タイピング調子メーター
亀虫
タイピング調子メーター
カタカタカタ……ッタン。
小気味よくパソコンのキーボードを叩く音がする。井上が一人作業している音だ。他に作業をしている社員は少なくともこのフロアにはいない。今は休憩時間中なのだ。それを潰してまで彼はこの時間一人で仕事をしている。確か急ぎの案件があると言っていた。それがまだ終わっていなかったのだろう、休む間を惜しんでパソコンにずっとかじりついている。
その後ろでは同僚の村井と先輩社員の鈴木が隣り合ったデスクで昼食を取りながら談笑していた。村井はサンドウィッチを、鈴木はおにぎりをそれぞれ手に持っており、各々のデスクには紙コップに入った飲みかけのコーヒーが置かれていた。
二人の話は盛り上がっていた。昼食を取っていたと言ったが、そちらはあまり進んでおらず、それぞれの食べている物に少しかじった跡があるだけだ。それよりも、会話のほうがこの時間のメインディッシュのようだ。彼らの話声が大きいせいか、井上のキーボードの音はあまり目立たなかった。
「それでですねー、あのお店のスイーツ、めちゃくちゃ美味しいんですよー」
と、村井。彼女は甘いものに目がなく、いつもそういう話をする。
「ほー、それは知らなかった。俺も行こうかな」
そして話を合わせる鈴木。彼は特別甘党というわけではないが、彼女と話すときはこうして話を合わせることが多い。
「ホントに、おすすめです! コーヒーもおいしいんですよ!」
村井は前のめりになり、黒縁のメガネを光らせる。彼女の話に乗ってあげると、こうやって前のめりになるのが毎度お決まりの仕草だった。
「おお、マジか。今度俺と一緒に行かない?」
にやけ顔で鈴木は言う。
「嫌です」
「あ、そう」
「それでですね、このお店のメニューはほぼ全て食べたことあるんですけど、どのスイーツが一番おいしいかと言うとですねー……」
満面の笑みで話を続ける村井。頭の後ろで結んだ髪がチラチラと揺れる。鈴木はにやけ顔を引きつらせ、話を聞いていた。
しばらくすると話題も尽き、会話は減っていった。間を埋めるかのように、それぞれ中断していた昼食を再開したり、冷めたコーヒーを飲んだりしていた。
二人の会話が止まると、辺りは急に静かになった。大声で会話していたのはこの二人くらいで、他の社員は一人で昼食を取っていたり、新聞を読んでいたり、デスクに突っ伏して寝ていたりしていた。この静かなオフィスでは、井上のタイピング音だけが妙に目立って聞こえた。
「井上、休憩もせずに頑張ってんな」
おにぎりを頬張りながら鈴木はつぶやいた。これで手元のおにぎりは全て消費したのか、おしぼりを取り出そうとコンビニの袋に手を突っ込んでいた。
「えっ、どうして井上さんの話に?」
口の中のサンドウィッチを飲み込んでから村井は聞いた。彼女の手には小さくなったサンドウィッチがまだ握られていた。
「ほら、今も作業しているだろ? 昼休みだというのに」
手を拭きながら、やや小声で鈴木は答えた。
「あ、確かにですねー……気付きませんでした。どうして休憩中に仕事してるんでしょう?」
村井の声の大きさはいつもどおりだ。
「そりゃ急ぎの仕事があるからじゃないか? あいつ、出来る奴だしそのぶん仕事多く抱えてるらしいぜ。ちょっとコミュニケーションは苦手そうだけどな」
ここだけの話、とでも言うように口に片手を添えて鈴木は話した。
「なるほど……」
村井は振り向いて井上を見た。彼は背筋をピンとして、パソコンの画面を注視しながらひたすら作業を続けていた。
「あれは結構疲れてるな」
鈴木も井上を見て、顎に指を当てていた。井上は忙しそうに手だけを動かして、キーボードをカタカタさせていた。
「えっ、鈴木さん、井上さんのことがわかるんですか!?」
村井は驚いた様子で鈴木を見た。彼女は驚きのあまり、持っていたサンドウィッチをポロリと落としてしまった。
「驚き過ぎ! でもまあ、そうだな。たしかに俺は井上の調子がわかるぜ。タイピングの音でな」
鈴木は胸に拳を当てて得意げに言った。
「ほ、ホントですか! どうしてわかるんですか?」
村井は前のめりの姿勢になった。今の話に興味を示したらしい。
「そりゃあ、感覚だよ。たとえば、今のあいつはタイピング速度が落ちてるだろ。疲れてる証拠だ。すぐにわかる」
当たり前のことをさも名推理のように鈴木は述べる。だが、その発言を村井は目を輝かせて聞いていた。
「すごい、さすが鈴木さん! 早速当たってるかどうか井上さんに聞いてきますね!」
「え、聞くの」
「はい、答えが気になりますから!」
そう言うと、村井は席を立って後ろの井上の席へ向かった。
「あっ、ちょっと村井?」
彼女に鈴木の言葉は届いていなかった。
「井上さーん。今疲れてます?」
村井は明るく聞いた。
「え? あ、はい。ちょっと疲れました」
井上は突然話しかけられたようで驚いたのか、ハッとして作業を中断し、彼女を見て答えた。
「あ、やっぱりー。疲れてるんですね。ありがとうございます!」
そのまま村井は話を終わらせてニコニコした顔で戻ってきた。
「井上さん、疲れてるみたいです!」
「うん、聞こえてた……っていうか井上の奴キョトンとしてるぞ!」
鈴木は井上を一瞥して言った。井上は鈴木の言う通り、何か目の前で信じられないことが起こったような顔をしていた。
「えっ、鈴木さんそんなことまでわかるんですか!」
「見りゃわかるでしょ!」
はあと鈴木はため息をついた。そしてもう一度井上を見る。既に作業に戻っていた。切り替えの早い奴だ、と鈴木は思った。
「ああ、そうだ。村井、井上は今コーヒーを欲しがっている。淹れてきてやれ」
村井をそそのかして作業中を中断させてしまったのは俺だ。少し申し訳なく思ったので、詫びのつもりで彼女に差し入れさせようとして鈴木は言った。
「鈴木さん、体調だけでなく井上さんの考えてることまで……!」
「いいから行きなさい」
村井は嬉しそうに鼻歌なんか歌いながら、コーヒーを淹れに行った。鈴木はやれやれ、と目頭を押さえて下を向いた。
彼女はお盆に紙コップを二つ乗せて戻ってきた。そのまま井上の席に直行し、そっとコーヒーを置いた。
「はい、お疲れのようですので、淹れてきましたよ!」
井上はまた手を止めて村井を見た。
「あ……ありがとう、ございます……。でも僕、コーヒー飲めないんですよ」
「えっ、そうなんですか……ごめんなさい」
「いえ、お気持ちだけありがたく頂戴します」
井上は小さく手を上げて微笑を浮かべた。そしてすぐにモニターに視線を戻し、作業を再開しようとした。
「井上さん、ちょっとは休んだほうがいいですよ。倒れちゃいますよ」
村井は心配そうに彼を見た。
「大丈夫です。もうすぐ終わりますし」
画面を凝視しながら井上は答えた。
「そうですか……無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
井上がそう言うと、再びタイピングの音が鳴り始めた。
村井はコーヒーをお盆に戻し、自分の席に戻っていった。
「違うじゃないですか鈴木さん」
紙コップに口を付けながら彼女は言った。
「俺に言うな」
タイピングで調子がわかるとは言ったが、考えていることがわかるとは言っていない。これは村井の勝手な解釈だ。
鈴木はお盆に置かれたコーヒーを眺める。
「あ、コーヒーどうぞ」
「井上が受け取っていたら俺のぶんはなかったんだな……」
小さく呟きながら、鈴木は一つだけ置かれているコーヒーに手を伸ばした。
「そうだ、私が井上さんの気持ちを当ててみてもいいですか?」
村井は唐突に言った。
鈴木はええっ、と呆れた顔で彼女を見た。
「もう作業の邪魔してやるなよ」
「もうすぐ終わるみたいですよ」
「まだ終わってないでしょ」
「じゃ、終わったら!」
彼女は前傾姿勢だった。鈴木は今の彼女の考えていることがわからない。わからないが、びっくりするようなことを聞く気だな、ということはわかる。この状態の彼女を止めることができる人はおそらく誰もいない。
「まあ、そのときは……ご自由にどうぞ」
仕方なく、鈴木は言った。
「やった。鈴木さんが外したので、私にもできるんじゃないかと思ったんです!」
「なんでそうなる……」
鈴木はコーヒーを一気に飲み干した。そして前に飲んでいた紙コップと重ねて置いた。ここで再び会話は途切れた。
やがてタイピングの音は止んだ。オフィスは完全に静かになった……と思いきや、外食や散歩に出かけていた他の社員が戻ってきて、少し賑やかになっていた。
タイミングを見計らって、村井はすっくと立ちあがる。
「それじゃ、行ってきます!」
彼女は何故か鈴木に敬礼した。
「あ、いってらっしゃい」
鈴木は彼女を見ず、午後の仕事の準備にとりかかりながら答えた。あまり興味を持つと村井が止まらなくなるので、できるだけ関わらないように無理矢理注意を背けていた。
村井はうきうきした様子で、座ったまま伸びをしている井上の元へ行く。
「お疲れさまですー」
「あ、お疲れ様です」
二人の会話が始まった。鈴木は準備をしながらも、やはり内容が気になってしまい、結局意識を半分そっちへ向けていた。
「お仕事終わったんですね」
「ええ、なかなか大変でしたが、なんとか間に合ってよかったです」
井上は疲れた笑顔で首だけ村井に向けていた。
当たり障りのない会話から始まったと思った。ここまではそうだった。
「ところで井上さん、私のこと好きですよね?」
突然の彼女のパンチある言葉に鈴木は後ろで吹き出した。コーヒーを先に飲み干していてよかった。危うく目の前の資料が茶色く染まるところだった……。
何故このタイミングでそんな逆告白めいたことを言ったのか、鈴木には理解不能だった。いや、理解不能なのは今に始まったことではない。おそらく彼女は、さっきの井上とのやり取りの中で俺には感じ取れなかった何か恋の予感的なものを察知したに違いない。だから俺から見たら突拍子もないタイミングでこんなことが言えるんだ。村井はそんな少し感覚のずれた子だということはわかりきっている。そうだ、そうに違いない。と鈴木は頭を回転させ無理矢理思考を追いつかせた。
「えっ、あっ、その……」
井上は顔を赤くしてたじろいだ。視線をあちこちに向けて、助けを求めるかのようにあたふたしていた。
鈴木は心の中で突っ込みを入れる。タイピングだけでそんなことわかるか! 関係ないだろ! どうしてそうなった! 結局準備が手につかず、いつのまにか全集中力を傾け後ろを振り向いていた。
「あっ、そうだ。そういえば、おすすめのスイーツがあるカフェがあるんです。コーヒー以外にもいろいろおいしいドリンクがあるんですよ。お疲れのようですし、今日一緒に行きませんか? おごりますよ」
村井は前かがみになりニコニコした表情で井上の顔を覗き込んでいた。
鈴木は苦笑する。俺と行くのは嫌なのに、井上と行くのはいいのか! くそっ! 鈴木は歯を食いしばり、拳を固めた。心の中で。
「あ、あの……はい……もし時間があれば……」
井上は恥ずかしそうに俯きながらそう答えた。時間があれば、なんて言っているが満更でもなさそうな顔だ。
くそっ、なんで俺ではなくて井上なんだ……。ほとんど話したことないくせに……。鈴木は楽しそうに話す二人の様子に耐えられず、視線をそらした。それでも気持ちは落ち着かない。高速で働く頭脳。俺がダメで、井上が良い理由は何か。一瞬のうちにあれこれ考えた。そして頭脳はこう悟った。これは脈の有無の差だ、と。あまりにも絶対的で残酷な結論を前に、鈴木はそこで考えるのをやめた。
「ありがとう! あっ、もうお昼休み終わっちゃいますね。じゃ、また後で聞きます!」
そう言うと村井は小走りで戻ってくる。井上はまだ下を向いたままだった。
「鈴木さん! 当たってるかどうか、結果発表は明日しますね!」
彼女はそうやって特有の邪気のない笑みで話しかけてくる。
「あ、うん……楽しみにしてるよ……」
うつろな目で答える鈴木。
「あれ、鈴木さん、もしかして疲れてます?」
「いいや……外れだよ」
足元には食べかけのサンドウィッチが転がっていた。村井がそれを踏んだ。包みのグシャっという音が鳴ったが、鈴木はその音を全く気にしなかった。
休憩時間が終わり、皆一斉に仕事に戻っていった。村井ももちろん、元の席で真面目に取り組んでいた。心なしか、いつもよりも気合が入った様子だった。
翌日、村井から結果を伝えられた。そこには真顔で乾いた拍手をする鈴木の姿があった。
タイピング調子メーター 亀虫 @kame_mushi
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