竜の逆鱗、もも色に染む

 あの日曜日は、いま思い返しても運命でしたわ。

 わたくしはモーニングルーティンのため五時半に起床し、簡単に身支度を整え、愛犬アルブレヒトと共に自宅を出ましたの。そして自宅の隣の神社へ歩いて向かいまして、大きな鳥居越しに本殿を臨みました。

「おはようございます、お隣の九澄百絵くずみももえでございます。本日も良き一日でありますようお見護りくださいませ」

 神様にご挨拶を終え、神社を横切った先の丁字路で右に曲がろうとしたときのことです。

 どこからともなく黒いワンボックスカーがわたくしの方へ走り向かってくるのですから、あまりにもびっくりして身体が固まってしまいました。アルブレヒトが必死にキャンキャンしていましたのに、わたくしはどうすることもできません。依然、ワンボックスカーはものすごいスピードでわたくしめがけて向かってこられます。

 このままではかれてしまう。そう思ったわたくしは咄嗟にその場で肩を縮め、目を瞑りました。

 甲高いブレーキング音、タイヤゴムとコンクリートの擦れる臭い、ガシャーンというけたたましいクラッシュ音と、跳ね飛ばされたらしい浮遊感――

「……ん?」

 ――は、ありません。恐る恐る目を開けたとき、跳ね飛ばされるよりも信じられないことが起こっておりました。

 なんと、見知らぬ方に強く抱き留められておりましたの。それもわたくしの頭をお守りくださって、加えて硬いコンクリート道路の上だというのにお構いなしに、わたくしに覆いかぶさるようにしてらして。

「おい、怪我ァねぇか」

 お顔はいまだわかりませんが、焦燥的なそのお声はどうやらわたくしを案じてくださっているようでして。驚きのままに「は、はい……」と細く答えましたが、彼はわたくしに覆いかぶさったまま動こうとはなさりません。

「あ、あの、アルブレヒトはどこですの?」

「あ? アルヒ……なんて?」

「アルブレヒトですわ、わたくしにとって弟のようなワンちゃんです。犬種はビションフリーゼ」

「あー、あの毛玉か。あれならオレの舎弟が抱えてるはずだ。それよか嬢ちゃん、どこも痛くしてねぇか?」

「え? ええ、恐らくですが」

「よし。そしたらアルヒーゼんとこ連れてってやるからいまからオレの言うこと素直に聞き入れろ」

「アルブレヒトですわ」

「この際なんでもいんだよっ。いいか、いまからオレが嬢ちゃんのこと抱えて移動すっから、嬢ちゃんは一切声出さねーでただ黙ってオレに掴まっとけ。ぜってぇ声張るんじゃぁねーぞ、わーったな」

 言って聞かせる口調は丁寧ではありませんが、粗暴すぎず落ち着いて聞き入れることができるものでした。わたくしもただ彼の言うことに従おうと思えましたわ。

 わたくしに覆いかぶさっていたお身体をサッと起こした彼は、続いて上半身をゆっくりと起こしたわたくしを見事な早業で抱きかかえてくださって。そのときに初めて間近に見えたご尊顔が、もうそれはそれは印象深くわたくしに刺さりましてよ。

 緩いパーマをマットワックスで整えた黒髪。渋さと鋭さを併せ持つ細くて少し垂れ気味のお目元。太くたくましい首筋、筋肉で厚く育った胸板――ああ、まったく知らない御仁なのにどうしてこんなに必死にわたくしをお守りくださるのかしら!

「待ちゃーがれ竜田たつたァ!」

 わたくしがそうしてキュンとしていましたら、クラッシュしてプスプスと音がする黒いワンボックスカーの陰から怒声が上がりました。早朝の静かな空気に似つかわしくないので、周囲のご迷惑にならないかと心配になってしまって……あぁでも、既に事故の大きな衝突音が静寂を壊しておりましたから今更かしら。

「チィ、バレたか」

 独り言のように苦みの文句を洩らされた彼は、怒声の方へ背を向けて、わたくしを抱えたまま走り出しました。驚きのあまり、わたくしったら思わず彼の肩に手をかけてしがみつくようにしてしまいましたの。そのときの彼の匂い、爽やかでとてもいい香りでしたわ……柑橘とハーブの混ざったようないい香り。

「ちょーっとドライブ付き合ってもらうぜ、嬢ちゃん」

 わたくしを軽々と持ち上げ、こんなに軽やかに疾走くださるこのお方。恐らくお名前を竜田さまとおっしゃるご様子。

 無意識に言いなぞってしまったとき、不意に目と目が合いましたの。時間にすると一秒とありませんでしたが、たったそれだけでわたくしの胸中は酷く掻き乱されてしまいましたわ。

 ドキンと心臓が跳ねて、きゅんと肩が縮んで、キューッと体温が上がって。わたくしを見ていただきたいのにしかし見られたくないとも思うような。ああ、こんなふわふわとした気持ちになったのなんて初めてですわ!

 しかも竜田さまったら、なんって整ったお顔なのでしょう! ワイルドでステキ。たとえ穴が空いてもずぅっと見つめていたい――そのようにいつの間にかうっとりしていましたら、竜田さまは前方に向けたままでボソリとなにか仰いましたのよ。

「お、覚えんじゃねーぞ」

「なにをですの?」

「なにをって、そりゃオレの名前をだな」

「なぜですの?」

「なぜですのって……嬢ちゃんなァ」

「素敵な御仁のお名前を知らずして、どうして命拾いしたと揚々とした心地で帰れましょう? それに、一度耳にしてしまった以上、もう忘れられませんわ」

 そのとき。キャンキャンとよく吠える聞き慣れた声が近付いてきまして、それがアルブレヒトだと気が付きましたの。しかし次の瞬間には見覚えのない車の中におりました。それは竜田さまがわたくしを抱えたまま飛び込むようにお乗りになったからだったのですが、そのときのわたくしにはもう何が何やらわからなかったので、なすがままでしたわ。

「出せッ」

「へぇ!」

 短いやりとりで通じる、竜田さまと舎弟さま。正直羨ましいですわ、信頼関係があるからこそできることですもの。

 乗り込んだお車は、キャルキャルキャルと甲高い音を立ててものすごい速さで発進いたしました。その間、当然わたくしはずぅっと竜田さまにしがみついておりました……はあ、いまこうして思い出しただけでもうっとりしてしまうのですから、なんと浪漫的な事象だったのかしら。

 ガァン、ガンガン、カーン、となにかの金属が車体後方にぶつかる音がいくつも鳴りまして、しかしそれはセダンタイプのトランクの扉に当たっているご様子。

「兄貴ぃ、撃ってきてやすぜアイツら!」

「構うこたァねぇ、もうヤツらの射程範囲外になっちまわァ。完全に撒いてから例の場所で乗り換えんぞ。親父から連絡あったか?」

「いえ、まだです」

「わーった。テメー、さっきの事故ンとこでなんもヘマしてねーだろうな?」

「誰に訊いてくれてんですかい、兄貴。あんまナメねーでくださいよ」

「フッ、そりゃ悪かったな」

 ほどなくして金属音も聞こえなくなったので、ようやく普通のドライブになりましたの。はあ、いったいいまのはなんだったのかしら。

「嬢ちゃんよ、もうひっつかなくていいぜ。けどまだ危ねーかもしんねーし、オレの隣に座って大人しくワンコロと伏せてろ」

 軽々と持ち上げられたわたくしは、竜田さまの右隣に座らされました。すると助手席からアルブレヒトがわたくしめがけて飛び込んできまして、ああよかったとようやく心底安心しましたわ。

 アルブレヒトがキャンキャン吠えるので、わたくしは竜田さまのおっしゃったことをやってみたのです。アルブレヒトを抱えて伏せる、というあれですわ。すると竜田さまの膝に頭を乗せるかたちになりましたの。きゃあ! 奇しくも膝枕です、よろしいのかしら!

「じ、嬢ちゃん」

「はい?」

「あの、やっぱり普通に座っててくんねーかな?」

「そ、そうですわねっ、申し訳ございません」

 そそくさと起き上がり、アルブレヒトをぎゅっと抱えます。スンとほわほわの毛を嗅ぐと自宅の匂いがしたので、胸がかすかにざわつきました。

「あのぅ、竜田さま。もしかしてわたくし、自宅には帰していただけないのですか?」

「そうじゃねぇさ、安心しな。ただちょっとワケあって、いまは嬢ちゃんの命がもンのすごぉーく危ねー状況なんでね。誘拐っちゃ誘拐だが、嬢ちゃんを護るための誘拐っつーわけよ。言葉どおり、嬢ちゃんの命を奪うか否かで大変なことになってるもんだからよ」

「あらまぁ、そうでらしたのね」

「そうでらしたのねって、アンタなぁ。生きるか死ぬかの場面だっつってんのに、余裕かましてんのかァ?」

「そうではありませんわ。ただ、いまいち現実味がないと申しますか。なんだか未だに夢心地でして」

 そう。竜田さまにお護りいただけたあの瞬間から、わたくしはずっと夢心地ですの。命云々はよくわかりませんが、わたくしはもう独りではなくて竜田さまとご一緒ですもの。

 瞼を伏せて、アルブレヒトのほわほわした毛並みを撫でて。身体の深い部分まで息を吸い、フーッと静かに吐き出しましたらひとまずの覚悟が整いました。独りではないのなら、なにも恐くはありませんわ。

「難しいことはわかりませんが、竜田さまと舎弟さまがわたくしの命を『生かす側』として動いてくださっていることだけはたしかでしょう?」

 そっと竜田さまと視線を絡ませました。ゆっくりと笑みをつくり、そっと首を傾げます。

「でしたら、わたくしは事が済むまで、ただ大人しく竜田さまに従いますわ」

 竜田さまは細くて垂れ気味の両目をわずかに見開かれまして、ややあってから可笑しそうに大きなお声でお笑いになりましたの。まあ、竜田さまはこんな笑顔なのね、素敵。

「へーえ? 随分肝が据わってんじゃねーか、結構結構!」

「あ、兄貴?」

「いいぜェ、オレも嬢ちゃんのこと気に入った」

「気に入った、ということは――」

 竜田さまもわたくしを好きになってくださったのかしら! きゃあ、信じられませんわ!

「こうなりゃマジに、九澄財閥に潜んでるきたね溝鼠ドフネズミを、このオレさまが一網打尽にしてやらァ。やっぱ手始めに九澄会長と合流だな。依頼主に会わねぇことには始まらねぇ」

「竜田さまはわたくしのお父さまとお母さまをご存知でらっしゃるの?」

「あ? まーなァ。嬢ちゃんのこと護るっつー話も――」

「でしたらお話は済んだも同然ですわね! さっそくご挨拶の席を設けましょう!」

「ご、ご挨拶って……なんの話してやがんだ」

「婚儀のご挨拶に決まっているではありませんか。この九澄百絵、竜田さまに深愛と忠誠を捧――」

「待ーった待て待てッ! どこをどーなったらそんなことンなんだよ?! テメーさまのお命が危ねーっつってんだろーがッ!」

「もう、竜田さまったらこの期に及んで。舎弟さま? お父さまとお母さまの元へお急ぎになって」

「中野、嬢ちゃんの話は聞くなッ。オレの指示だけ聞いてろッ」

「舎弟さまは中野さまとおっしゃいますのね? 覚えましたわ。中野さま、お願いです。竜田さまがわたくしのことを好きとおっしゃったことについて九澄会長に証言くださいませ」

「はあ?! なっ、そ、どこでそんな話にッ!」

「竜田さまはたしかにおっしゃいましたわ、わたくしのことを気に入ったと」

「バッ、そういう意味じゃあねーだろーがっ! だいたい、ヤクザもんと財閥令嬢で恋愛ごっこなんか誰も許しゃしねーぞ」

「ご安心くださいまし。わたくしがいいと言えば家族会議は開かれますわ。そうだ竜田さま。下のお名前はなんとおっしゃいますの? わたくしまだ聞いておりませんわ」

「言わねぇ言わねぇぜってぇ言わねぇ! あーッ、中野テメェ! いまンとこ左に曲がんねーと乗り換え出来ねーじゃねぇか、このタコッ!」

「兄貴たちがうるさくて集中できねーんですよう、もーう!」

 こうして、わたくし九澄財閥の一人娘・九澄百絵の命は、翔紋会しょうもんかいの若頭・竜田一之進いちのしんさまによって救っていただいたのです。

 九澄財閥の先々代当主と翔紋会の初代会長さまは私的にお付き合いをしていた仲だったようで、そのご縁は代替りをしても続いていたとのことです。きっと先々代ひいお祖父さまのお言いつけどおり、毎度アルブレヒトのお散歩のときにお隣の神社へきちんとご挨拶していたから、このように素晴らしいご加護があったと思っておりますの。改めて感謝ですわね。

 竜田さまがわたくしをお護りくださるお話は、実はまだまだございますが、ひとまず今回はここまでで。だって一気にお話してしまうともったいないではございませんか!

 それに、あまりお話してしまうと、竜田さま……いえ、一之進さまがへそを曲げてしまいますので。

 それではまたの機会に。

 今日があなたさまにとって良き一日でありますよう、陰ながらお祈りしておりますわ。






―――――――――

お題……ヤクザ✕お嬢様

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佑佳の短編集 佑佳 @Olicco_DE_oliccO

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