「見ツケタ、オ姉チャン」


 よくよく見れば、このミナツキミユは全然望結に似ていないではないか。

 着物の柄は望結が好きな桜ではなく逆に嫌いな梅の花だし、卒業式の日に私が貸してあげた髪留めもしていない。左目の下のホクロがある時点で、決定的に別人ではないか。

 こんなものを妹と思い込んでいたのかと、自分の目の節穴加減に笑ってしまう。


 夢を見せられていたのだろうか。

 死んだはずの望結が帰ってきたというまぼろし


 オカルトは全然詳しくないけど、まわりくどいことをしてくれたものだ。この世に未練なんてとっくに……とっくに……。

 ……………………。


「さよなら、ミケ」


 たったひとこと口にするだけなのに、声は震え涙が出た。


 正直、未練なんてたくさんある。やりたいことも行きたい場所も食べたいものも、望結が死んだせいで沢山増えた。

 まだまだ生きていたい、死にたくない。


 だけど、

 それももう叶わないのなら、

 せめて夢の中だとしても別れを言いたかった。

 望結が散々可愛がっていた、愛猫に。


「んな゛あ゛ー」


 媚びる気の一切ないミケのダミ声が聞こえたような気がした。

 これもきっと、星空が聞かせた夢。




#4




「――ふがっ」


 目が覚めたら、日が随分と高く昇っていた。なんだか酷く恐ろしい夢を見ていた気がする。


「頭いったぁ……風邪かな……」


 ベッドから身を起こし目覚し時計を確認すると、十時を過ぎていた。


「…………」


 見間違いかなとスマホで確認しても、十時二十一分。


「…………?」


 まあ……うん。今日は日曜日だから安心だよね。

 しかしカレンダーやスマホで何度も確認してみても、今日は月曜日だった。


 月曜日の、十時過ぎ。


「…………、あー、風邪引いたわー、めっちゃ辛いわー」


 とりあえず会社に電話し、寝坊したことと遅刻することを伝えて上司にぐちぐちと怒られる。

 くそう、全部風邪が悪いんだ。頭痛いし全身筋肉痛みたいな感じだし、絶対風邪だよこれ。


「ん?」


 バタバタと家の中を走り回っていたら、望結の部屋のドアが僅かに開いていることに気が付いた。いつもは全開にしておいてあるので、妙に思って部屋の中を覗いてみる。


 ふわ、と何故か開けられた窓から風が入り込んできた。

 昨日換気して閉め忘れたまま寝てしまったのだろう。二階の窓だが、出掛ける前に気付けて良かった。


「うわ」


 窓を閉めようと部屋の中に入ると、なにかを踏んだ。驚いてそれを確認して見れば、首輪が落ちていた。

 望結がミケに買い与えた、桜色の首輪。


「…………」


 思わずそれを拾い上げ、立ち呆けてしまう。

 いつの間にか帰ってきていたのだろうか。しばらく首輪を握ったまま家の中を探し回るが、ミケがいる様子はない。

 頭の良い猫だったから、首輪だけ置いていったのかもしれない、と妄想してみる。


 家を出る前にミケの首輪を望結や両親のいる仏壇に置く。


「お帰りなさい。それと、行ってきます」


 いってらっしゃいの声は、聞こえない。

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