第八章

 信乃は館の裏手から、神社への道へと走りぬけた。

 暗い中、目の前にはこれといって明かりも見えない。

 荒い息で振り返りながら立ち止まり、館の方をみつめた。

 館の表で焚かれている松明の火と、館の明かりが見える。

 あの松明の向こうで、たきと藤吉郎が話していたのだ。

 今も、いるのだろうか。

 信乃は暗い中、涙を流しながらその方角をみつめていた。

 そして、はあっと一つ息を吐き出すと、袂から懐剣を取り出した。

 ――生きてはならぬ。

 あの白い女の声が蘇る。

 そうだ、なぜ今日までおめおめと生きていたのだろう。もっと早くに、こうすべきだったのだ。

 姉を死地へと赴かせたのは、結局は、自分ではないか。

 そのきっかけを作ったのは、自分ではないか。

 それがなぜ、自分が――自分だけが、何でもないように、生きている。

 そもそもが、逃げおおせたのが間違いだったのだ。

 早く気付けばよかった。

 早く――。

 信乃は懐剣を鞘から抜いた。

 切っ先を己の首に向け、構えた。

 遠くに、暗闇の中に浮かぶ由良の館が見える。その館を見つめ、信乃は刀に力を込めると、ぎゅっと目をつぶった。

 その時だった。

 懐剣を握る手に何か飛来するものがあって、信乃の手を激しく撃った。信乃は「あっ。」と声をあげ、剣を手落す。体に何者かの腕がまきついたかと思うと、とたんに、ふわりと体が浮いて抱えあげられ、一散に林の中へと担ぎこまれた。

 どさりと音を立てて信乃が下ろされる。

 立ちあがる間もなく、暗闇の中で胸倉をつかみあげられ、

「どういうつもり?」

楓の声が飛んできた。ひそめた声だ。

「どういうつもりだ、信乃!」

さらにひきあげられた。

 暗闇の中でも楓の怒りが伝わってくる。

 目をこらすと林の中、ろくに明かりもない。目も見えない。ただ、楓の気配は感じられる。

 しめあげられながら、信乃は苦しい息の中、答えようとしたが答えられなかった。あっと口を開けたとたん、

「やめよ、楓。信乃が答えられぬ。」

と、佐助の声が飛んできた。

 楓の手がぴくりと動いて、信乃の胸元を絞める手が緩んだ。

 信乃がそこにすわりこむと、激しい息をした。

 呼吸を整える。

 林の中の暗闇に、なんとか目をこらした。

 楓と、佐助か――

 林の中に明かりはないが、どこからともなく漏れ来る小さな光で視界はつかめた。

 楓が信乃の前に腰を下ろすと、その両肩をつかんだ。

「信乃――信乃! 小夜は信乃に、そんなことをさせるために、信乃を逃がしたのか! 何を血迷ったのだ。信乃!」

 闇の中で、目の前の楓の目が光っている。潤んでいる。小夜はその楓の目をみつめながら、

「私だけ――私だけ、生きていてはならぬのです。」

闇の中で楓は少し首をかしげた。

「もっと、早くに、死なねばならなかったのに――何をおめおめと、この命永らえて」

「信乃!」

「楓、楓――わたくしは、あの社殿の中で、姉さまとともにいかねばならなかった。」

「信乃!」

「一族の命運のかかった死なら、わたくしも、共に」

「信乃、やめて、信乃! いまさら何を、なんでそんなことを!」

「あの、村長の嫁に何か言われたのか。」

佐助の声が二人の会話を遮った。信乃はゆるりと視線を佐助に向けたが、暗闇の中でその姿はうかがえない。

 信乃は首を振った。

 首を振ってから、「いいえ。」と答えた。

「では一体何が原因だ。今頃になって、なぜそんなことを言い出す。」

 信乃は佐助のその問いに、頭の中をめぐらせた。

「白い、女が――」

「白い女?」

楓が口をはさんだ。

「白い女が、生きてはならぬと。」

「白い女とは、何者か。」

佐助が問い返す。

 信乃は答えず、闇の中の二人の姿をみつめた。

 白い女が現れるたびに、この二人がいる。これは偶然か、それとも、必然か――。

 あの女は、一体誰なのか――。

「信乃、白い女とは、誰か。」

佐助がもう一度問うた。

 信乃は佐助の顔のあたりをうかがいながら、もう一度その白い女の姿を思い浮かべる。

「わたくしに――生きてはならぬと。」

「だからそれは誰なのだ。」

「わかりませぬ。ただ、白い装束をきた、異様に痩せた体の、女で――」

楓は一つ息をのんだ。それから、信乃の肩を強く握る。

「それは、この世のものか、それとも」

信乃は小さく首を振った。

「ただ、この前現れたときは、足がなく、宙にういて。」

楓はこの問いに、一度佐助の方を振り返った。

 信乃に振り向き、続けて、

「では、それは、いつから現れる。」

「大木村からこの村への帰り」信乃はそこで楓の顔をじっと見つめた。「楓が私の前に現れる、少し前のこと。」

 楓は信乃の言葉に少し考えるふうだったが、信乃の肩をつかんだまま、佐助にもう一度振り返った。

 佐助はしばらく考える様子だったが、ややあって、

「信乃、――それがたとえ何者であっても、小夜の願いは、お前が生きて逃れることだった。言うたではないか、血は、絶やしてはならぬと。それがせめてもの、一族への償いだと。お前が死んでは、その遺言が無に帰すではないか。」

 信乃は愕然とした。

 女と佐助の言っていることが違う。

 では、佐助と女は、かかわりがないのか、それとも、今この場を取り繕うために、こう言っているだけなのか――。

「信乃、山中には、人を化かすキツネがいる。他人になりすまして人の邪魔をする、天邪鬼という鬼がいる。知った人になりすましたり、他人の口真似が上手だったりと、昔から言い伝えられている。そなたが見たのはそれではないのか。大木村で死のけがれに触れ、山中を歩いたであろう。たとえ巫女がついていてはらったとしても、途中でその巫女と離れていたのも事実。そこからしつこくつきまとっているものとも言いきれまい。お前の心を読み、お前にかかわるもののようになりすまして、そうしてお前の命をねらっている。」

 天邪鬼――?

 それでは、あの女は、私に憑いているというのか。

 楓は信乃の肩をふたたび強く握りしめた。

「信乃、信乃、たとえどんな邪魔が入ったとしても、そんなものに耳を貸してはいけない。小夜は信乃が、無事に逃げて生き延びることを望んでいたのだ。その望みを、信乃が台無しにしてはならない。」

「そうだ、信乃。」

言って、佐助が信乃の元に歩みよった。

 腰をおろし、信乃をみつめ、

「お前に一つ希望をやろう。」

「希望?」

「生きる希望だ。いや、目的と言ってもいい。お前には、倒さねばならぬ仇がいる。誰かわかるな。」

信乃は佐助の顔を探った。佐助はおそらく、小坂靭実のことを言っているのだろう。

 しかし、小坂靭実は、姉を斬ったが、仇ではない。

「その近親のものが、この村にいる。」

 思わず、暗闇で佐助の顔を探った。しかし、やはりその表情はよくはうかがえない。

「由良の館の奥方は、ずっとふせっているだろう。あの女は、六年前の高野の戦のおり、自分の実家を、お館さまや夫である由良藤吾に攻め滅ぼされたのだ。」

 高野という言葉をきいて、信乃はそれがあの義見朔次郎の生国だということを思い出した。

「あの女の母は、義見という家の出だ。」

 信乃は愕然とした。

 もう一度、佐助の顔を強くみつめる。

 冷たく強い視線が、信乃の顔を射た。

「小坂が倒せぬなら、その血脈を滅ぼせばよい。そうだ、この秘密を握っておいて、いつかそれを皆にばらまくのだ。味方かと思えばとんでもない仇敵がここにいる。あの血族も、小坂のようにいつか我らの敵となり、我らを滅ぼすに違いない――とな!」

 闇の中で佐助をみつめながら、信乃は心の中で、藤吉郎と、小坂靭実を交互に思い浮かべた。

 心に思い浮かべる藤吉郎の顔は、なぜかいつも笑顔だ。

 ああ、なんという試練を――

 神よ、なんという試練を――

 神は我らに、なんという、試練を与えたまうのか――

 

  

 

 藤吉郎とたきがそろって広間に戻ってきた。それをみとがめた来栖直衛が、近くに腰をおろした藤吉郎に、たきの方へ一度目をやってから、小声で、

「どちらへ行っておられた。」

と尋ねた。

 藤吉郎が答えようとしたとき、あきが、

「おや、信乃さんはどうされました?」

と藤吾の横へと戻るたきに尋ねた。問われてたきがきょとんとした顔をし、

「信乃が、どうかしましたか。」

「いえ、たきさんがなかなか戻られぬので、探しに出られたのですが。」

 そこで広間での話し声が、一斉に小さくなった。

「いかがされた。」

藤吾がたきとあき、二人の気配に気づいて声をかけた。するとあきが、

「信乃さんが、たきさんを探しに出られたのに、一緒に戻られなかったので、信乃さんはどうされたのかと。」

 そのやりとりを聞いた後、藤吉郎は思わず直衛と顔を見合わせた。

 直衛は慌てて手をあげ、

「あ、では、私が、探してまいります。どこぞで、休んでおられるのやもしれませぬ。」

言って立ち上がった。

 藤吉郎があっと声をあげる間もなく直衛が立ち上がって歩き始めたので、それに続いて藤吉郎も立ち上がり、

「では、私も。」

そう言って直衛の後を追った。

 廊下に出るとすぐに、直衛が歩きながら藤吉郎に尋ねてきた。

「どこに行っておられた。たきどのと一緒か。」

「いや、まあ、そう――」

「いったい何用で。」

そう言いながら直衛は橘と信乃の居室へと足を進めた。

「その、たきどのが、信乃どのを連れ戻しにきたのかと、気になって。」

直衛はその言葉をきいて立ち止まった。ため息を一つつくと、

「ないことぐらい、予測できよう。」

「しかし。」

二人は再び廊下を歩き始めた。

 信乃が使っている部屋の前までたどりつくと、

「信乃どの、こちらにお帰りか。」

声をかけた。

 しかし、返事がない。もう一度「信乃どの」と声をかけたが、やはりしんとしている。

 「失礼いたす。」と直衛が扉を開けたが、二人でのぞいても、真っ暗な中に人の気配はなかった。

 直衛はチラリと藤吉郎を見、少し考える様子を見せると、

「心あたりは?」

と尋ねた。

「なぜ私にきく。」

と藤吉郎は返したが、直衛は答えなかった。

「では、藤吉郎は家の中を、私は外を探してこよう。みつかったら呼んでくれ。」

「わかった。」

言って、二人は別れかけたが、ふと直衛は立ち止まり、

「たきどのと、それ以外に何を話したのだ。」

と、去り際の藤吉郎の背に声をかけた。立ち止まった藤吉郎は、ややあって振り返り、

「今、その話は関係ないではないか。」

と、少し顔を赤くして言葉を返した。

 直衛は藤吉郎に疑わしい目を向けた。藤吉郎がそのまま、ぷいとあちらを向いて歩きはじめたので、直衛もその場を後にした。

 

   

 

 外に出て「信乃どの」と直衛が声をかける。

 館の前から神社に向かって続く道に目を向けると、 うっすらと道の様子がうかがえた。

 今夜は月が出ているのだと空を見上げたが、厚い雲の広がる夜で、今は薄く月に雲がさしていた。

 館の前にさしている松明を一本抜き、夜は常時火をともしている明かりの中に差し込んで松明に火をともした。

 さて、家の周囲か、裏か、神社の方か、どこから回るかと視線をめぐらしていると、神社の方から人の歩いてくる気配がする。直衛は松明を高くかかげ、その人影に目をこらした。

 女の影だ。

「信乃どの!」

直衛はすぐと声をかけた。

 影の主はすぐに直衛に気づいたようで、顔をあげた。

「直衛さま、どうされました。」

「信乃どのこそ、どちらへおいでであった。なかなか戻られぬゆえ、探しに参ったのです。」

「まあ、それは、申し訳ない。たきどのを、探ししておりましたが、広間でのお酒のにおいも、鼻についておりまして、それで」

「気分が悪くて外に出られたと? それで、神社まで行かれたか。」

「いえ、外に出ますと、雲の影から、月が見えておりまして、気分もよくなり、誘われるように歩いておりました。申し訳ありませぬ、わざわざ、お酒の席を出てこられたのですね。」

 暗い中ではっきりと信乃の顔をうかがえないが、直衛は、信乃の言っていることは嘘だと思った。

 気のせいか、声が鼻声だ。

 しかも、足元を見ると、履物をはいていない。

「とにかく、――館に戻りましょう。暖かくなったといっても、夜はまだまだ冷えまする。さっ。」

 そう、直衛がうながすと、信乃は小さくうなずいて、直衛より一歩遅れた形で並んで歩いた。

 しばらく無言で歩いていたが、ややあって、直衛の上着のそでを、突然信乃が小さくつかんだ。

 直衛がゆっくりと立ち止まって信乃の方を振り返ると、信乃はそれをパッと離した。

 うつむいていて、表情がよく読み取れない。

「信乃どの。」

「なんでもありませぬ。」

涙声だ。

「信乃どの。」

「里心が、起こっただけにございます。たきさんのお顔を見て――あの日も、村を後にした夜も、雲の多い、はっきりとはしない夜で――。」

 直衛はそれ以上を尋ねるのをよした。

 それから歩き始めると、

「とにかく、涙をおふきなさい。皆が心配します。」

信乃は袂を目にやると、頬をぬぐっているようだった。それでも、なかなか収まりそうにない。直衛は後ろの信乃をうかがいながら、皆には気分が悪く部屋に戻ったと伝えましょうか、というと、信乃は声に出さずうなずいた。直衛は静かに館に入ると、信乃を床にすわらせ足袋を脱がせた。廊下をあがって信乃を居室へと送り、その暗闇に、信乃を残した。

 

 橘とたきが広間からひきあげてくると、信乃は普段通りの様子で寝床の準備をしているところだった。

「気分が悪くなったとか、大事ないのですか。」

とたきが声をかけると、信乃は笑顔で、

「ええ、すぐによくなりました。それより、抜け出したままで申し訳ありませぬ。」

と答えた。

 橘は何か思うところあるのか、信乃の様子を見つめ続けたが、一つため息をつくと、

「さて、たきどの、お疲れのところ申し訳ない。」

そういうと、たきが真顔になって「はい」と答え、橘の前にあゆみよった。

「少しおききしたいことがあります。」

たきが腰を下ろすのに従って、橘はその動作を目で追った。たきが腰をおろすと、信乃もまた歩みよってその隣に腰をおろした。

 すると橘は、背後から木箱を一つ引き寄せた。その木箱のふたをとり、それからまたたきへと視線を向けた。

「信乃どのが大木村を去る時に、巫女姫どのが持たせたものだ。」

 たきは幾分動揺した様子を見せたが、それをはっきりとは表にあらわさなかった。

 橘は続ける。

「信乃どのに尋ねたところによると、『気封じの玉』というのだそうだ。そなた親族なら、この玉について何かきかされたことはないか。」

 そう言われて、たきはその箱を見、信乃を見、そして橘を見た。

 木箱の中は、紙に包まれて封印のされた丸いものが入っている。

「この子が幼いころ、その力を封じるときに使った玉にございます。しかし私も話にきいただけで、実物は見たこともございません。」

「まことに。」

「はい。」

「他に何か知っていることは?」

たきはしばらく考える様子を見せたが、ややあって、

「その玉に気をこめる訓練をしているときかされた時、私は十四、五でございました。それは、元々はもののけを封じる玉であったのが、巫女姫さまは信乃の力を封じるために使うのだとおっしゃられたそうで。」

「して、いかにして。」

「私にも詳しいことはわかりませぬが、きいた話では…。」

「うむ。」

橘がそういうと、信乃も身をのりだした。

 己のことでありながら、あまりそのことを覚えていない。

「玉の中にもう一人、信乃をこさえて、――ええ、映し鏡の姿のようにもう一人――それに『強大な力をもつ信乃』を預けていくようにさせたと。」

「なんだ、それは。」

「ですから、私にもよくわからぬのでございます。」

橘は目を閉じ身動き一つしなくなった。何か考えているらしい。

 その考えるのをよそに、たきが、

「巫女姫さまがおっしゃるには、この世には、自分の知らぬ間に魂が抜け出てさまようこともあると。思い強ければ、それがいきすだまとなって人に祟ることもあるとおっしゃられました。魂は体の中にのみある一つとは限らぬと。」

「それはそうだ。」

「ですから、玉の中にもう一人信乃をつくり、その中の者に力をあずけさせるようにして、この子が日常生活していくに差し障りないまでに力を封じたと。」

 ふいに、信乃の脳裏に、小さな手を合わせ、玉に向かう姿が浮かんだ。その小さな手は、温かい母の手に挟まれ、合掌している。

 玉よ、お願いだ、気封じの玉よ――

 自分は母の膝の上にいる。母は自分の後頭部に口をよせ、そんな言葉を信乃に復唱させた。

 玉よ、お願いだ、気封じの玉よ――我を助けたまえ。玉に宿るもう一人の信乃よ、我の力をそなたに捧げる、この玉の中に、その力を宿したまえ、信乃よ、宿したまえ――。

「そんなことをして、何か不都合なことは起こらぬものであろうか。」

 ふと橘の声で信乃は我に返った。

「生き霊とてあまりにさまようと本体はひどく疲労する。命が削られぬとも限らぬ。それなのに――。」

「しかし、それが、この子が生き残る唯一の道でございましたので――。」

橘は言葉につまった。それからしばらく、身動きせずに一心に何か考える様子であったが、ふいに信乃へと顔を向け、

「そなた、それで、苦しくはないのか。」

信乃はわからぬというふうに、眉根を寄せた。

「この、玉の中に、もう一人のそなたは、今も、閉じこめられたままなのに。」

「――苦しいと思ったことは、一度も、ございませぬが。」

「ああ、そうだろう、そうだろうの、そんなことを思っておっては生きてはおれぬ。巫女姫どのは何かの工夫をされたのであろう。長の時間をかけてしたことなのであろう。したが――。」

橘は険しい顔になって前を向いた。

「こんなことが許されようか。」

独りごちた。

 それから、たきと信乃をゆっくりとみつめた。

 ただみつめる――その目には憂いの色が宿っている。

「巫女姫小夜は――」

橘は口を開き、その憂いを含んだ目で、たきの顔をみつめた。

「我らが大木村に行ったとき、その死霊に会うたとき、小夜どのは言われた。小夜どのは、巫女姫を終わらせるために、自ら社殿で斬られたのだと。」

たきはその橘の言葉に驚くでもなく、橘の顔を落ち着いた顔で見返していた。

「巫女さま。」

答えず橘はたきをみつめた。

「それは我ら一族の、決して言葉にはできぬ、悲願でございました。」

「――たきさん!」

叫んだのは信乃だった。

 たきは続ける。

「私は幸い、ぬきんでた力を持ちませぬ。しかし、私も人の親でございます。ややを生むときにいつも、―― 一族の女は誰もが、思うものでございます。我が子に、あの力が出やせぬか、人身御供のようなあの身に、我が子がおかれはせぬか――おりしも乱世、その力がいつ、どこに禍いをして、子を、一族を、村を、滅ぼさぬとも限らぬ――誰かが、止めなければならぬ、誰もが――決して人前では口にはせぬが、我ら一族の、それは、悲願でございました。」

 秘密を守るためなら人殺しもいとわぬ、血を残すためなら、無理な血族婚をもいとわぬ、それが人の道として、どれだけ反したことなのか――どれほどに、不自然なことであるのか――。

「一族のものは、誰も小夜どのを責めはいたしますまい。誰かが止めねばならぬことを、見事にやってのけたのでございます。」

 橘は、強い口調でしゃべるたきを見つめ続けた。

 見つめながら、さすがに村長の嫁になるだけの気性ではあると思った。

 橘はまた一つ、ため息をついた。

「したが――もって生れた力があるとて、人として、あるがままに戻さねばなるまいの。――今少し、信乃どのはここに預からせてはいただけまいか。」

「我らにとって何の義理もない巫女さまが、そのような理由でこの子をお助けくださるのであれば、我らには願ってもないこと、幸甚この上ないことでございます。よろしくお願いいたします。」

 そう言って、たきは床に手をつき、頭を下げた。

 そのあと橘は、たきに質問を加えた。

 義見朔次郎はなぜに、つきだされずに逃がされたのか、と。巫女姫が村を滅ぼすと予言したにも関わらず、である。

 それに対し、たきはだいたい次のように答えた。

 あれは、巫女姫になるためだけに生きた娘が、それのためだけに生きてきたのに、そのすべてを捨てようと思った恋の相手。もし、その場で斬り捨ててしまえば、あの娘はどうなったのか――たとえその場を離れて殺そうとも、あの子はその気配を敏感に察知する――あれは、小夜の心を殺さぬがための、措置でありました――と。

 小夜の心を、殺さぬがための――。

 

 

 その夜、橘の寝起きする部屋とのふすまをしめて、信乃はたきと枕を並べて眠った。

 たきは尋ねた。

 思う方とはうまくいっておいでか、と。

 信乃はしばらく答えなかったが、ややあって、

 あれは巫女様が、一族の者に顔向けできぬと言った私のために、ついた嘘でございます、と答えた。

 たきはそれにクスクスと笑うと、

 そんなことだろうと思った。信乃ちゃんはそんな、どんな理由があっても、強情を張るような子ではないもの。

 信乃はそれに答えなかった。答えないので、たきはそのまま続けた。

 姉上さまはお幸せであったろう。何はともあれ、一度思いあった方に最期を遂げていただいたのでございます。それが、戦の火ぶたを切ろうと、われわれには責める筋合いはございませぬ。

 ああ――また――

 信乃は思った。そして、布団の中に身をうずめた。

 違うのに。

 布団の中で、唇をかんだ。

 違うのだ。

 「巫女姫」は、いかようにも滅ぼすことができた。しかし、なぜにあのような形でなければならなかったのか――。

 姉さまが、朔次郎と、逃げようとした、あの夜、が、なければ、あんなことには、ならなかった、はず、なのに――。

 布団の中で、信乃ははらはらと涙をこぼした。

 姉さまは――いや、巫女姫小夜は、結局は、一族の名にきて、己のならなかった恋を、想いを、遂げただけなのだ。

 巫女姫を、終わらせるため、などとは、ただの口実ではないか。

 ただ、遂げたかっただけなのだ。

 その運命に逆らえぬから、せめて、想うた相手に、斬られただけではないか――

 信乃は布団の中で涙をぬぐった。

 そして、その道に、迷わせたのが、なぜに、私なのか。

 なぜに――。

 

 

 翌日早朝、来栖兵衛に付き添われ、たきはお館へと帰って行った。

 便りを出すので、今度は思うところなく返事をくれと言葉を残した。

 見送る朝の光が、なんだかまぶしくてならなかった。

 射られるかと思うほどに、信乃を差した。

 

 

 三日して、信乃は、深田妙に誘われた「お稽古」に顔を出すことにした。妙が朱で印をつけた書の稽古が学而館で行われるので、信乃は橘に道具一式を借りて、一人で学而館へと出かけて行った。

 入っていくとすぐに妙が信乃に気がつき、嬉しそうに招きいれると、信乃に自分の隣の席を勧めた。

「よかった、信乃さま。ひとつ参加なさるのですね。」

「ええ。」

「他にも何か?」

「あの、お針のお稽古にも参加させていただこうかと…母が早くになくなって、あまりちゃんと教えてもらったことがなかったので。」

そういうと、妙はじっと信乃のことをみつめていたが、突然、向かい合わせた信乃の両手を手にとって、

「信乃さま、必要なことは、なんでもおっしゃって! 私も、何か必要なものがあれば、お持ちいたします。」

「いえ、お道具はきよら様にお借りするので。」

「お道具ばかりとは限りませんわ。私これでも、父上の直垂を仕上げたこともございましてよ。」

「まあ、すごい。」

「信乃さまも、許嫁の方に何か。」

言われて、信乃は内心ギクリとした。

 すぐに藤吉郎の顔が浮かんで、うち消して、それからすぐ妙の顔を見、

「そうですわね。何か、目的があった方がやりよいかもしれませぬ。」

妙がうんうんとうなずいた。

「でも、わたくしも、きよら様やお母様に服を借りどおしなので、自分のものでもこしらえようかと思います。」

妙ははっとした。そして、また、うんうんとうなずいた。

「ところで、妙様。」

「はい。」

「来栖直衛様は、修練場のお稽古の時以外は、どこへ行けばつかまりますか。」

「直衛様にお話が?」

「ええ。」

「夕刻過ぎれば、お宅に行けばいらっしゃるかとは思います。しかしここ最近は、昼は兵の武道場に行った方が早いやもしれませぬ。」

「兵の武道場…村のはずれですわね」

「ええ、でも今の時に、女が行ってもとりあってはくれぬかも…。」

「行くだけ行ってみます。」

「何をそんなに急ぎのお話」

言いかけたところで、入口から「あ、妙さん、妙さん」と娘たち二、三人の賑やかな声が聞こえてきた。

 入口に面している妙がそのままそちらに視線を向けると、娘たちはつづけて、

「ねえ、お聞きになりました?」

「何をです?」

「高階方の、小坂靭実に縁談ですって。しかも」

言ったところで、妙がはっとして信乃を見た。

 妙のただならぬ気配に、娘たちは瞬時言葉をとめたが、目の前にすわっているのが信乃だと気付いて、次の言葉を続けなかった。

 それを察した信乃は、娘たちに向き直り、強い目で、

「お相手は、どなたです?」

そう問うと、娘たちはそれぞれに目を合わせ、戸惑った様子で答えなかった。

「わたくしに、気兼ねなどいりませぬ。お相手は、どなたです?」

皆がそれぞれに目を見合わせて、口を開けなかった。

 しかし信乃が言葉を待っているようなので、その中の一人が、

「高階隆明の妹姫、劫姫とおっしゃる方で…。」

それに、今度は妙が打たれたように、

「主君の妹姫と? 何かの間違いでは?」

「いえ、はい、さあ――わかりませぬ。ただ、もう領国ではもっぱらの噂だそうでございまして…。」

「まさか、そのような、縁談話などと――なぜこの時期に?」

「わかりませぬ――が、とにかく縁談話が持ち上がっていると。」

 妙は唇を噛んで、信乃を見た。信乃は信乃で、膝の上に頑なに手をおいたまま、じっと一点をみつめている。

 斬って、捨てて、その剣の血も乾かぬうちに、次の女――

 これも世の習いとはいえ、これも、世の、習い、とはいえ――

 

 書の稽古が終わると、信乃は妙に付き添われて村のはずれにあるという武道場へと急いだ。

 特段ここまで急ぐ必要もない、夕刻、家へ帰るのを待って訪ねてもよかったが、それでも急いだ。

 武道場へ着くと、そこは雨ざらしの広場で、兵たちが弓の練習をしている最中だったが、その稽古をつけているらしい中の一人である直衛に、視線を向けていると、場に不似合いな信乃と妙の姿をみとめて、二人の元まで歩いてきた。

「どうされました。こんなところへ。」

そう、直衛が尋ねると、信乃が、

「弓もおやりになるのですか。」

と尋ねた。

「武道は一通り、何でも。」

そう直衛は何でもないように答える。信乃は少し考える様子だったが、直衛が、

「練習を見にいらしたので?」

問うと、横から妙が、

「直衛様にお話があるとおっしゃって。」

「ああ、はい。私に。して、何用で。」

そういうと、信乃は直衛の顔をきっと見上げた。

「直衛様に、きよら様と同じく、剣の稽古をつけていただきたのです。」

「剣の――というと、懐剣ではなく」

「ええ、太刀にございます。」

直衛はしばらく考える様子だったが、

「それは、藤吉郎様がおつけになると聞き及びましたが。」

「いえ、わたくし」

直衛の言葉を信乃は急いで切った。

「直衛さまに、お稽古をつけていただきたいのです。藤吉郎様に、ではなく、直衛さまに。」

直衛は、信乃の言葉をききながら、こんなに強くものをいう娘だったかと、少し不思議に思った。

「藤吉郎さまには、お断わりになられたのか。」

「いえ、まだでございます。」

「一度藤吉郎さまに稽古をつけていただいたのなら、そのままの方が」

「いえ、藤吉郎さまは戦に出られるお忙しい身。私などに手をわずらわせるのは申し訳ないと、ご辞退するのでございます。きっと藤吉郎さまのためにも、その方がよろしいでしょう。」

 その言葉に、直衛は改めて信乃の顔を見た。

 少しの言葉では覆せそうにないほど、頑なな顔をしている。

 直衛の頭に、たきがきた夜の、信乃の不可解な行動が浮かんだ。

 さて、これは――。

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