第九章

 藤吉郎は館に帰るなり、下男を介して直衛に神社の境内へと呼び出された。

 由良の館ではできぬ話なのかと神社の階段をのぼったが、のぼりきって直衛の姿を認めるなり、これはいつもと様子が違うということを察した。

「直衛どの。」

と藤吉郎は声をかけたが、直衛は仁王立ちで藤吉郎のことを見ている。

 直衛は姿勢を少し崩し、辺りに視線を配すと、近づいた藤吉郎の腕をひき、耳に口をよせ、声をひそめて、

「何があったのだ。」

と尋ねた。

「何とは?」

人にきかれてはまずい話でもあったかと藤吉郎は考えながら、直衛に普通の声で答えた。

「今日信乃どのが修練場へ来た。」

「はあ、信乃どのが、何しに。」

「剣を習いたいと。」

「は?」

「私に剣を習いたいというのだ。えらく真剣な顔で。」

「剣とは、長剣のことで?」

「他に何がある。」

いうと、藤吉郎はしばらく考える様子を見せた。

 すると直衛が、

「何があった。」

と聞きなおした。

「何といわれても。」

「前に稽古をつけたのはいつだ。」

「一昨日です。」

「そのときは何をした。」

「何と言っても、心構え、剣の持ち方、基本的な構え方程度で、打ち合うまではいかず、あとは体の鍛錬を怠らぬようにと…。」

「そのときは普通か。」

「ええ、そういえば――いつもより元気がなかったかと…。しかしたきどのが帰られた後なので特に気にもとめず…。」

「ではその前だ。」

「その前?」

藤吉郎の問い返しに、直衛は少し言葉を言いよどんだ。

 直衛の頭に、あの夜見上げた、月がはっきりとは姿を見せず、厚い雲に覆われた夜空が浮かぶ。

 藤吉郎は重ねて、

「その前とは、いつです?」

と尋ねた。

「たきどのが来られた日の、宴の晩だ。」

「あの日は、信乃どのは気分が悪いと自室に帰られたのでは――そんなやりとりは特に…」

そう言って、藤吉郎はもう一度一昨日の剣の練習のことを思い出した。

 何か不手際があっただろうか?

 あの時の信乃といえば――そう、目が――視線が、やたらと顔を探るようにみていたような気がする。うぬぼれかと思って思い直し、気のせいかと思って目を向けると、――見ていない。

 そんなことの繰り返しだった。

「あの夜、信乃どのは、履物をはかず足袋のまま、神社からの道を帰ってきたのだ。」

直衛の言葉に、藤吉郎は我に返って自分の考えを止めた。

 ゆっくりと直衛の顔を見上げると、直衛は眉根を寄せて困ったような顔をしている。

「え?」

「あの夜、信乃どのは、神社からの道を、一人で帰ってきた。足元を見ると履物もはかず、涙声で、涙もとまらぬので、そのまま自室に帰したのだ。」

「直衛どの。」

「姉君と別れを告げた夜のことを思い出し里心が出ただけとは言うておったが、どうもそんなふうではなかった。それでは、履物を履かずに外に出た理由にはならない。何があった。」

「直衛どの、でも、だから、その理由が、なぜ私なのです。」

「信乃どのは、たきどのを探して出て行って、その途中で何かあって表ではない場所から外へと飛び出した、そうとしか思えぬ。お前とたきどのは、どこで何を話していたのだ。」

直衛が言った途端に、藤吉郎があっと口をあけた。

 その口を右手で覆う。

 みるみるうちに耳までうす赤くなり、藤吉郎はうつむいた。

「表で話していたのだな。話していた内容は」

「でもそんな」

うす赤くなった顔がみるみるうちに青ざめていく。

 藤吉郎は顔をあげた。

「だからといって、それで避けられるなどと。」

「何を言ったのだ。」

「ですから、たきどのに――その部分をきかれたのだろうか。」

「なんと」

問われてしばし藤吉郎は言いためらったが、

「信乃どのを、一人の女人としてお慕いしておりますと。」

「それを、きかれたと?」

「でなければ――どの部分をきいていたのだ。」

藤吉郎は頭の中を探り、あの夜のたきとの会話を思い出そうとする。

 しかし、それらしい話を何かしただろうか。

 つれて帰るのかということを尋ね、そのつもりはないと答えられた。大木村の道行きに同行したこと、そのときの信乃の様子を話し、その後に、例の――

 でもその長い会話の中で、本当にその部分をきかれたのだろうか。

「それで、ともに居づらいから避けるのか?」

直衛が問うた。

「しかし、一昨日の稽古では、そんな様子もなかったのに」

 そういえば、なんだろう、一昨日の稽古のときの、のぞきみるような視線――やはり、あれは気のせいではなかったのだろうか。こちらの気持ちを探られていて――?

「直衛どの。」

藤吉郎は顔をあげ、直衛の衣服――胸元あたりを両手でひしとつかんだ。

「どうしよう、顔をあわせられない。」

「まだそれが原因と決まったわけでもあるまい。」

「しかし…!」

「他に理由がないとも言えぬ。第一、たとえそれが理由だとて、あの行動は尋常ではない。」

「だから、許婚のいる女を懸想するような男は許せぬと怒りのあまり」

「藤吉郎。」

「たきどのと隠れて自分の話をするような卑怯なまねは許せぬとか」

「藤吉郎、早合点するのはよせ。」

「しかし…」

「とにかく、練習は私がつけよう。信乃どのが言うように、お前自身戦に向けて鍛錬を積まねばならぬとき。」

「しかしこのままでは」

直衛は、藤吉郎に衣服をつかまれた、その手を見ながら、ため息をついた。

「そうだな、なるべく早いうちに、信乃どのに探りを入れておこう。このまま戦にいくのでは、心も残ろう。」

直衛がいうと、藤吉郎はゆるりとその衣服から手を離した。

 そしてしばらく、直衛は藤吉郎の姿を見ていたが、肩をガクリと落としたまま、動く気配がない。

 そのあちらを向いた藤吉郎に、直衛は話しかけた。

「本当に、何も知らないのか?」

 直衛の言葉に、藤吉郎はゆっくりとこちらへ顔を向け、えっというような表情を浮かべた。

 直衛を見上げる。

「お前、本当に、何も知らないのか? 橘の君に同行して、大木村へ行き、なぜ、大木村の巫女――信乃どのの姉君が、小坂の標的にされたのか――お前、本当に、知らないのか?」

 直衛の言葉に、藤吉郎は目をみはり、軽いめまいを覚えた。

 そして途端に、信乃も恋も吹き飛んで、目の前にいる男が「来栖直衛」だということを思い出した。

 この男は、こんなところにいていい男ではない――そのはずの男が、普通の顔をして、ここにいるだけなのだ。

 お館で、出世を競っていたはずの男が、ここに――。


 

 早乙女館でお針の稽古に出ていた信乃に、入口あたりから呼ぶものがあった。

 その入口あたりにいた幼い女の子が、「来栖直衛さまです。」と言ったとたんに、入口に直衛の姿が見えた。早乙女館の中の娘たちに「きゃあー」と声があがって、その瞬間に直衛の姿は影に隠れてしまった。

 直衛のことで何かと騒ぐ娘たちを後にして、信乃は立ち上がり、入口へと足を向けた。

「直衛さま。」

入口を土間におり、外に向かってそう声をかけると、壁際に隠れながら、直衛の姿が見えた。

「お稽古の終わる時間だと思って来たのですが。」

「ええ、もう終わりです。今片付けているところです。何か。」

「ええ、少しお話したいことが――昨日の件なのですが。」

そう言われて、剣の稽古の話なのだと気が付いた。

「わかりました。少しお待ちください。」

そういって信乃は取り急ぎ中に戻ると、途中までしたお針の道具の片づけの、その続きに入った。横からきよらが、「直衛どのは何と?」と問うので、

「お話があるそうです。」

と信乃が答えた。横から妙が

「昨日のことでですか?」

と問うので、

「ええ。」とだけ答え、信乃はお針の道具の包みを持って立ちあがり、「ではお先に失礼いたします。」と頭を下げて、早々に娘たちから離れた。

 後ろできよらが妙に、「昨日のこととは?」と尋ねているのが聞こえる。その声を残して、信乃は早乙女館を出た。

 早乙女館を出ると、直衛は左手で歩くことを促し、二人は歩き始めた。

 早乙女館は村の集落の東はずれにあり目の前に田畑がひろがっている。ここから集落を通って西に歩くと、由良の館や来栖たち家臣の家があった。

 道はゆるりとしたのぼりだ。

「どちらまで参りますの?」

「さて、人に見られても構わないところまで参りましょうか。そうですな、神社から由良の館へ抜けるあの道がよい。」

「はい。」

「先日、たきどのが来られた日、信乃どのが現れたあたりでは、どうです?」

そういわれて、信乃はどきりとした。そして長身の直衛の顔をみて、その心の中を探ろうとしたが、見えない。

 信乃は答えず別の言葉を探した。

「剣のお稽古は、どうなったのでございましょう。」

そう問うと、直衛は信乃に一瞥くれ、

「私がつけさせていただくことになりました。きよら様と同時で、構わないでしょう。」

「直衛さまがそれでよろしいのなら、私にも依存ございません。」

「ふむ。」

それで、直衛は言葉を続ける様子もなく歩きつづけた。

 この道は脇を家が囲んでいる。抜けると、由良の館の正面に出た。要塞のような囲いの中にある板の戸口の前に立つと、脇にある小窓に向かって直衛が戸を叩いた。

 すぐに小窓があいて、中の兵は何も言わず小窓を閉め、直衛のために扉を開いた。

 二人は扉を通り、板塀に囲まれたゆるりとした上り道を登ると、由良の館とは反対の、神社へ続く小道へと道をとった。

「直衛さま。」

信乃が声をかけた。

 かまわず直衛が歩くので、もう一度

「直衛さま。」

そう声をかける。

「他にもお話がございますのでしょうか。剣のお稽古をつけていただく以外に。」

「信乃どの。」

「はい。」

「なぜそれほどに長剣にこだわられる。」

信乃はふいをうたれ、そこに立ち止まると、直衛もちょうど由良の館と神社の前あたりで立ち止まり、信乃へと振り返った。

 信乃は思わず直衛の顔を目で探った。

 しかし直衛は、いつもの涼しい顔をしているだけで、これといった変化は見受けられない。

「それは、橘の君がお話されたとおり、私の力を安定させるためと。」

「懐剣ではなりませぬか。」

 信乃は直衛の顔をまたじっとみつめた。それからふと気づいて、

「私にお稽古をつけていただくのは、なりませぬか。」

そういうと、直衛はふふと笑って、

「何、きよら様とともに学ばれるのであれば、一人つけるも、二人つけるも同じこと――そういうわけではありませぬ。」

「では」

そういうと、直衛はこちらに手を向けてその言葉を制した。

「稽古をつけるのは、私には問題ではないのです。ただ、橘の君は、『力がある』、それの安定の材として、稽古をつけたいと。確かに滝に打たれたり山をかけたりの修行を積むことはきいたりしたことはあるが、しかし私の知る限りでは、ただ霊感のあるものが長剣の稽古まで必要などとはきいたことがない。藤吉郎にもその点を問うたが」

藤吉郎の名をきいて信乃ははっとした。

 はっとした信乃の様子を見るように、直衛は言葉を継がない。言葉を継がない直衛を見上げ、

「藤吉郎さまはなんと?」

「本人がやりたいというから手伝うと答えたのみ」

内心信乃は安堵した。

 しかし藤吉郎に何を問おうと、藤吉郎が知るはずもない――信乃はそう思った。考える間もなく直衛が、

「つい先日のことです。由良の館の前で藤吉郎と話していたら、神社から信乃どのが歩いてくる姿がみえました。そう、神社の境内で信乃どのが一人稽古を始めて間もないころです。」

 突然話が変わって、信乃は思わず直衛を見た。すると直衛は、村の方を向いてその中空に指差した。

「信乃どのは、あのあたりをずっと目で追っておられた。すると、それを見ていた藤吉郎が、何もない中空をみつめながら、『あのイヌワシは何であんなところを回っているのだろう』と私に問うてきた。残念ながら、私にはその、二人が見えたはずのイヌワシの姿は見えない。」

「直衛さま。」

「力があるという信乃どのに、この世ならぬものが見えるならわかる」

「直衛さま、何がおっしゃりたいのです。」

「しかし、なぜ藤吉郎にはそれが見えるのか。また、その正体は一体何であったのか。信乃どの」

 直衛は信乃の方に視線を向けた。

「あなたの姉君にあたられる巫女殿が、どのようなお方だったのかは、私は存じませぬ。しかし、あの高階が、ただの挑発のみであの小坂を使い、敵の領地に侵入し、峠を越えてまでやってきたとは思えませぬ。おそらく、それをするにたる何かが、姉君か村にはあったのだろうと、そう推測するしかない。そして」

直衛はそこで一つ言葉をおいた。

「それが信乃どのを、ひどく惑わせているのだろうと、それも察しがつきます。おそらく、姉君のことで生じた、心の傷も癒えてはおりますまい。ただ」

 直衛はそこで言いよどんだ。信乃をみるでもなくみつめ、なぜか悲しそうな色を目に浮かべた。

「それで藤吉郎が拒絶されるのであれば、それはあまりにもあの男が不憫ではありませぬか。」

 そこで信乃が息を飲んだ。

 言い返そうとして、言葉を探す。

「直衛さま。」

うまく言葉が出てこない。

「私は、藤吉郎さまを、拒絶するとか、そういうことではなく、ただ」

「ただ、なんです。」

「藤吉郎さまは、戦に出られる身で」

「ええ、――つまりは、帰らぬかも知れぬ身なのです。」

直衛のその言葉に、信乃は強く打たれた。声を荒げそうになるのを何とかこらえ、

「そのような!」

「あれも次の戦に出る身なれば」

「そのような――藤吉郎さまに限って、そのような!」

「ひとたび戦に出れば、どの兵もその命を失うかもしれぬのは同じこと――ですから、信乃どの。」

「戦に出るから、し、死ぬかもしれぬ――死ぬかもしれぬ、から、だから、だからどうしろと? だから」

「だからというわけではないのです、信乃どの」

 口を開けたままの信乃の目から涙がこぼれた。直衛は信乃のその姿をみつめ、

「信乃どの、このままでは、剣の道に入ったとて乱れます。乱れたままでは、成りませぬ。だからその、一人で抱え込んだ荷を、降ろしておしまいなさい、というのです。おろして、それからせめて、藤吉郎を、わけもわからず遠ざけるのは」

信乃は直衛の言葉に、両の手で顔をぬぐい、

「一人で抱え込んだ荷など、ありませぬ!」

「信乃どの」

「それは、それは、直衛さまの考えすぎです! 私は」

信乃は涙をぬぐった手を下ろし、そのまま降ろした両の手で衣服を握り締めた。

「私は、直衛さまが嫌いです! 涼しい顔をして、なんでもないように、なんでもできて、なんでもわかったような顔をして」

直衛は思わず、ふっと笑った。

「信乃どのは、橘の君のようなことをおっしゃる。」

「私には、何もありませぬ! 藤吉郎さまのこととて、遠ざけるというわけでは」

 話せというのか。

 どこを話せというのだ。

 小坂がなぜ大木村を攻めたかということか。

 姉の力が、どれほど強大であったかということか。

 二人の仲が、どうであったかということか。

 ああ、この男、目の前で涼しい顔をして、何でもないように話すこの男――こんな男に、私は今まで会うたことがない。

 村を出るまで、知らないことだらけだった。

 姉の力が外には漏らせぬほど本当に強大だったこと、世間は広いのだということ、あの、小坂が――義見朔次郎が、天下に名を馳せる武将になっていること――

 私は、あの村にいた、あの何も知らない信乃でよかったのだ。

 何も知らない信乃でよかった。

 思えばあの日、獣にやられて迷いこんだ一人の男が、何もかもを壊してしまったのだ。

 あの、一族の血が常軌を逸しているとはいえ、平穏だった日々に、迷いこんだあの男が、すべてを壊してしまった。

 そしてまた、その血族たちが、私を、誘いこもうとする。

 もうやめろ

 あの、間違いだらけの道に、私を誘いこむのはよせ!


 

 自らの手で斬ったはずなのに、本当にあの女は死んだのだろうかと思われてならないときがある。

 この領国に逃げ込んで間もないころは、よく小夜がハヤテに乗ってやってくるのではないかと期待しながら、西の空を見上げたものだった。

 なせぬはずがなかった。

 なせぬはずがないのに、自分を求めて探しにくる、小夜の姿があってもいいはずなのに、それはなく、いつの間にか待つ気持ちは、日増しに強くなる空腹を埋める手立てを探すことで忙殺されていった。

 それが、あのハヤテが、見えなくなっていたことに気がついたのは、あの神社で小夜を斬ったあの時だった。

 しかし果たして、ああも見事に人の傷を癒せる女が、自分の傷を癒せないなどということがあるのだろうか。

 あの時本当に絶命してしまったのだろうか。

 私はお前に斬られたかったのだと

「何を考えておいでか。」

 凛とした女の声で我に返った。

 靭実は茶室にいて、前には劫姫と、そばに侍女がひかえていた。目の前には点てられた茶がおかれていて、靭実はそれに一向に手をつけていない。

 劫は怒るでもなく、ただじっと靭実をみつめている。我にかえった靭実は、その目の前におかれた茶器を眺めながら、

「あ、も、申し訳――ございませぬ。少し考えごとを…」

そういうと、劫はふふふと笑い、

「一寸の隙もないようなそなたのような男でも、油断することはあるのだな。」

「は、いえ、そう――そういうわけでは。」

「何、夫となる身のお方が、妻の前でいつも気を張り詰めていては、夫婦となっても甲斐あるまいて。少しは油断しておるほうがよいわ。」

そう言われ、靭実はそれには答えず、頭を下げて目の前の茶器に手を伸ばした。

「そなた、茶などの作法は誰に習うた。」

茶器に口をつける靭実に、劫が問う。

 靭実はその茶器を床におくと、

「主なことは、子供のころ、母に。」

「ほう、そなたの母御はそうしたことに通じた方であったか。一度お会いしたかったものだ。」

「十の頃に、なくなりましてございます。」

「知っておる。それは、育ての親であったの。」

「はい。実の親はまだ赤子の頃に亡くなったそうで、どのような方かは存じませぬ。」

「高野、と、きいた。」

そういわれて、靭実は顔をあげた。劫は続ける。

「稲賀領の、高野であったと。元は稲賀の領地ではなかったが、五、六年前の戦で攻め滅ぼされたという――そなたは、その高野の遺児で」

「姫様」

靭実は劫に呼びかけ、その言葉をきった。すると、劫は言葉を継がず靭実の顔に視線をあわせる。

「過ぎたることでございます。それに、誰がきいておるやもしれませぬ。今このときゆえ、このようなお話はお控えになったほうがよいかと。」

靭実の言葉にしばらく、黙って靭実をみつめるだけの劫だったが、ふと、

「そなたの過去も知っておかねば。我は妻となる身。」

そう言った。それに靭実が「はっ」とかしこまると、「それとも」と劫は言葉をつぎ、

「知られてはならぬことでも、あるのか。その、昔のことに。」

そう問う、劫の眼差しは、穏やかな中にも鋭いところがある。

 靭実がその眼差しをみつめ返すと、劫が、

「さきほどは、誰のことを思うておいでだった。」

と、どこか鋭さを含んだ目のまま、問い返した。

 靭実はその鋭さに内心たじろぎながらも、言葉を探した。

「少年の頃、その高野で、私にはどうしても勝てぬ剣の相手がございまして」

「女か」

「いえ、同じ年の、少年でございました。いえ、その者、高野にいたわけではなく」

「そなたが勝てぬ相手とな」

「はい。」

「そんな者がおるのか。」

「はい、高野の者ではございませぬが、よく高野に主人の共でやってきては、我らに剣の相手を申し込まれたものでございます。その者、高野に通ううちに高野の姫とは知らずに恋に落ちたのですが」

「知らずに恋に落ちたと」

「身分違いでございましたので、お互いそれまでそれと知って会うたこともなく、偶然に領地のはずれで出会った二人でございました。今思えば、同じような臣下の身でありながら、彼はならず、私がこうして姫様と夫婦になろうとは、奇妙な縁だと。」

「で、その姫はどうなられた。」

「高野の戦で、ご一族ともどもご自害なされたはず。」

「相手の男は」

靭実は少し言いためらってから、

「生きておりましょう。男もまた、高野を攻める稲賀の軍勢に混じって、戦うたはずでございます。」

 劫はまた、じっと黙ったまま靭実をみつめた。

 しばらくそのまま、靭実をみつめつづける――いや、見つめ続けるのではなく、何か考えているようにも見えた。

「誰も助けなんだか。」

「は。」

「その姫を、誰も救いにはいかなんだか。その、男も――誰も」

「さて、私は交戦する兵の中におりましたので――しかし、おそらく、姫様がご自害されたことは聞き及びましたので、助けに向かったとしても、ならなかったのでございましょう。」

 動かぬ劫の眼差しから、ほたり、と、涙がこぼれた。

 ほたほたと後から後から涙がこぼれてくる。

「姫様」と侍女が紙を懐から取り出しかけたが、劫は手をあげてそれを制した。

「なんと――あわれな――なんと」

靭実には、劫のその涙が意外に思われた。

 靭実はその劫の姿を見ながら、

「ええ――私も、その男が逢引している女が、姫と早くから知っておったのですから、もっと早くに教えてとめておけばよかったかと何度も思ったもので」

「とめるものではないわ。」

劫の言葉に、靭実は言葉をとめた。

「我ら武家の女は、たとえ惚れた男がおったところで、家のために他所へ嫁がねばならぬ身。元より実る恋など、期待できるわけもない。それが、一時でも短い生の中で燃えたのであれば、こんな幸福なことはない。」

靭実は劫の言葉に、思わず目をみはった。

 劫は続ける。

「姫も、相手の男を思って死んだのであろう。実らぬはずの恋なら、果てるはずの命なら、せめて想いを抱いて死ぬのが幸福というもの。――そうではないか?」

 膝の上においた靭実の手が、震えだしそうになる。それを必死と抑えながら、なぜか小夜の顔が目の前にちらつく。

 あの今わの際の、息も絶え絶えに、きこえた、あの言葉が耳によみがえる。

 皆が幸福に――だから、私はお前に――私はお前に、斬られたかったのだ――

 


 橘の元を来栖直衛が訪れたのは、信乃との会話があって翌日のことだった。

 直衛が部屋に入ると、信乃もいてお針仕事をしている。昨日の課題なのだろう、直衛を前に少し気まずいふうだったが、直衛がすぐに、

「信乃どの、ご機嫌は直られましたか。」

と、にっこり笑って声をかけるので、信乃はたまらず拍子抜けせずにはいられなかった。

 だから、この男は、娘たちに人気があるのだ。

「私こそ、昨日は失礼なことを申しました。」

そう言って信乃はそのまま頭をさげた。

 横で見ていた橘が、

「なんだ、何かあったか。」

と尋ねたが、直衛は笑って、

「いえ、剣の道について話しておりましたら意見の食い違いが生じまして」

直衛がそういうのに、橘は表情を変えず黙っていたが、どうやらすぐに嘘と見抜いたらしかった。

 橘は深いため息をつくと、

「どうせまた、そなたがその柔和な顔で、厳しいことを言ったのであろう。言うならもう少し、相手が憎々しく返せるような言い方をすればよいものを。」

 それでも直衛は笑顔のまま、答えなかった。そしてふと、その笑顔を崩し、信乃に向き直ると、

「ところで信乃どの、お席をはずしてはいただけませぬでしょうか。」

と、改まった口調で言った。

「なんだ、改まった相談か。」

横から橘が口をはさむと、

「ええ、人に憎々しげに言い返しさせる、話し方のご相談で。」

直衛の言葉に、信乃は思わずくーっと吹き出した。

 橘のムッとした表情をよそ目に、笑いながら信乃は腰を浮かせ、

「では私表にでも出ております。終わりましたらお呼びください。」

そう言いながら立ち上がり、部屋を後にした。


 

 信乃は部屋を出ると、行くあてもなく廊下へと出た。そういえば、梅ももう花をつける頃だろう、お勝手の入り口前にあった木は、固いつぼみをつけていたではないか、そう思って、表へ出ることにした。

 履物をはいて表に出る。まだ冷たい風の中に、梅の香りは混じってはいぬかと花の香りを求めてかいだ。空気には未だ気配がなく、仕方なく信乃はその一本の梅の枝を目指して歩いた。

 するとそこに、地面に腰を下ろして何ごとかする人の姿がある。すぐに藤吉郎と認めて、その場を去ろうかと足をとめたが、信乃がその場を去るより早く藤吉郎が信乃の姿に気づき、

「信乃どの。」

ひとなつっこい笑顔で声をかけてきた。

 それで、何もなかったような顔をして、

「何をしていらっしゃいますの?」

と、藤吉郎に尋ねた。

「武具の点検をしております。」

信乃はギクリとした。その信乃には気づかず、藤吉郎は続ける。

「己が身につけるだけのものですが、たまに小さくなって入らぬことがあるので、替えのも含めて点検を」

「お部屋でなさればいいのに。寒くはありませぬのか。」

「いえ、部屋でしては畳が汚れるものばかりです。だからこうして、必要あらば洗おうかとも。」

 そういって、藤吉郎は足につけるものをいくつかひっくり返した。

「人にはやらせぬのですか。」

そういうと、藤吉郎は顔をあげた。

「必要なところは、協力しあいます。でも、自分がつけるものは、自分でやらねば。」

 相変わらず笑顔で話す。

 こんなまだどこかに幼さの残る男が、本当に戦場に出て人を斬れるのだろうか、信乃はそんなふうに思った。

 そう思ってみつめていると、藤吉郎は手元で作業を続けた。うつむいた姿のまま、

「剣のお稽古は、直衛どのに頼まれたそうですね。」

そう言葉を継ぐ。なぜか言われた信乃の胸が痛んだ。

「ええ、藤吉郎さまは、戦に出られるので、これ以上負担をかけてはならないと。」

信乃がそういうと、藤吉郎は、ははと笑った。

「負担であるならこの時期、自分から稽古をつけるなどとは言い出しません。」

また胸が痛む。

「それでも、私が気をつかいます。」

 そういうと、藤吉郎がうつむいたまま立ち上がった。

 なぜかドキリとする。

 その顔を探りながら、明らかに傷ついた顔をしているので、信乃は何かこの場を取り繕う言葉はないかと言葉を探った。すると藤吉郎から、

「信乃どのは、なぜここへ?」

そう尋ねた。

「あ、梅の花が咲いたかと、それを見ようと――直衛さまが、橘の君のところへおいでになり、席をはずしてほしいとおっしゃられたので」

「ああ、直衛どのが。」

「何のご相談でしょう。」

 ふと、そう信乃に問われて、藤吉郎の顔が真顔になった。何か考えている様子だったが、

「大木村の、巫女どののことをひどく気にかけておられた。」

言われて、信乃はビクッとした。

「姉のこと、でしょうか。」

「ええ。」

「なぜに。」

答えず、藤吉郎の真顔が信乃に向けられる。何か問いたげに映る目に、信乃は見入られながら、また、小坂靭実の顔と藤吉郎の顔が重なる。

 似ているだろうか――。

 面影一つさえ、ないような気がする。

 見ている藤吉郎の口が答えた。

「一人の村の巫女の元に、なぜ忍びの者が出入りしていたのか。なぜ、数ある国境いの巫女で、高階はあの越えがたい村にある巫女殿をねらったのか、なぜ、わざわざその寵臣を寄越したのか――。」

「直衛さまが? それはいつです。」

藤吉郎の言葉の数々をききながら、昨日直衛がその疑問を自分にも連ねていたことを思い出した。

 何の必要がある。

 今更それが、何の必要があるのだ。

 こちらが吐かぬから、巫女橘を探るのか。

「信乃どの。」

思いにくれる信乃に、藤吉郎が声をかけた。

 それで、眼差しをむけた信乃に、藤吉郎は、

「信乃どの、何を探っておられる。」

そう声をかけた。

 信乃は藤吉郎の言葉の意味を解せず、目をみはって藤吉郎の顔をみつめた。

「ききたいことがあるのなら、きいていただきたい。」

藤吉郎は続けた。

 信乃はやはり、藤吉郎のいうことの意味がわからず、何をきくのかと心に問うた。

 信乃が言葉を続けないので、藤吉郎は足元にあった武具を持ち上げ、信乃の横をすりぬけて表のほうに向かって歩き始めた。

 慌てて振り返り、歩いていく後ろ姿に、

「本当に、戦に出るのですか。」

そう問うた。

 その問いに振り返った藤吉郎は、

「ええ、出ます。言ったではありませぬか。信乃どのの、姉君の仇を討つのだと。我らの手で、見事に、小坂を討ち取って」

 言いながら、信乃の顔に藤吉郎ははっとした。

 両手で口をおおい、胸元をおさえながら、苦しそうに息をしている。

 胸の重さに耐えきれず、涙がボロボロとこぼれた。

「信乃どの?」

藤吉郎はあからさまにうろたえた。思わず信乃へと歩を進めると、信乃は即座に身を退かせた。

「姉の、仇と言われるか。」

 信乃は強く息を吐き出し、続けた。

「信乃どの。」

「藤吉郎さまは、ご存知か。」

見ている藤吉郎の顔に疑問の色が浮かぶ。

「義見朔次郎という男をご存知か。」

色は、さらに濃くなる。

「小坂靭実は元の名を、義見朔次郎という――高野の戦のあと、我らの村にたどりつき、そのとき」

信乃の目からまた、ハラハラと涙がこぼれ落ちた。

「誰を、仇というか!」

信乃は懐剣を懐から取り出した。

「同じ――では、ないか!」

力任せに抜いて、構える。

「あの時、あの道に迷わせた、あの男と、同じではないか! 想いだけ残して、一人行ってしまった――あの男と、同じ――!」

 今ならわかる。

 姉小夜は、あの男が去ったあと、あの猟師小屋で、朔次郎がひそかに帰りくるのを、待っていたのだ。

 あの小屋に、毎夜毎夜通っては、息がつまりそうな時間の中で、あの男が帰りくるのを、待っていたのだ。

 毎夜のように、通い、失望し、怨み、帰っては、また、失望し、怨み――

 怨み、待ち続け、うらみ――

 


〔― 第3部 ― 完〕

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巫女姫物語・第三部 咲花圭良 @sakihanakiyora

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