第七章

 午の刻を前に、橘が調べ物をしようと書物をめくっている時だった。昨夜藤吉郎に社殿にある書物を取り寄せてもらうよう頼んだものが、早朝、さっそく橘の元へと届けられた。

 信乃は、その藤吉郎とともに剣の稽古をするということで、外に出ていていない。

 書物をめくりながら寺の方の資料も必要か、それを依頼するか、あるいは直に出向くべきかと思っていた時、部屋の入り口の外から、

「橘の君、高野からお文でございます。」

と、この家の下男の声がした。

 はっとして橘が顔をあげた。

「お入りなさい。」

入口に向かって声をかけた。

 すると、下男はそそと扉を開け、そそと中へと入ってくると、橘にその文を手渡した。

「使いの者は?」

「はい。下の駐屯所の兵が受け取りましたようで、どなたが来られたともうかがっては…」

いつもと同じような返事をする。

「あいわかった。ご苦労さまでございました。さがりなさい。」

橘がそう答えると、下男は頭を下げてそそと退き、入口の外へと消えて行った。

 橘がその姿を見送って、もたらされた文に視線を向ける。

 やけに分厚い。

 裏を返すと「蛇穴」と署名があった。

 開けると静かに読み始めた。

 冒頭のあいさつ、戦が始まった時の一門の配置、櫛羅には説明をしておいたとのこと、かつての戦で滅ぼされた高野の一族のことと、一つ一つ経緯を踏まえて詳しく書いてある。そして最後の方になって、「義見朔次郎について」と記されていた。

 橘は思わず文から目をあげた。

 二間続きの部屋の、向こう側――この一月あまりは信乃が寝起きしている部屋である――に視線を配したが、むろん誰もいるはずがない。

 また、橘は文へと視線を落とした。

 読み進めるうちに家系図が出てくる。高野の家、義見の家とつながり、由良の名前もその中にあった。そしてその義見の家の端の方に朔次郎の名があったが「朔次郎」の横に「太郎」と添え書きされ、傍線が派生している。

「結城家家臣、塚本右近の実孫?」

見ると義見の線からおりた「母親」のところに、乳母と肩書きが施されている。

 ――由良の息子たちとは、血縁ではなかったか。

 そう思いついて、橘は一つ胸をなでおろした。なでおろしたものの、すぐに我に返り、

「しかし、生国の結城は、高野より北――戦場のすぐ近くではないか。」

一人ごちた。

 蛇穴の文はこう続いている。

「こたび義見朔次郎の出自が知れるに及び、敵軍がいかに作戦を組んで参るか想像もつかぬ。しかしながら義見はこの領国の地理に詳しきこと、隠し立てする必要の些かもなく、まことに遺憾ながら本領国にとっては不利ともいえ、稲賀殿に進言すべきかとは思えど、今一つ迷うところなれば、そなたの意見も頂戴いたしたく、また今一度櫛羅と相談いたして――…」

 橘は文を膝の上に置き、顔をあげて虚空をみつめた。

 相手は稲賀が二十年も前に攻め滅ぼした領地の遺児だ。

 さらに六年前、またその移り住んだ地をも攻め滅ぼされた。

 復讐を考えてもおかしくない男が、敵国にくだり、この領国に攻めてきたとするなら――それを知れば、この領国内に同情も生まれよう。同じように恨みを持つものが決起せぬとも限らぬ。

 それが、今その男故にいきり立った全軍の、その士気にかかわらないと、どうして言えよう。

 稲賀に進言すべきか、なさぬべきか、進言するなら、どこまでをなすべきか。

 橘は唇をかんだ。

 ああ、それでも、どちらにせよ、伝えねばならぬのだ。

 小坂靭実が義見朔次郎であった時、どれほどに結城の跡地をめぐったかは判然としない。しかし、もし、ある程度は精通していたのだとしたら――。

 敵にそっと懐深く入られて、味方が窮地に陥ることも、可能性としては十分、ありえるのだ。

 

 信乃の木刀が藤吉郎の木刀をはじいた。

 由良の館の前の広場に練習の場を移して間もないが、手は抜いているものの、気のせいか信乃は上達が早い。

 それが天性の勘なのかどうかはわからないが、なぜか剣の行く手を読まれているような気がする。

 技術も力も劣るものの、それでも筋がいいのには違いがなかった。

 藤吉郎は信乃の剣を受けると、「信乃どの」と声をかけた。信乃の手が少しゆるんだところで、その受けた木刀を使って信乃の腕を下げさせた。

「懐剣の練習はもう終わりにしましょう。」

息をきらしながら立つ信乃の疑問の色に、藤吉郎は言葉を続けた。

「木刀を長いものに――防具をつけて――次からはそれでいいでしょう。」

信乃は息を切らしたまま、姿勢を正しくして藤吉郎に向きあった。あっと笑顔になりかけたが、息が続かないのかすぐに苦しそうな顔をした。

「しばらくは私が稽古をつけて、ある程度慣れたなら、きよらと手を合わせるようにして――あれも人に教えれば練習になります。ですからその前にしばらく」

「嬉しい!剣が習えるのですね!」

藤吉郎の言葉を切って信乃は満面の笑みでそう続けた。

 それでもまだ少し息が切れている。

「はい、ええ、長い剣を――私が子供たちに教えているものと同じように練習を」

「ああ、ありがとうございます! ああ、よかった! これで姉さまに一歩近づけます。」

 姉さまに近づけますという言葉をきいて、なぜか藤吉郎の胸がチリリと痛んだ。

 異郷で、誰にも知られないように自らの運命と闘いながら、日々暮らす――その運命と、その荷の重さを思って藤吉郎は心が痛んだ。

 それにしてもあまりに信乃が無邪気に喜んでいるので、そういえばこんなにはしゃぐ信乃の姿を見たのは初めてではないかと藤吉郎は思った。

 ずっと笑顔でいたらいいのに。

 こんなにかわらしい――そう思ってみつめていると、信乃がふいにその視線に気づいたのか、笑顔を崩し表情を固くした。

 あっと思って藤吉郎が何か言おうとしたその時、下の方から蹄の音が響いてきた。みるみるうちに蹄の音は近づき、馬上の由良藤吾と家臣数人の姿が目に入った。

「父上!」

藤吉郎は叫んだ。

 藤吾は館の前の広場で下馬するなり、藤吉郎に向き直り、

「おう、藤吉郎、今帰った。」

そう声をかけた。

 それから、一緒にいる信乃に目をやると、

「信乃どのも一緒であられたか。うん、剣の稽古は進んでおりますかな。」

信乃は頭を下げ、

「はい、藤吉郎さまのおかげさまで、日に日に扱いやすくなっております。」

「それはよかった。」

藤吾は顔に満足そうな笑みを浮かべ、うなずいた。そして、信乃をまぶしそうにみつめると、

「実は――お館から客人をお連れした。どうしても信乃どのにお会いしたいとおっしゃられてな。」

そう言うと振り返って、後ろへと視線を送った。

「どれ、たきどの、お疲れ様でござった。大事はござりませぬか。」

そう、声をかける。

 「たき」という言葉をきき、信乃ははっとした。

 藤吾の視線にそってその後方へと目を向ける。

 馬からおりた家臣たちと下男が、馬を厩舎へと連れて行くのにはずれて、来栖兵衛とともに並んで立っている女がいる。女は信乃の姿を見止めると、こちらの顔を探るようにして近づいてきた。

 確かに、見覚えがあった。

「たきさん!」

信乃は思わず叫んだ。

 女はその声にはっとし、顔を途端に歪ませると、

「信乃ちゃん。」

はっきりとした口調で声を返した。

 たきが早足で歩み寄った。

 信乃の前まできて立ち止まると、信乃の両手をとって強く握りしめた。

「ああ、ああ、よかった、よかった――本当に、本当に、ご無事だったのですね。」

 たきの目から涙があふれる。

 たきの姿を見たとたんに、一月前に見納めた寒々とした大木村の風景が心の中によみがえってくる。家の前、神社、長老の家、たきの子供たち――

 村の穏やかだった冬の景色が蘇って来て、信乃の目から思わず涙がこぼれた。

 その頬を伝う信乃の涙を、たきは両手でぬぐいながら、

「心配しました、本当に。姉上さまのお最期は知らされたものの、信乃ちゃんの消息はどこからも聴こえてこない。もしや、はかなくなってしまったのか、それともどこぞの者にかどわかされたのか、気をもむ毎日でございました。稲賀どのに行方を、内密に探っていただけぬかと幾度もお願いしたものの、みつからず、もしや理由があって身を隠しておられるのか、とも思えば、あえて大仰にすることもかなわぬので、本当に身を切られるような毎日でございました。あなた様に何かあったならば、亡くなられたあなたの父上母上に、申し訳が立たぬと」

信乃はたきが言葉をつぐたびに「ごめんなさい、たきさん」を繰り返した。最後の「ごめんなさい」の言葉の後に、涙によごれた顔でたきは、笑顔をつくり、

「もう、いいのです、こうして、ご無事だったのですから。」

 信乃の目からとめどなく涙があふれて、たきは抱えるように信乃の体を抱きとめた。

「いろいろと、不安なこともございましたでしょう、よく、ここに、たどりつけたものです。」

 たきは信乃の背中をぽんぽんと叩いた。

 それでも涙は収まりそうもない。

 一同は声をかけ損ねて見守っていたが、たきの目にふと、二人をみつめる藤吉郎の姿が映り、

「この方は?」

と問うた。

 信乃がたきの肩から頭をもたげると、後ろから藤吾が

「うちの二番目のせがれでして、藤吉郎と申します。」

と言葉を継いだ。藤吉郎が小さく頭を下げると、

「剣を教えていただいております。」と信乃が小さく付け足した。

「まあ、剣を。」

「信乃どのは、なかなか筋がよろしくて。」

そう藤吉郎が言うと、たきは笑顔になり、

「まあ、そうですの。では、姉上様同様、そちらの腕はお父上ゆずりなのですね。」

「ほう、信乃どののお父上は剣士でございましたか。」

後ろから藤吾が声をかけた。

「はい、体を悪くして早くに亡くならねば、今頃は領国に名を馳せておいででしたでしょう。」

藤吉郎は得心がいったというような顔をした。

 そこで藤吾が「さて、積もる話もございましょうがここはお寒うございます、中へ」とたきを促した。たきは頭を下げながら、「こちらの巫女様にごあいさつ申し上げたいのですが。」と藤吾に言った。

 その言葉を信乃がききながら、ふと、たきは猟師小屋で対面した姉の最期をききたいのだろうかと思った。

 話すだろうか、橘の君は。

 話してよいものか、あの、姉の最期の言葉を――。

 

 橘の元に来栖兵衛の先案内があって、由良藤吾、藤吉郎、それにたきと信乃が、入って来た。

 蛇穴の手紙の中味を検討しているところだったので、幾分橘は動揺して、それから、平静を取り戻して一同に対面した。

 たきが橘に紹介されると、たきは手を膝の前について頭をさげ、橘に挨拶をした。

「このたびは信乃がお世話になりまして、ありがとうござります。」

たきがそう言って頭を上げ、その視線を橘に向けたとき、それを横で見ていた信乃は、橘の視線がいつもより冷たいような気がした。

 鋭さはそのままに、どこか冷たい。

「大木村村長どのの嫁御にあたられる方が、わざわざここまで会いにこられようとは思いもかけませなんだ。しかし、遠路はるばるよくぞ来られた。」

そう橘が告げると、たきが、

「いえ、信乃どのの父上は、わたくしの従兄にあたります。母上も親族なれば、亡き両親に代わりわたくしがこちらへ参るのは何の労苦もございません。この子を助けていただいた巫女どのには、ぜひお礼申し上げねばならぬと思いまして、こちらへご挨拶に伺いましてござります。」

その言葉をきいて、橘の冷たい目の色がやわらいだ。

「なるほど。」

そう言ったきり、橘はしばし沈黙した。

 しばし間があって橘は、

「して、こちらへは今宵お泊りになられるのか。」

そう尋ねた。

 たきが答えに一瞬ためらうと、その間に、

「一応、その予定でお連れいたしましたが、何か不都合でも。」

横から藤吾がそう続けた。それをきいた橘は、

「それはよい。今宵は信乃どのと、この部屋で枕を並べて語り明かされるがよい。」

 橘のその言葉をきいたとたん、信乃はふと、橘がたきに内緒の話があるのだと思った。

「いえ、本日は客室でお泊まりいただこうと」

と藤吾が言ったとたん、信乃が、

「いえ」と大きな声をたてた。

「いえ、あの、たきさんさえよろしければ、わたくしはこちらがよろしいかと。」

信乃の声に藤吾はやや驚いた様子を見せたが、信乃が必死の顔をしていうので、藤吾はははっと笑い、

「信乃どのはよほどこちらのお部屋がお気に入りと見える。わかり申した。たきどのはそれでよろしいか。」

「わたくしは、泊めていただけるならどこでも。」

たきはそう言って頭を下げた。そう言うと、藤吾が、

「どれ、では、橘の君と家臣どもにお館でのことを報告したのち、ささやかな酒宴でも開かせていただきましょうほどに、しばし休まれて旅の疲れをおとりください。」

「ありがとうございます。どうぞお構いなく。」

たきがそういうと、藤吾を先頭に皆その場から立ち上がった。

 藤吾が立ち上がると、その場にいた来栖兵衛が「のちほど呼びにまいります。」とたきに声をかける。

 たきがそのとき、視線を感じてそちらへと目をむけると、また先ほどの少年――藤吉郎がたきのことを見ている。――どこかもの問いたげな、どこか不安そうな顔だった。

 たきが不思議に思ってまなざしを向けていると、藤吉郎は軽く頭をさげ、たきから視線を外し、立ちあがった。

 それでたきは不審に思い、信乃の方へと目を向けたが、信乃は信乃で橘が六佐に抱えられるのをみつめている。

 その時たきは、この巫女は自身で歩けぬのだということに、初めて気がついた。

 

 六佐と橘が出て行くと、信乃とたきはその場に残された。

 たきはほっとため息をつき、

「お館にも劣らぬ、立派なお宅ですこと。大木村の山奥しか知らぬ我らには、どこか居心地が悪うございますな。」

そう言うと信乃が、

「私も、最初は驚きました。――でも、もう、慣れました。」

そう、懐かしそうにたきの顔をみつめながら言った。

「あの夜のことが、遠い昔のようです。」

言葉を続けた。

 たきはたきで、信乃のそんな顔を、やはりまぶしそうにみつめている。

「なんだか、ずいぶん大人びたように見えます。苦労が多かったのでしょう。」

「そんな、苦労など。―― 一人、逃れて、生きて、逃れて、それで苦労などと言っては、皆さまに申し訳が立ちませぬ。」

「信乃ちゃん。」

そう言って、たきは居ざり寄り、信乃の膝の上にある両手を、両の手で握った。

「あの日、何があったのか、詳しくはおききいたしませぬ。今は――。しかし、生きて残ったことを罪だと思うてはなりませぬ。小夜様が、ここにこうしてあるように、託した命ではございませぬか。」

 たきの強いまなざしが、まっすぐと信乃の目に向かってくる。信乃は見ていられなくて、目をそらせた。

 ――斬られたのではない、――斬らせたのだ。

 ふいに、あの日の猟師小屋での信乃の言葉がよぎった。

 ――斬らせたのだ。自ら招いて、斬らせた。

 ――なぜ――!

 ――あやつが、この猟師小屋で出会ったあやつが、わたしの目を、開いたからよ。

「それでも、村の方々があのような目にあったのは、元はといえば――」

たきは信乃の腕をぐっと握った。

「信乃ちゃん、信乃ちゃん。誰をせめておいでか。誰も、せめてはなりませぬ。すべては世のさだめ、決められたことなのでございます。」

 世のさだめ?

 世の、さだめ?

 どれが、世の、さだめなのだ。

 小夜が朔次郎と出会ったことか、朔次郎が小夜の目を開いてこたびのことを招いたことか、それとも――。

 信乃の目から涙がこぼれた。

 そしてその首を振った。

 またしても、あの白い雪の中に建つ、猟師小屋が目に浮かぶ。

 朔次郎のいる猟師小屋へ姉につかいを頼まれた。どんよりとした雲の下、雪の中を一人、食糧を抱えて歩いて行った――あの日から、次々と浮かんでくる。

 ならぬと思いながら秘密で食糧を運んだこと、朔次郎に思い捨てよと言ったこと、父たちにつめよられたこと、姉と朔次郎がさかれた夜――それから、再びあの男が現れて、一度村を追われ、また、あの地で姉の魂と再会した――。

「世のさだめというには、あまりにも――」

「あまりにもおつろうございますな。あまりにも、理不尽なことだらけでございます。それでも、そう思うて、生きていかねばらならぬのです。」

そこでまた、信乃は涙をこぼしながら首を振った。

「なれど、理不尽なれど、そうならぬようにも、できたやもしれませぬ。そう――どこかで、もっとよく考えておれば、もっと何かに気づいておれば、とめられたやも、しれぬのに。」

「信乃ちゃん。」

また、たきは腕を強く握り、信乃の顔をじっとみつめた。そして、

「とめられなかったのです。」

たきの言葉に、信乃は答えなかった。

「そう最初から、決められていたのです。」

 心の中で、信乃は、「それは違う」と思った。

 あれが「決められたこと」などであるだろうか。

 最初からそれが、なるはずのことだと、誰が決めるだろうか。

 神だろうか、それとも、目に見えぬ力だろうか。

 それとも――。

 それはどう考えても、「なるはずのこと」だと、信乃には思えなかった。

 姉と朔次郎が出会ってしまった。

 確かに私は、父たちに秘密のことをしゃべってしまった。

 あの男がまた、やってきた。

 私は姉を残して、あの神殿を去ってしまった。

 姉をあの男に斬らせてしまった。

 それがすべて、決められたことなのだろうか。

 涙が頬を、後から後から伝い始める。

 たきが腰を浮かせ、信乃の頭を両腕でつつんだ。

 その髪を優しくなでる。

 それでも、信乃は「違う」と思った。

 たきの胸に頭を預けながら、それでも「違う」と信乃は思った。

 

 夕刻より、たきのために広間で酒宴が開かれた。

 珍しくその席に、橘も参加した。

 藤吾が、たきに話しかける。

「大木村は、若いころ何度かこの来栖兵衛と共に行ったことがあります。当時はまだ村長どのがご健在で、闊達な壮年の方であられた。」

「まあ、義父の若いころをご存じで。」

「ええ、あの頃は、高階とも同盟を結んでおりましたから、国境いのことなどあまり気にかけることもなく、――無邪気でございましたな。こうなることがわかっておりましたら、もっと国境いを点検しておくのでした。」

「あの峠は、越え難しと昔から歌われております。侵される心配はよもやあるまいと、誰もが思っておりました。」

「それが油断だったのでしょうな。」

藤吾は酒をあおった。それにたきが銚子を向けると、「やあ、かたじけない」といって、盃をうけた。

「やはり、村人が知っている抜け道というのがあるのでしょうな。あのように小坂が参ったということは。」

「ええ、ございますことはございます。おそらく峠の道よりは行き良いでしょう。しかし、あの道は夜目にでもまぎれねば、なかなか村人の目に触れずで超えることは難しゅうございます。」

たきがそういうと、藤吾はたきの顔をみながら何か考える様子で、

「ほう、なるほど。」

と言葉をついだが、それきりその話題には何も触れなかった。

 料理が大量にもたらされ、酒宴の席がにぎわい始めた頃、皆の目をはばかってたきが席を外した。

 それを見止めた藤吉郎は、たきを追って広間を後にした。

 二人の動きをみとめていたのは、橘と来栖直衛だけだった。

 しばらくして藤吾が、「おや、たきどのはどこへ行かれた。」と言ったので、一同はようやく、たきがいなくなったことに気がついた。

「手水場に行かれたようにお見受けしましたが。」

そう直衛が答えると、

「ああ、そうか。それにしては、少し遅くはないか。何、迷っておられるのかな。」

すると給仕をしていたあきが横から、

「わたくし見て参りましょうか。」

と口をはさんだ。

 それに信乃がすぐに腰を浮かせ、

「いえ、私が見て参ります。知った者の方が、よろしいでしょう。」

そう言って立ち上がった。

 賑やかな広間を後にして、信乃はすでに日が暮れて、明かりのともされた廊下をわたり、手水場へと歩いて行く。そして手水場で、「たきさん」と声をかけた。

 返事がない。

 もう一度「たきさん。」と声をかけた。

 やはり返事がない。

 それで、かわやの中をのぞいてみたが、誰もいる気配はなかった。

 この知らぬ家でどこへ行ったのだろうと手水場を離れ、あたりを見まわしたが一向に気配がない。「たきさん」と声をかけながら廊下を引き返し、橘の居室へ戻ったかとのぞいてみたが、ここも人の気配がない。知っていそうな部屋を順に見てみるが、それも人の気配がないので、館の入口の方へとまわってみると、表から小さく話し声がきこえてきた。

 履物を履いて、入口の戸をあけようとしたところで、ふと、話し声がたきであることに気がついた。話し相手は、藤吉郎らしい。

 声をかけようと戸を開けようとした途端、「あれの姉は」とたきの声がきこえてきて、信乃はふと手をとめた。

「昔、旅の者と恋におち、かけおちしようとしたことがございました。」

「かけおちを? 許されぬ相手だったのですか。」

「いえ、あれは、巫女になることが決められた運命でございましたから。――我が村の巫女は、ただ人との婚姻はならぬという決まりだったのでございます。」

「神の嫁として生きろと。」

「そういうことでございますな。――それで、村のはずれの猟師小屋で密会しておりましたのを、あの子――信乃が知っていて、姉に口止めされていたのですが、父親たちに詰め寄られ、そのことを話してしまったのです。それで二人の仲は裂かれ、姉は正気を失ったように何日も泣き暮らしました。そのあと姉は人が違ったように冷たくなってしまい、信乃はそのことをずっと気にしていたようで――そのうえ、こたびのようなことになってしまい」

「小坂に斬られた、と。」

「ええ。」

「でもそれは、信乃どののせいではございませぬ。」

きいていて、信乃はぎょっとした。

 戸の向こうはしばらく沈黙していたが、続けてたきの声で、

「ええ、あの子のせいではありませぬ。あれの姉は、巫女に選ばれるだけあって、不思議の力が強い子でしたから、先のこともわかりましたでしょう。ある程度は予測がついたのに、ああなってしまったとしか思えませぬ。」

「それでも、防ぎきれることには限界がございましょう。あれは、誰のせいでもございませぬ。元はといえば高階が戦の種に村に攻め入る、その口実にしただけのこと。」

そこで会話は途切れた。二人とも言葉を続けない。出るべきか否かと信乃が思ったところで、

「あの子を――信乃を、藤吉郎さまは、お好きなのですね。」

また信乃はぎょっとした。

 それで、慌てて、これはきいてはならぬことだと頭をもたげた。とたんに、

「はい、一人の女人として、お慕いしております。」

そう、藤吉郎の答える声が帰って来た。

 はにかむようなたきの気配の後に、たきの声が続けて、

「ほんに、気持ちのよい『をのこ』であらしゃいますなあ。」

と関心する声がきこえてきた。そのあとすぐに藤吉郎の声で、

「しかし、信乃どのにはいいなずけどのが」

「なに、あの子の姉のことを思えば、我らもあの子に無理強いしようなどと思うてはおりませぬ。あの子が良いと思うお方と添い遂げられればよい。」

 信乃は動揺した。

 慌てて履物を脱ぐと、中腰のまま廊下をあがり、中へと急いで引き返した。

 

 夕刻になって、小坂靭実はお館に呼び出された。

 宴があるわけではなし、急ぎの会議があるわけではなし、特に何か呼び出されるような失態を犯した覚えもなかった。それでも呼び出されたということは、個人的な呼び出しなのだろうと思った。

 そしてお館につくと、いつものように廊下を案内され、いつものように奥の間に入っていった。そこでいつもと違うことは、高階隆明以外にもう一人、女人が居たことだった。

 女は眼差しをあげて靭実を見ると、にっこりと笑った。

「久しいの、靭実。」

女がそう声をかけると、靭実はその場に腰をおろし、手をついて頭を下げ、

「お劫さま、お久しうございます。」

 隆明の妹、劫(こう)だった。先代の側室の子で、靭実より二つ年上だった。隣国仁科に嫁いだが、一昨年、隆明と袂を分かって戦となったとき、敵方に逃がされて出戻っていた。

 子はなく、嫁いだ先の夫はその戦で散った。

 靭実がその場に腰を落ち着かせると、上座の隆明は改めて靭実に向きあった。隆明の脇に劫が座り、靭実に視線を向けている。

 劫が靭実に話しかけた。

「父君は、息災か。私は奥へこもったままめったと表へ出ぬゆえ、茂実にも長く会うてはおらぬ。」

「はっ、お心掛けいただきありがとう存じます。本日も戦準備に奔走しております。」

戦ときいて、お劫はまなざしを下げ、ため息をついた。

「――また、戦か。」

気のない返事だった。

 敵国へ嫁ぎ、一年あまりで帰りきてからは、うつうつと奥にこもっていることが多く、宴の席などにもめったに顔を出さなくなってしまった。

 元は利発で明るい姫だった。

 敵国へ嫁ぎ、夫を兄に攻め滅ぼされ、利発であるがゆえに、こもりがちなことになってしまうのかもしれない。

「姫様、一度宴の席などにおいでくださいませ。この靭実、剣舞などをお目にかけましょうほどに。」

言うと、劫は落としたまなざしをあげ、キララと目を輝かせた。

「ほう、靭実は剣舞をやるのか。それはさぞ、勇壮であろうな。一度見てみたいものだ。」

「ぜひ、お目にかけたく存じます。」

「以前は宴でもそのような姿を見たことはなかった。人は数年で変わるものだの。」

 劫の顔が少し明るくなり、靭実はつられて顔をほころばせた。

 しかし二人の会話をきき、見ていた隆明は、全く顔つきを変えなかった。それから、二人の会話の間合いをはかって、話を切り出した。

「靭実、本日呼び出したのは他でもない。」

言ってから、隆明はしばらく黙った。

 黙ったまま床に視線を落とした。

 ややあって、ため息をつき、まなざしをあげた。

 強い視線を靭実に向けると、

「そなたの縁談である。」

靭実は思わず目を見張った。

 言葉を返す間もなく、隆明はつづけて、

「この、お劫をもらってはくれぬか。」

そう言った。

 靭実は、隆明の言ったことを瞬時解しかねた。

 そして己の耳を疑った。

 ただの縁談話というだけではない。

 先代の庶子とはいえ、妹姫を一家臣に配すのだ。

 これは、一体――。

 

 それは一体いつからだったろう。

 館を奥へと急ぎながら、信乃は思い返していた。

 まだわずか一月ほどだ。

 ここへきて、一月ほどにしかならぬ。

 うす暗い廊下の中を行きながら、信乃は、宴の開かれた広間の明かりが目に入ると、立ち止まった。

 一番近い時から、過去へ向かって記憶を巻き戻す。

 剣の相手をしようと言い出した日――修練場で視線がまとわりついた日――熱く糸がからみつくように身をせめいできた気配――それでもどこかで「この人は、こんな人なのだ」と思い続けた。正月の夜――正月の日の朝、目の前にあるその広間で向けられた切ない視線――。

 大木村からの帰り、この道は高野へ通じているのだと言った。

 大木村で――

 あの白い雪景色の中、「この村へは、留まれぬのです。」と言われた。そう言われて顔をあげると、辛そうな顔をした藤吉郎の顔があった。

 どこからだろう――どこからだろうと思うにつけ、どこからであったかさっぱり思いだせない。

 胸が高鳴る。

 唇がわななきながら、信乃の目からぼろぼろと涙がこぼれた。

 ああ、「ならぬ」のに。

 誰も、思うてはならぬのに。

 この道に迷うては――引き寄せられては――ならぬのに。

 ならぬ、のだ。

 そうだ――という声がきこえたような気がして、信乃ははっとした。

 うす暗い廊下をゆっくりと振り返った。

 見ると、あの、白い女が立っている。

 どこかさびしげに見えたが、顔の様子はうかがえない。

 女は、また、ゆっくりと口をあけ、ならぬのだ、と言った。

 そうだ、ならぬのだ。

 ――ならぬ――生きては――ならぬ。

 いきては――

 信乃は後じさり、宴の催されている広間への道をとらずに、廊下から目の前の中庭へと下りた。

 それでも女はぼんやりと立ってみつめている。

 向かいの廊下へと上り、そこから手水場へと向かった。

 手水場の向こうには、この家の裏手へ抜ける闇が待っている。

 それでも信乃は、ふらふらと、足をとられそうになりながら、履物もはかず、そのまま地面をかけだした。

 闇をかける中で思い出す――あの時、あの闇の中を、何度姉の後を追って歩いたことだろう。

 まだ雪が残っていた。

 風も相当冷たかったろう。

 どこかで白く光る闇の中を、姉は何度も夜中に抜け出して、とり憑かれたように猟師小屋への道を急いだ。

 もちろん、猟師小屋には誰もいない。

 いないに決まっている。

 それでも姉はひたすらにその道を行く。ハヤテを呼べば巫女姫様に気づかれるかもしれぬ。だから、歩いていくのだろう、信乃は声をかけることもかなわず、ただひたすらにその後を追った。

 姉さま――姉さま――ごめんなさい――姉さま――お許しください――お許しください、お許し、ください――! 姉さま!

 泣きながら、あとを追った。信乃に気付いているのか、いないのか、小夜はただひたすらに、闇の中を小屋へと歩いた。

 そして、小屋につくと、小夜は明かりもつけずに小屋の中で一人腰を下ろした。

 そっと明り取りの窓から中をのぞく。

 真っ暗な中で、小夜が身動き一つせず座っているのがうかがえた。

 泣いているのだろう。

 気配でわかった。

 この寒い中で火もたかず、泣いているのだろう。

 壁際に信乃は、中にいる小夜に向かってただひたすら、凍える手を合わせ続けた。

 姉さま――ごめんなさい――姉さま、お許しください。姉さま、姉さま――!

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