夏思いが咲く

南雲 皋

私の魔法使い

「いってらっしゃい、パパ!」

 

 そういって玄関へ駆けていく娘の揺れるポニーテールを見ながら私は、彼に恋をしたあの頃を思い出していた。

 

 あれから、もう三十年は経っただろうか。

 あの夏の日、私は初めて恋をしたのだった。

 


 ---*

 


 花火大会の噎せ返るような人混みに飲み込まれ、ようやく物心ついた歳の私は両親とはぐれてしまった。

 大人たちの波に流されて人気のない路地まで来てしまった私は、不安と心細さで大粒の涙を瞳に湛えていた。

 もう、お父さんにもお母さんにも会えないのではないか。そんな恐怖が身体中を埋め尽くし、ぼとぼとと地面に涙が落ちる。

 私の泣き声は、花火の打ち上がる音で掻き消されてしまった。

 身体がびりびりと震える程の大きな音に驚いて立ち竦む私の前に、一人の男性が立っていたのだった。

 その人はふわふわとした茶色の癖っ毛を揺らしながら、私ににこりと微笑んだ。

 

「なんのお花が好き?」

 

 私は、ひまわりと答えた。すると次の瞬間、何も持っていなかった筈のその人の手にはポンとひまわりが握られていたのだった。

 

「お、おにいさんまほうつかい……!」

「うん、内緒だよ」

 

 その人はシーっと人差し指を口元で立てた後、私のポニーテールにひまわりを挿して髪飾りのようにしてくれた。

 そして私の手を引いて、迷子の放送を流している場所まで連れて行ってくれたのだった。

 テントには両親がいて、私がその人のことを魔法使いなんだよと両親に教えてあげる前に、その人はもういなくなっていた。花火大会の運営のおじさんがその人の事を知っていたようで、新井さん、という苗字だけは知ることが出来た。

 


 ---*


 

 私はそれから毎年その花火大会で新井さんを探した。

 結局あの日から一度も会う事はなく、私は高校二年生になっていた。

 

 梅雨に入り雨の日が増えてきた頃、私のクラスに転校生がやってきたのだった。

 

 担任に続いて教室に入ってきた彼の姿を見て、私は叫び声をあげそうになった。彼が、私の記憶の中の新井さんに瓜二つだったからだ。

 しかも、担任が黒板に書いた彼の名前は『新井 総司』で。

 私はその日の間中ずっと彼の顔を見ていたように思う。

 新井さんと同じ茶色のふわふわとした癖っ毛が、私の初恋の記憶を鮮やかに甦らせたのだった。

 


 ---*



「里谷さんってさ、俺のこと見すぎじゃない?」

 

 彼が転校してきて半月ぐらいが過ぎた頃、日直になった私がホームルームの後に日誌を書いている最中、教室に入ってきた新井くんがそう言った。

 思わず力が入ったシャープペンシルの芯がポキリと折れる。

 

 私は、顔に血が巡っていくのを感じ、煩い心臓を落ち着ける為に大きく息を吐いた。

 新井くんが私の前の席に座り、小さく切り抜かれた新聞記事を差し出してくる。その新聞記事に書かれた文字を見た瞬間、私の心臓が逆回転を始めたかのように血の気が引いていった。

 

『マジシャンである新井総一(21)が公演中の事故により死亡』

 

 新聞記事にはそう書かれていた。

 マジシャン。

 魔法使いのお兄さん。

 新井さん。

 新井総一、その名前は、総司くんの。

 

「俺の兄さん」

 

 あの時の、私の初恋の人は、新井くんのお兄さんだったんだ。

 私は何度も何度も新聞記事を読んだ。

 何度読んでも内容が変わる筈はなくて、新井さんは死んでしまっていて。

 私の初恋の人はもう、この世には、いないって。

 それだけが書かれていて、私はまた迷子になったみたいにぼとぼとと涙を零した。


「…………里谷さん、ひまわり好きだろ」

「え?」


 私の前で一度、何も持っていない手を見せてから、新井くんはひまわりを私の眼前へと差し出した。

 それはあの時の、魔法使いのお兄さんそのもので、新井くんは新井さんではないのに、私の前にあの日の光景が広がっているようで、私は新井くんの背後に打ち上げ花火の幻を見た。


「なんで……」

「魔法使いの弟は、そりゃ魔法使いだろ」

「だって、だってひまわりが好きだなんて一言も」

「俺はな、あんたに逢いに来たんだ。兄さんを魔法使いにしたあんたに」

「魔法使いに……した?」


 それから新井くんが話してくれたのは、私の知らない新井さんの姿だった。


 新井さんは私に会った時、高名なマジシャンの弟子になったものの思うように技術を身に付ける事が出来ずに下宿を飛び出して来たところだったのだそうだ。

 そこで私に魔法使いだと言われ、また修行に戻ったのだと。

 兄弟子たちに戻ってきた理由を尋ねられた新井さんは、魔法使いにならなきゃいけないからねと笑っていたらしい。


「で、でも、それならお兄さんが死んだのは私のせいなんじゃ」

「里谷さん被害妄想激しいね」

「へぁ?」

「兄さんの死とあんたの発言は無関係だろ。あれは運が悪かっただけだよ。兄さんだって今頃上で悔しがってる筈だ」


 そう言って新井くんは天井を指さす。今はもう涙も引っ込んで、私は新井くんから受け取ったひまわりを手で弄んでいた。


「……なんで私に逢いに来たの」

「あんま深い意味はない。ちょっと話してみたかっただけ。あと、兄さんの墓参り、行きたいかなって思って」

「い、行きたい!」

「ちょっと遠いから夏休みね」



 ---*



 お盆になり、私は新井くんと一緒にお墓に来ていた。

 電車を三時間程乗り継いで辿り着いた新井さんのお墓はとても綺麗だった。

 新井くんとご両親が、数日前にも来たのだと言った。

 私は新井さんのお墓に、菊の花束を供えた。


「なんでひまわりじゃねーんだよ」

「だ、だって非常識かなって」

「そこはひまわりだろ!」


 盛大に溜息を吐いた新井くんが、また何も持っていない手からひまわりを出し、私に差し出してくる。


 もう、あの日の光景は甦らない。


 新井さんは、呆れるだろうか。

 長い長い初恋を、忘れた訳ではないけれど。


 私にひまわりを差し出す、目の前の魔法使いが、今、私の心に恋心を芽吹かせたことを。




 ---*



「今日のショーもがんばってね!」

「うん、がんばるね」


 私に似た黒髪、彼に似た癖っ毛のポニーテールが揺れる。

 彼は今や娘の魔法使いだし、そして世界中のファンの魔法使いだ。


 けれどその魔法使いを魔法使いにするのは、私の役目なのだ。


 彼の、総司の頬に口付けをし、彼を魔法使いにするのは。

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